決壊の瀬戸際——健悟の計算
夜通し降り続いた雨が、朝になっても弱まる気配がない。むしろ強くなっている。テール川の水位は、昨日の夕方から六十センチ上昇していた。健悟は堤防の上に立ち、川面を見下ろしている。濁った茶色の水が、うねるように流れていた。流速が速い。水面に枝や葉が浮かんでいる。上流の木々が折れ始めている証拠だ。
(河川局の洪水警戒マニュアルでは、水位上昇速度が毎時十センチを超えたら警戒レベル三。今の上昇速度は——毎時五センチ。まだ三に達していない。しかし雨量が増えれば加速する。問題は——ピークがいつ来るか)
昨夜の作業は、夜明けまで続いた。
ドラガの急速硬化マギクリートは——驚くべき速さで固まった。通常の養生時間の三分の一。型枠に流し込んでから四時間で、人が乗れる硬度に達した。魔法石粉の比率を上げた効果だ。強度は通常の七割だが、ないよりはるかにましだ。
危険箇所Aの接合部は、急速硬化マギクリートで補強を完了した。アンカー石を三個打ち込み、根入れを五十センチ確保した。鑑定の数値通り——耐力は一・四倍になった。
問題は危険箇所B。中央低地の補強が——まだ終わっていない。マギクリートは打設したが、硬化の途中だ。あと二時間は必要。
リーゼが堤防の上を走ってきた。雨具を着ているが、すでにずぶ濡れだ。亜麻色の髪が額に張りついている。
「健悟! 上流の見張りから伝令! 水位がさらに上がってるって!」
「どのくらいですか」
「わからない。でも、見張りのカールが『見たことない速さで増えてる』って」
カールは四十代の農夫で、テール川の上流に畑を持っている。川を二十年以上見てきた男の「見たことない」は——軽い言葉ではない。
健悟は堤防の上から川面に目を凝らした。水位の上昇速度を計測する。堤防の側面に昨夜刻んだ目盛り線。今朝の六時に水面があった位置から——もう十五センチ上がっている。二時間で十五センチ。加速している。
(ピークはいつだ。上流の降水量がわからない以上、正確な予測はできない。しかし——この流域の集水面積と川の勾配から逆算すれば、おおよその見当はつく)
健悟は頭の中で計算した。集水面積、降雨強度の推定値、流出係数、川の断面積、現在の流速。国交省時代に何百回とやった洪水予測の計算だ。数字は覚えている。公式は身体に染みついている。
健悟は目を閉じた。数字が頭の中で回転する。変数を組み合わせ、解を絞り込む。
「——あと二時間です」
「何が?」
「水位のピークが来るまで、あと二時間。この雨が続く限り、水位は上がり続けます。しかし上流の集水域の規模から考えて——ピークは二時間後。そこから下がり始める」
「二時間……」
リーゼの目が堤防の未完成箇所を見た。危険箇所B。マギクリートが硬化途中の、最も弱い部分。
「持つの?」
「持たせます」
断言した。根拠は——ある。計算上、ピーク水位は堤防の天端から三十センチ下。越水はしない。ただし——。
「ただし、亀裂が入る可能性があります。硬化途中のマギクリートは、水圧で割れることがある。そうなったら——」
「そうなったら?」
「人力で止めるしかない」
ガルドが自警団の四人を連れて堤防にやってきた。全員が土嚢を担いでいる。雨の中、泥だらけの顔で並んでいる。
「健悟。土嚢は百二十個準備した。どこに積む」
「危険箇所Bの裏側——堤防の村側に。もし亀裂が入った時に、水の浸入を食い止めるための第二防壁です」
「了解した」
ガルドが号令をかけた。短く、鋭く。冒険者時代の指揮官の声だ。パーティを率いて魔物と戦った男の声は——雨音に負けない。自警団が土嚢を積み始める。雨の中、黙々と。言葉は少ない。しかし手は止まらない。ガルド自身が最も重い土嚢を担いでいた。部下に任せるだけの男ではない。率先して泥に膝をつく。
トビアスが建設班を率いて、堤防の天端に砂利を敷き詰めていた。越水した場合に表面が削られるのを防ぐためだ。健悟の指示を——自分なりに解釈して、先回りして動いている。数週間前まで農作業しか知らなかった青年が、建設現場の判断を下している。成長している。
マルテが後方で物資の配分を仕切っていた。「食料は堤防組を優先! 交代要員は宿で待機!」と声を張り上げている。ノルンとロッテが大鍋で温かいスープを作り、堤防に運んでいる。ロッテの肩に——雨粒が跳ねている。
一時間が過ぎた。
