二百人の村——枠組みが軋む音
カッセルでの月半分の任務を終えて帰還した健悟が、まず気づいたのは匂いだった。煮炊きの煙が村全体を覆う灰色の靄になっている。人の生活臭。洗濯物が干された縄。焚き火の残り香。かつての静かな辺境村には——なかった匂いだ。
街道を歩いて村に入ると——風景が一変していた。
村の空き地という空き地に、仮設の天幕が立ち並んでいる。荷車が路肩に積み上げられ、洗濯縄が建物の間に張り巡らされている。子供たちが走り回り、赤ん坊の泣き声が聞こえる。通りを歩く人の数が——三ヶ月前の四倍はいる。
(これは——難民キャンプだ)
前世の国交省時代、被災地視察で見た仮設住宅群を思い出した。あの時と同じ光景が——異世界の辺境村に広がっている。違うのは——ここには行政機関がないことだ。
井戸の前に行列ができていた。十人以上が桶を持って並んでいる。五十人の村では見たことのない光景だ。行列の中で——押し合いが始まっている。声が荒い。
「先に来たのはこっちだ」
「子供が熱を出してるんだ、先に汲ませてくれ」
「よそ者が偉そうに——」
よそ者。その言葉が——空気を凍らせた。既存住民と避難民の間に、目に見えない壁がある。
「健悟さん!」
リーゼが走ってきた。亜麻色の髪が乱れている。頬に泥がついている。目の下に隈がある。服の袖に——子供の涙の跡がついていた。泣いている子供を抱いていたのだろう。二十歳の村長は——明らかに限界に近い。
「お帰り——ごめん、出迎えに行けなくて。井戸のところで揉め事があって——」
「何人ですか」
「——二百十三人。最後に数えた時点で。昨日も五人来た」
五十人の村が、二百人を超えた。四倍以上。健悟の脳裏に数字が走る。上水道のキャパシティ。排水の処理能力。食料備蓄。住居。衛生管理。全てが——赤信号だ。
ロッテの宿に入ると、食堂が難民の臨時宿泊所に変わっていた。テーブルは壁際に寄せられ、毛布が床に敷き詰められている。子供を抱いた母親が壁にもたれかかり、疲れ切った顔で目を閉じている。老人が隅で膝を抱えている。空気が重い。人が多すぎる場所特有の——圧迫感がある。
ロッテが大鍋でスープを配っていた。鍋は三つ。いつもの一つでは足りない。ロッテの腕が——いつもより疲れて見える。しかし手は止まらない。一杯、また一杯。全員に行き渡るまで。
「ロッテさん」
「おかえり、健悟。見ての通りさ。宿のベッドは全部埋まってる。廊下も倉庫も食堂も貸し出した。パンは朝しか焼けない。——スープは薄くなったけど、量だけはなんとか保ってる」
ロッテの声は疲れていたが、笑っていた。額に汗が光っている。この女性は——どれだけ人が来ても、追い返さない。それがロッテだ。
リーゼが食堂の隅に健悟を連れていき、現状を説明した。
「グライフ村とフォルスト村からの避難民がほとんど。あと、もっと遠くから来た人も——南のメルツ方面からも来てる。魔物被害が——どんどん広がってるの。ガルドが巡回を強化してるけど、自警団五人じゃ——二百人は見きれない」
リーゼの声が——少し震えた。しかしすぐに持ち直した。この村長は——弱音を長く吐かない。
「食料は」
「あと十二日分。マルテが計算してくれた。イレーネの次の便が七日後に来る予定だけど——今の消費速度だと足りるか分からない。マルテは追加発注をかけたって言ってたけど、値段が上がってるわ」
「水は」
「井戸の水量が——目に見えて下がってる。上水道は五十人分の設計だから——四倍の人間が使えば当然だよね。朝は一時間並ばないと水が汲めない」
「衛生設備は」
「トイレが——全然足りない。仮設で穴を掘ったけど、場所が悪くて——井戸の近くに掘った人がいて、水が汚染されかけた。トビアスが慌てて埋め直したけど——」
健悟の顔が——険しくなった。井戸の近くにトイレ。それは最悪の配置だ。地下水汚染が起きれば——疫病に直結する。
健悟は目を閉じた。数字が頭の中で組み上がっていく。五十人の村のインフラに二百人が乗っている。それは——設計荷重の四倍だ。橋で言えば——崩落寸前だ。
「現場を見せてください」
村の共同井戸に向かった。午後の光が井戸の縁石を照らしている。縁石はすり減っていた。何百回も桶が擦れた跡が、石の表面を削っている。ロープは毛羽立ち、一本は切れかけていた。滑車が軋む音を上げている。三ヶ月前に修繕した井戸が——もう悲鳴を上げている。五十人分の井戸に二百人が群がれば当然だ。
健悟は《万象鑑定》を発動した。青い構造線が井戸と地下水脈に走る。
