名前で呼ぶ夜——堤防の上の焚き火
テール川は平水位に戻っていた。堤防の天端から水面まで一メートル以上の余裕がある。空は高く、風は乾いている。洪水の痕跡は村のあちこちに残っているが——泥は乾き始め、道路は歩けるようになった。
堤防の補修が進んでいた。急速硬化マギクリートの区間を、通常配合のマギクリートで上塗りする。接合部の隙間を本充填する。土嚢で嵩上げした区間を、恒久的なマギクリートの壁に置き換える。ドラガとトビアスが指揮を執り、村人たちが手伝う。
健悟は設計図を広げ、補修の優先順位を指示していた。しかし——もう急ぐ必要はない。次の増水まで時間がある。雨季の波は一度来たら、次は二週間ほど間隔が空く。ノルンの記録にもそう書いてある。
「今回の経験を踏まえて、設計を修正します。天端の高さを十センチ上げる。接合部の構造を改良する。排水溝の容量を二割増やす」
「予算は?」マルテが聞いた。
「追加の資材費は——砕石と魔法石粉で銀貨二十枚ほどです」
「二十枚ね。——出すわ。今回の洪水で被害がゼロだった。これが続くなら、二十枚は安い投資よ」
マルテの目が真剣だった。商人として——インフラ投資の価値を、身をもって理解したのだ。
夕方。リーゼが提案した。
「今夜——堤防の上で焚き火をしない?」
「焚き火?」
「お祝いだよ。みんなで頑張ったんだから。——ちょっとくらい、休んでもいいじゃない」
健悟は反射的に「まだ補修が——」と言いかけた。しかし——リーゼの顔を見て、言葉を飲み込んだ。碧い目が笑っている。三日間の緊張が解けた後の、柔らかい笑顔だ。
「そうですね。——休みましょう」
(休むのが苦手だ。国交省時代もそうだった。仕事が終わっても次の仕事のことを考えてしまう。しかし——ここでは、休む理由がある。共に戦った仲間がいる。一緒に火を囲む理由がある)
夜。堤防の上に焚き火が燃えていた。
マギクリートの灰色の壁の上に、橙色の炎が揺れている。三日前、この場所は戦場だった。泥と水と人間の怒号が渦巻いていた。今は——穏やかな夜風と虫の声だけが聞こえる。テール川が静かに流れている。月明かりが水面に銀の道を作っていた。
村人たちが堤防の上に座っている。全員ではない。疲れて先に寝た者もいる。しかし——主要なメンバーは全員いた。
ロッテが酒と干し肉を運んできた。「お祝いだからね。蔵の奥から出してきたよ。——とっておきの蜂蜜酒だ」。琥珀色の液体が、焚き火の光に透けている。
ノルンが薬草茶を持参していた。「あたしは酒はやめたんだよ」と言いながら、静かに焚き火を眺めている。記録帳を膝の上に置いている。今夜のことも——記録するのだろう。
ドラガが酒を受け取り、一口で飲み干した。
「ふむ——悪くないぞい。じゃが、ドワーフの石窯酒には及ばんな」
「ぜいたくを言うんじゃないよ、ドワーフさん」ロッテが眉を上げた。
「事実を言っただけじゃ。——しかし、二杯目をもらおうか。悪くないものは二度飲む価値がある」
「さっき『及ばない』って言ったばかりじゃないか」
「及ばんが不味いとは言っとらん。微妙に違うんじゃ」
ロッテが「面倒なドワーフだね」と言いながら酒を注いだ。ドラガが満足そうに顎鬚を撫でた。この二人のやりとりは——もう村の日常の一部になりつつある。
トビアスが堤防の縁に足を投げ出して座っていた。テール川を見下ろしている。
「健悟さん。俺——建設の仕事、好きかもしれないです」
「畑仕事は?」
「畑も好きですよ。でも——何かを作って、それが残るっていうのは——いいなって。堤防って、俺がいなくなっても残るじゃないですか」
「残りますよ。マギクリートなら——少なくとも五十年は」
「五十年——」トビアスが遠い目をした。「俺のじいちゃんが五十年前に死んだんですけど、じいちゃんが作ったものなんて一つも残ってないですよ。でもこの堤防は——俺の孫が見るかもしれないんですね」
健悟は何も言えなかった。インフラの本質を——この若い農夫が、自分の言葉で語っていた。前世で何百ページもの報告書に書いたことを、トビアスは二行で表現した。
マルテが帳面を閉じた。今夜は——計算をやめたらしい。蜂蜜酒を一口飲んで、焚き火を見つめている。
「ねえ健悟。堤防が完成したら——次は何をするの?」
「街道の復旧です。交易路が整備されれば——」
「やっぱり。——あたしもそう思ってたわ。堤防で村を守った。次は——村を外と繋ぐ番ね」
「気が早いですね」
「商人は先を読むものよ。利益が出るなら——先に動くわ」
