二枚舌の商人
その知らせをもたらしたのは、ザインの二通目の密書だった。イレーネの船の船員に託され、魚の干物の包みに紛れて届いた。ロッテが干物を仕分けているときに——紙片が落ちた。
「あら。——健悟さん、これ、あんた宛てだよ」
紙片を開いた。ザインの筆跡。走り書きだ。急いで書いたのが分かる。
「イレーネ・ヴァッサーが伯爵に定期報告を行っている。ハルベルトの建設事業の進捗、交易同盟の条件、古代遺構の存在——全て筒抜け。ただし彼女は伯爵の間者ではない。自発的な情報提供だ。商人としての保険」
健悟は紙片を読み終え、暖炉に入れた。紙の端が赤く燃え、ザインの文字が灰に変わっていく。証拠を残してはいけない。ザインの立場を守るために——この紙片は存在しなかったことにする。
紙が完全に灰になるのを確認してから——健悟は考えた。
怒りは——なかった。
(イレーネは商人だ。利益のために動く。そして商人にとって最大のリスクは——権力者との対立だ。伯爵に情報を提供することで、イレーネは「伯爵の味方」という保険を得ている。同時にハルベルトにも出資している。二つの賭けを同時に張っている。——商人として、これ以上なく合理的だ)
リーゼに伝えるべきか。ガルドに伝えるべきか。マルテには——必ず伝えなければならない。
マルテを最初に呼んだ。商人には商人の言葉で伝える必要がある。
マルテは——予想に反して、冷静だった。
「……そうね。イレーネならやるわ。商人として——当然の行動だわ。私だって——立場が逆ならやるかもしれない」
帳面を開いた。仮合意の条件を見直している。
「でも条件は変えないわ。イレーネが情報を流そうが——契約は契約よ。むしろ——伯爵が正確な情報を持っている方が、無茶な干渉はしにくいわ」
マルテの分析は正確だった。ロッテ仕込みの胆力がある。
次にリーゼを呼んだ。村長の執務室で、健悟はザインの密書の内容を伝えた。リーゼの反応は——マルテとは違った。碧い目が暗くなった。
「イレーネが——伯爵に報告していたの」
「はい。しかし間者ではありません。商人としての自衛行動です」
「でも——裏切りでしょう? 私たちと交渉しながら、裏で伯爵に——」
「裏切りではありません。なぜなら——イレーネは私たちに忠誠を誓っていない。彼女は商人です。利益のために動く。忠誠の対象は利益だけです」
リーゼが黙った。亜麻色の髪の下で、碧い目が揺れている。二十歳の村長には——この種の冷酷な合理性は、まだ馴染みがないのだろう。
「怒らないの? 健悟さんは」
「怒っても解決しません。大事なのは——この状況をどう活かすかです」
「活かす——」
「イレーネが伯爵に報告しているということは——伯爵はハルベルトの情報を正確に持っているということです。事業計画書の内容も、イレーネ経由である程度は伝わっている。となれば——計画書の提出は、サプライズではなく確認行為になる。伯爵は既に判断材料を持っている。計画書は、それに公式の裏付けを与えるものです」
健悟の頭の中で——国交省時代の交渉術が回っている。相手が情報を持っていることを——逆手に取る。
「むしろ——イレーネが正確な情報を伝えてくれていた方が都合がいい。嘘や誇張が入った情報で判断されるよりも——正確な数字で判断される方が、私たちには有利です。前世の国交省でも——審議会に正確なデータを出す方が、結果的に有利な判断を引き出せました。数字は嘘をつかない。そして——私たちの数字は本物です」
リーゼが深呼吸した。そして——頷いた。
「わかった。——でも、イレーネに直接聞きたい」
「リーゼさん——」
「村長として。正面から聞く。裏でこそこそするのは——私の性分じゃないから」
午後。リーゼはイレーネの部屋を訪ねた。
健悟は同行しなかった。リーゼが一人で行くと言ったからだ。村長として——自分の言葉で。
ロッテの宿の最も良い部屋。イレーネは窓際の椅子に座り、帳面を広げていた。リーゼが入ると、イレーネは帳面を閉じた。
「村長さん。——何かしら」
「単刀直入に聞きます。伯爵に——ハルベルトの情報を報告していますよね」
一瞬の沈黙。イレーネの目が——わずかに細くなった。しかし動揺はなかった。想定していたのだろう。
「……ええ。報告しているわ」
「なぜ?」
「商人だから。——伯爵の領地で商売をする以上、伯爵との関係は維持しなければならない。情報を提供するのは——商人としての当然の行為よ。忠誠心ではなく、合理性」