【ハルベルト・インフラ診断(緊急)】
【上水道:設計容量50人分 → 現在負荷213人(過負荷426%)】
【井戸水位:通常比-38%(過剰汲み上げによる水位低下)】
【排水処理:設計容量超過(衛生リスク:高)】
【住居充足率:31%(必要住居69棟に対し現存21棟)】
【食料備蓄:12日分(人口比換算)】
【衛生崩壊予測:14日以内】
十四日。二週間で衛生崩壊する。水が足りない。排水が追いつかない。トイレが不足している。この状態が二週間続けば——疫病が発生する。前世の被災地で見た仮設住宅の衛生崩壊。あの時は——書類を書くだけだった。報告書を上げるだけだった。ここでは——自分がやらなければならない。
(前世の被災地支援マニュアルが頭に浮かぶ。災害時のインフラ復旧優先順位。一番は水。二番は衛生。三番は住居。順番を間違えたら——人が死ぬ)
「リーゼさん。率直に言います」
リーゼの碧い目が——真っ直ぐに健悟を見た。
「このままでは、二週間で衛生崩壊します。水の汚染が始まれば疫病が発生する。疫病が出れば——避難民だけでなく、元からの住民も危険です」
リーゼの顔から血の気が引いた。しかし——逃げなかった。目を逸らさなかった。
「どうすればいい」
「応急処置はできます。しかし——根本的な解決には、村の設計を変える必要がある」
「設計——?」
「この村は五十人のために設計されたインフラです。二百人を支えるには——上水道、下水道、住居、市場、全てを作り直す必要がある。村ではなく——町として、設計し直す」
リーゼが息を呑んだ。町。その言葉の重さが——二十歳の村長の肩にのしかかる。
「でも——私たちには時間が——」
「時間がないからこそ、やるんです。応急処置で時間を稼ぎながら、同時に恒久的な都市計画を走らせる。前世の被災地復興と同じです。仮設住宅を建てながら、復興計画を策定する。二つの時間軸を同時に走らせる」
リーゼは——長い息を吐いた。窓の外を見た。仮設の天幕が広がっている。子供の笑い声が聞こえる。避難民の中に、畑仕事を手伝い始めた男がいる。この人たちは——ここに来た。ハルベルトを信じて。
ガルドが食堂に入ってきた。剣の柄に手を置いたまま。大きな体が入口を塞ぐ。
「健悟。帰ったか」
「状況は——見ました」
「見た通りだ。自警団は五人。管理すべき人間は二百人以上。揉め事は毎日三件以上起きる。——正直、限界だ」
ガルドが弱音を言うのは珍しい。しかし四十五年間戦い続けた男が——疲弊している。それだけ状況が深刻だということだ。
「やろう」
リーゼが振り向いた。碧い目に——覚悟があった。
「町にする。この村を——みんなが住める町にする。健悟さん、設計して」
健悟は頷いた。テーブルの上に羊皮紙を広げた。魔法ペンを取り出した。フェリスから受け継いだペンが——前世の油性ペンに代わる設計道具だ。ランプの灯りの下で——二枚の図面を並べて描き始めた。左が現在の村。右が——あるべき町。
現在の村の図面には——赤い印が散らばっている。インフラの過負荷箇所。水。排水。住居。全てが限界を超えている。右の図面には——碁盤の目のような区画が描かれていく。居住区。商業区。公共区。防災動線。
リーゼが図面を覗き込んだ。
「これ——全部やるの?」
「全部やります。ただし優先順位がある。まず水と衛生。次に住居。その次に市場と行政。前世の都市計画の基本原則です——生きるためのインフラが最初。暮らすためのインフラが次。栄えるためのインフラが最後」
「健悟さんの前の世界って——本当に書類と計画の国だったんだね」
「否定しません。しかし——計画がなければ、混乱は収まりません」
五十人の村のインフラが軋んでいる。崩壊までの猶予は十四日。その十四日の間に——この村を町に変える。過労死した官僚が、二度目の人生で最大の都市計画に挑む。
(前世では——復興計画書を書いた。被災地のために。しかし書類を書くだけで、現場には行かなかった。ここでは——自分が現場だ。書くだけじゃない。作る。自分の手で)
窓の外で——仮設天幕の隙間から子供の笑い声が聞こえた。避難民の子供たちが、ハルベルトの子供たちと遊んでいる。子供は早い。大人が壁を作る前に——もう仲間になっている。
テール川の水音が、窓から流れ込んでいた。港の灯りが遠くに見える。あの港を作った時と同じだ。問題がある。解決しよう。ただし今回は——規模が違う。橋一本ではない。道路一本ではない。町を、丸ごと一つ——設計する。




