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過労死した国交省官僚、異世界で《万象鑑定》を得て辺境村のインフラを直したら交易都市の王になっていた件  作者: ぽんぽこライフ


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最後の堤防——村人の鎖

 雨はさらに強くなった。視界が五メートル先で白く霞む。堤防の上に立つ健悟の全身が、絶え間ない雨に打たれている。もう濡れているという感覚すらない。体温が奪われ、指先が痺れている。


 テール川の水位は——堤防の天端まで二十五センチ。計算では三十センチで止まるはずだった。しかし雨量が予測を超えている。上流からの流入量が、計算の前提を超え始めた。


 (河川局時代のシミュレーションでも同じことがあった。自然は——計算を超えてくる。モデルの精度がいくら上がっても、想定外は必ず起きる。想定外に備えるのが——防災だ)


 松明の灯りが堤防の上に並んでいた。雨で何度も消えかけるのを、村人たちが交代で火をつけ直している。闇の中では堤防の状態が見えない。灯りは——命綱だ。


 ガルドが堤防の南端から北端まで巡回していた。鉄砲水で接合部を押さえた疲労が残っているはずだが、足取りは揺るがない。自警団のメンバーを要所に配置し、二時間交代のシフトを組んでいた。冒険者時代の夜営の要領だ。


「南側は安定している。問題は——」


「北端です」


「ああ」


 北端の接合部。ドラガが応急充填したマギクリートが、水圧に耐えている。しかし完全硬化にはまだ時間がかかる。そしてその北端の向こう——堤防が途切れている区間。土嚢だけで仮設した防壁が、最も脆弱な箇所だ。


 リーゼが温かいスープを配っていた。ロッテとノルンが夜通し作り続けているスープだ。カブと干し肉の素朴な味。しかし冷え切った体には——薬草茶より効く。村人たちが交代で堤防を降り、スープを飲んで、また戻る。


 健悟もスープを受け取った。椀を持つ手が震えた。寒さだけではない。緊張だ。


 (国交省で徹夜は日常だった。しかしあれは暖房の効いたオフィスで、コーヒーを飲みながらの徹夜だ。雨と泥にまみれて、いつ堤防が崩れるかわからない中での徹夜とは——まるで違う)


 深夜二時。


 カールが上流から走ってきた。息を切らしている。靴が泥で重くなっている。


「また水が増えてる! さっきより——明らかに多い!」


 健悟が堤防の側面を確認した。水位は——天端まで二十センチ。さっきより五センチ上がっている。上がるスピードが再び加速した。


「上流で——何かが起きています。もう一本、倒木が崩壊したか、あるいは——支流からの流入が増えた」


 鑑定をかけた。川の水に手を浸す。冷たい。指が痛いほど冷たい。


  【水質分析:泥分含有量高い(上流土砂崩れの可能性)】


  【水温:低下中(支流からの雪解け水混入を示唆)】


  【推定ピーク水位:現在の堤防天端+5cm(越水リスク)】


 天端プラス五センチ。越水する。


「リーゼさん——」


「聞いてた。越水するんでしょう」


 リーゼが横に立っていた。いつからいたのか。ずぶ濡れの亜麻色の髪が顔に張りついている。碧い目だけが、松明の灯りを反射して光っている。


「五センチ分です。大量の越水ではありません。しかし——土嚢の仮設壁は、越水に耐える構造ではない」


「じゃあ——どうするの」


「堤防の天端を嵩上げします。土嚢を天端の上に一段積めば——十五センチ分の余裕ができる。それで足りるはずです」


「土嚢は——あと何個ある?」


 マルテが暗闇の中から答えた。帳面を抱えている。雨で濡れないように体で庇っている。


「四十二個。ただし——北端の仮設壁に使った分を動かすと、そこが弱くなるわ」


「動かしません。四十二個で——足りるか」


 健悟は計算した。堤防の天端は幅六十センチ。土嚢を一段並べるのに必要な数は——越水リスクのある区間の長さで決まる。越水するのは堤防の中央から北端にかけての三十メートル。土嚢の幅が四十センチとして、一列に七十五個。


「足りません。七十五個必要です。四十二個では——半分しかカバーできない」


 沈黙が落ちた。雨音だけが響く。


 ドラガが口を開いた。


「健悟。越水する箇所を——もっと絞れんか。全区間が同時に越水するわけではなかろう」


「——そうです。越水は地盤が低い箇所に集中します。堤防の天端の高さは均一ではない。微妙な凹凸がある」


 健悟は堤防の天端を歩きながら鑑定をかけた。暗闇の中、手を天端に這わせる。青い構造線が——凹凸を可視化した。


  【堤防天端高さ分布】


  【最低点:中央低地付近(天端高250cm、他区間より8cm低い)】


  【越水開始点:この最低点から先に越水】


  【重点補強区間:12m(土嚢30個で対応可能)】


「十二メートルです。ここだけ嵩上げすれば——四十二個の土嚢で足ります」


「よし。やるぞい」ドラガが立ち上がった。小さな体に力がみなぎっている。


「全員、起きろ!」ガルドが叫んだ。冒険者の声が暗闘を裂いた。宿で仮眠を取っていた村人たちが、目をこすりながら堤防に戻ってきた。誰も文句を言わなかった。リーゼが最初に泥まみれになると言ったあの瞬間から——この村は一つになっている。