「健悟さんも同じことを言いました」
「あなたの参謀は賢い人ね。——でも、あなたが直接来たことは、彼より賢い判断かもしれないわ」
「どういう意味?」
「健悟さんが来ていたら——私は交渉の延長だと思ったでしょう。でも村長が来た。それは——交渉ではなく、対話。人と人の話よ」
イレーネの声が——わずかに柔らかくなった。商人の仮面の下に、人間が見えた瞬間だった。
リーゼが一歩前に出た。小さな体が——イレーネの前に立つ。亜麻色の髪が午後の光に透けている。碧い目が——商人をまっすぐに見ている。
「情報を伯爵に流すのは——止められないでしょう。止めてくれとも言いません。でも——一つだけ約束してほしい」
「何かしら」
「嘘をつかないこと。伯爵に報告するなら——正確な情報を報告して。私たちの悪口でも良い。でも嘘だけはつかないで。事実を歪めないで」
イレーネが——まばたきした。予想外の要求だったらしい。秘密を守れと言うと思っていたのだろう。あるいは情報提供をやめろと。しかし——正確な情報を報告しろという要求は、商人の想定外だった。
「なぜ?」
「だって——事実の方が、嘘より私たちに有利でしょう? 健悟さんが作った数字は本物だもの。本物の数字を見れば——伯爵だって認めざるを得ないはず」
イレーネが——笑った。深紅のドレスの肩が揺れた。声を出して笑った。
「あなた——面白い村長ね。情報が漏れていると知って、怒りもせずに『正確に漏らせ』と言うなんて」
「怒っても仕方ないでしょう。それより——協力した方がお互い得じゃないですか」
「……確かに」イレーネが笑みを収めた。目が真剣になった。「正確に報告するわ。約束する。——実を言うと、伯爵に報告した方がいいこともあるの。伯爵は不確実な情報を嫌う。正確な報告は——伯爵の判断を正しい方向に導く。結果的に——ハルベルトに有利に働くかもしれない」
「それが——合理的な商人の考え方?」
「そうよ。情報は武器にも盾にもなる。使い方次第——それが商人の道具よ」
リーゼが手を差し出した。
「約束ね。——正確に」
イレーネが手を握った。今度は仮合意ではなく——個人的な約束。商人と村長の間の、小さな信頼の芽。
部屋を出たリーゼの頬が——少し赤くなっていた。手が微かに震えている。緊張していたのだ。イレーネのような百戦錬磨の商人の前で、二十歳の村長が——自分の言葉で切り込んだ。それでも——逃げなかった。正面から、自分の言葉で。
健悟が廊下で待っていた。
「どうでしたか」
「約束してもらった。正確に報告するって。——嘘つかないって」
「それが最善の対応です。リーゼさんは——良い村長です」
リーゼが照れ笑いした。亜麻色の髪をかき上げた。
「良い村長かどうか分からないけど——逃げない村長ではいたいから。お父さんが——昔そう言ってたの。村長は逃げちゃいけないって」
リーゼの父は前の村長だった。数年前に病で亡くなり、リーゼが跡を継いだ。二十歳の村長。若すぎると言われた。しかし——この村に他に立候補する者はいなかった。その重荷を——今日も一つ、背負った。
窓の外でテール川が冬の光を受けて流れていた。
ガルドが廊下の奥から歩いてきた。腕を組んでいる。
「聞いたか。イレーネの件」
「聞いた。——俺なら斬るが」
「斬らないでください」
「斬らん。健悟が斬るなと言うなら——斬らん」
ガルドの声は低いが、冗談だ。半分は。健悟は苦笑した。
「イレーネは敵じゃありません。商人として当然のことをしているだけです」
「当然——か。冒険者の世界では、仲間の情報を売る奴は——殺されるぞ」
「ここは冒険者の世界じゃなくて、交易の世界です。ルールが違います」
ガルドが鼻を鳴らした。しかし——それ以上は言わなかった。剣の世界と商売の世界の違いを——この老戦士も理解し始めている。
情報の川は——テール川と同じように流れている。止めることはできない。ならば——流れの方向を、自分たちに有利に整えればいい。それが情報戦の基本中の基本だ。
夕暮れの空がテール川の上で赤く燃えていた。河港の建設は続いている。岸壁の右翼がもうすぐ完成する。イレーネの船が岸に繋がれたまま——風に揺れていた。帆柱にランタンが一つ灯っている。商人の船は利益のある場所から動かない。そして今、利益はこの場所にある。情報を流しても、出資を引き上げない。それが——イレーネなりの答えだった。