マルテの目が、炎の向こうで光った。野心ではない。希望だ。この村に未来がある——その可能性に賭ける、若い商人の目。
ガルドが酒を注ぎに来た。
健悟の隣に座り、黙って杯を渡した。琥珀色の蜂蜜酒が、焚き火の灯りを吸い込んでいる。ガルドの顔は——いつもの無骨な表情だ。しかし——どこか違う。目元が、ほんの少し緩んでいる。
「健悟」
「はい」
「お前は——この村に来てくれてよかった」
健悟は——杯を持つ手が止まった。
ガルドは正面を見ている。テール川を。月明かりに照らされた水面を。三日前、その水が村を飲み込もうとしていた。その水を——この男は体で止めた。
「俺は冒険者をやめて、この村に戻った時——何もできることがないと思っていた。剣を振ることしか能がない男が、衰退していく村で何ができる。——そう思っていた」
ガルドの声は低い。いつもの武骨な声だ。しかし——今夜は、どこか柔らかい。
「お前が来て——橋を直した。堤防を作った。ドワーフを呼んだ。村が——動き始めた。俺にも——やることができた。堤防を守ること。村人を守ること。それが——俺の仕事だと思えるようになった」
「ガルドさんがいなければ、鉄砲水で堤防は壊れていました。あなたの腕が——」
「そうじゃない。——俺が言いたいのは、そういう話じゃない」
ガルドが健悟を見た。暗い茶色の目が、焚き火の灯りを映している。
「お前がいたから——俺は自分の居場所を見つけた。それだけだ」
健悟は——何と答えていいかわからなかった。国交省時代、上司に褒められたことはある。人事評価で「A」をもらったこともある。しかし——こんな言葉を言われたことはなかった。
「まだ始まったばかりです」
それだけ言った。それしか言えなかった。
ガルドが薄く笑った。「ああ。——まだ始まったばかりだ」。杯を軽く掲げた。健悟も杯を掲げた。乾杯——とは言わなかった。ただ杯を合わせた。蜂蜜酒が温かかった。
ドラガが焚き火に薪をくべながら言った。
「健悟。マギクリートの本格生産を始めたいのじゃが」
「本格生産?」
「鍛冶場を完全に修復して、大型の炉を使えるようにする。魔法石粉の精製も——もっと効率化できる。そうすれば——堤防だけでなく、建物や道路にも使える建材が量産できるぞい」
ドラガの目が輝いていた。職人の情熱だ。新しい素材を極めたい、もっと良いものを作りたい——その衝動が、二百年を超えた老体を突き動かしている。
「予算と人手の問題はありますが——ぜひ、やりましょう」
「おう。素材が泣いとるからな」
マルテが身を乗り出した。
「ねえ。街道の復旧に着手すれば、交易が再開できるわ。交易が動けば——マギクリートの販路も開ける。隣町の建設需要は——あるはずよ」
「販路——」健悟は考え込んだ。マギクリートを商品として売る。堤防建設の技術を輸出する。それは——村の経済を根本から変える可能性がある。
「先の話ですが——面白いですね」
「先じゃないわよ。街道を直すなら——今から準備しないと」
マルテの商人の目が、焚き火の向こうで燃えていた。
リーゼが焚き火の前に座っていた。膝を抱えて、炎を見つめている。亜麻色の髪が焚き火の光で金色に輝いている。
「ねえ健悟」
「はい」
「碑文——覚えてる? 堤防工事の時に見つけた古い碑文」
「はい。ハルベルトがかつて『テール河港』だったという——」
「河港ってことは——昔はここに船が来てたんだよね。物資も人も——川を通ってここに集まってた」
「そうですね。三百年以上前の話ですが」
リーゼが川を見た。月明かりの水面が、静かに揺れている。
「もう一度——この村を交易の拠点にできるかな」
「できますよ。——時間はかかりますが」
「時間はある。雨季が教えてくれた。この村は——守る価値がある。守ったら——次は育てる番だよ」
リーゼの声が——夜風に溶けた。
焚き火が爆ぜた。火の粉が夜空に舞い上がった。テール川の上を、星の数ほどの火の粉が踊る。堤防の上——この村を守った壁の上で、小さな祝宴が続いている。
誰かが歌い始めた。古い民謡だ。ノルンが知っている歌。ロッテも歌える歌。村人たちが一人、また一人と声を重ねていく。歌詞は知らない。しかし旋律は——温かい。
健悟は歌えなかった。異世界の民謡を知らない。しかし——聴いていた。堤防の上で、焚き火の前で、仲間の歌声を聴いていた。
(ここは——悪くない場所だ)
蜂蜜酒の最後の一口を飲んだ。甘く、温かかった。
テール川が——星を映して、静かに流れていた。