 土嚢リレーが始まった。


 村人たちが一列に並んだ。備蓄場所から堤防の天端まで——五十メートルの人の鎖。手から手へ、土嚢が渡されていく。暗闘の中、松明の灯りを頼りに。


 ロッテが列に加わった。宿の女将が、細い腕で土嚢を受け取り、隣に渡す。「重いね——」と呟きながら。しかし手を止めない。


 ノルンが杖をつきながら列の端に立った。土嚢は持てない。しかし——松明を持っている。灯りを掲げて、列を照らしている。年寄りの仕事だ。それが今——最も重要な仕事の一つだった。闇の中で方向を示す灯り。


 マルテが数を数えている。「二十三、二十四——あと十八!」。声が雨の中に通る。


 トビアスが堤防の上で土嚢を受け取り、積んでいく。正確に。隙間なく。建設班のリーダーとして培った技術が、ここで生きている。一個一個を踏み固め、水が通る隙間を塞いでいく。


 ガルドが列の中で最も重い土嚢を受け持っていた。両脇の村人が持てない分を、自分の腕力でカバーしている。筋肉は限界を超えている。しかし——立っている。


 水位が上がる。天端まで十五センチ。十二センチ。十センチ。


 土嚢は——三十個が積み終わった。あと十二個。


 ドラガが堤防の天端で、積まれた土嚢の隙間にマギクリートの残りを塗り込んでいた。即興の防水処理だ。「土嚢だけでは水が染みる。隙間を塞げば——壁になる」。職人の判断が、現場で即座に形になる。


 リーゼが列の先頭——備蓄場所の近くにいた。土嚢を持ち上げ、最初の人に渡す。腕が震えている。体力が限界に近い。しかし——止まらない。


「リーゼ。交代しよう」カールが声をかけた。


「まだ大丈夫。——あと十二個でしょ」


「大丈夫じゃないだろう。顔が真っ白だ」


「村長が先に倒れたら示しがつかないよ。——あと十二個。数えて」


 三十五個目。三十六個目。水位は天端まで八センチ。


 三十八個目。四十個目。トビアスの手が土嚢を並べていく。正確に。迅速に。


 四十一個目。四十二個目——最後の一個が、天端に積まれた。


「終わった——」マルテの声が震えた。


 水位が——天端に達した。水が土嚢の列にぶつかる。ドラガが塗り込んだマギクリートが隙間を塞いでいる。水は染み出そうとする。しかし——壁が持っている。五センチ、八センチ。水は土嚢の高さの半分まで来て——止まった。越水は——防がれた。


 ピーク水位。健悟の計算通り——天端プラス五センチ。土嚢の嵩上げが十五センチ。差し引き十センチの余裕。ぎりぎりだ。しかし——足りた。


 村人たちが堤防の上に座り込んだ。立っている力が残っていない。泥と雨水にまみれた顔が、松明の灯りに照らされている。疲労。恐怖。しかしそれ以上に——安堵。


 健悟は堤防に鑑定をかけ続けていた。水位の変化を、一センチ単位で追っている。目が霞む。二十四時間以上、眠っていない。しかし数字を見続ける。数字だけが——状況を正確に教えてくれる。


 (ピークだ。ここから——下がるはずだ。雨が弱まり始めている。上流の雲が東に流れている。降水量が減少に転じる。あと一時間もすれば——)


 ドラガが健悟の隣に座った。ドワーフの老体も、さすがに疲れている。しかし目は鋭い。


「健悟。堤防は持つか」


「持ちます。——持たせます」


「それを聞きたかったぞい」


 ドラガが顎鬚を絞った。水がぽたぽたと垂れた。二百年を超える人生で——こんな夜は何度目だろうか。しかしドワーフの目には、恐怖ではなく、静かな覚悟があった。


 四時。空の端が——わずかに白み始めた。


 水位が——一センチ下がった。堤防の側面に健悟が刻んだ目盛り線が、それを正確に示していた。


「下がり始めました」


 その声は小さかった。しかし堤防の上の全員に——届いた。


 リーゼが泥の中に座り込んだまま、空を見上げた。東の雲の切れ間から——朝の光が一筋、堤防の上に差し込んだ。


「持った——」


 誰かが呟いた。


「持ったよ——」


 リーゼの声だった。涙が頬を伝っている。雨なのか涙なのか——もう区別がつかなかった。


 堤防の上で、村人たちの鎖が——まだ繋がっていた。誰も、手を離していなかった。

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