水位は上がり続けている。堤防の天端まで——あと五十センチ。計算通りだ。ピークでは三十センチまで迫る。
雨脚が強まった。空から落ちてくる水の量が、目に見えて増えている。堤防の上に立っているだけで、足元に水たまりができる。排水溝が機能しているが——設計時に想定した雨量を超え始めている。
ドラガが堤防の打設面を点検しながら歩いていた。急速硬化マギクリートの表面を、太い指で叩いている。音で硬度を確認する。職人の技だ。
「南側は問題ないぞい。硬化も順調じゃ。じゃが——北側の接合部の音がいまいちじゃな」
「接合部は補強済みですが——不安ですか」
「不安とは言っとらん。音が甘い、と言っておる。ドワーフの耳は伊達ではないぞ」
ドラガは炉で焼いた金属の硬度を音で判別できる。その耳がマギクリートの状態を「甘い」と言う。健悟は接合部に鑑定をかけ直した。数値に変化はない。しかしドラガの感覚を無視するほど愚かではない。
「念のため、接合部にも土嚢を追加しましょう」
「うむ。備えあれば憂いなしじゃ」
しかし——計算にない事態が起きた。
ドラガが叫んだ。
「亀裂じゃ! 危険箇所Bに亀裂が走っとる!」
健悟が駆けつけた。マギクリートの表面に——一本の線が走っている。幅は一ミリもない。しかし長さは——二メートル。堤防の天端から底部に向かって、斜めに。
手を当てた。
【構造物:マギクリート堤防(急速硬化型)】
【亀裂深度:表面から12cm(全厚の40%)】
【硬化進捗:78%(完全硬化に未達)】
【水圧到達時予測:亀裂拡大→貫通リスク30%】
三十パーセント。低い数字ではない。しかし七十パーセントの確率で持つ。
(三割のリスクを許容するか。国交省なら——絶対に許容しない。安全率を見込んで避難勧告を出す。しかしここには避難する場所がない。村を守るか、村を捨てるかの二択だ)
「リーゼさん。亀裂が入りました。貫通するリスクは三割です」
「七割は持つってこと?」
「はい。ただし——」
「七割あるなら——守る」
リーゼの声に迷いはなかった。碧い目が、真っ直ぐに健悟を見ている。雨が顔を叩いているのに——瞬きもしない。
「この村は——守るよ。三年前は何もできなかった。家畜小屋が流されて、羊が死んで、みんな泥の中で泣いてた。もう——あんな思いはさせない」
声が震えていた。しかし震えは恐怖ではなかった。怒りだ。無力だった過去への怒り。
「土嚢を亀裂の裏側に集中させてください。万が一貫通した場合——そこが最終防衛線になります」
「わかった。ガルド!」
リーゼが叫んだ。ガルドが振り向く。
「亀裂の裏に土嚢を集めて! ここが——最後の壁だよ!」
ガルドが頷いた。自警団が動く。村人たちも動く。雨の中、泥の中。ノルンが杖をつきながら記録をつけている。この洪水もまた——記録に残すのだ。百年後の誰かのために。
水位が上がる。堤防の天端まで——四十センチ。三十五センチ。
亀裂が——わずかに広がった。
健悟は亀裂に手を当てたまま、鑑定を続けている。数値の変化を——一秒も見逃さない。
「硬化が進んでいます。あと三十分で八十五パーセントに達する。八十五を超えれば——亀裂の拡大は止まります」
「三十分——」
リーゼが空を見上げた。雨は——まだ止まない。
水位計を見る。天端まで四十センチ。上昇速度は鈍化し始めている。ピークが近い。計算は——合っている。あとは時間との勝負だ。
ドラガが亀裂の前にしゃがみ込んだ。太い手で表面を撫でている。
「亀裂の先端が止まっておる。広がっとらん。——健悟。硬化が追いついてきとるぞ」
「本当ですか」
鑑定をかけた。硬化進捗——八十一パーセント。さっきより三ポイント上がっている。亀裂の先端部分は——確かに、拡大が止まっていた。ドラガの目が先に見つけたのだ。鑑定スキルより早く。
「ワシの目に狂いはないぞい」
ドラガが顎鬚の水滴を払った。その言葉が——今は本当に頼もしかった。
リーゼが堤防の上で両足を踏みしめた。泥に足が沈む。髪から雨水が顎を伝い、滴となって落ちる。
「持たせるよ。三十分くらい——村長の意地で持たせてみせる」
その声が、雨音の中に響いた。村人たちが——声を上げた。叫びではない。呼応だ。リーゼの声に、泥だらけの顔が一つ、また一つ振り向いた。
ロッテが温かいスープの椀を差し出した。「飲みな。冷えた体じゃ踏ん張れないよ」。リーゼが一口飲んで、また堤防の前に立った。
水位が——あと三十五センチ。上昇速度は確かに鈍化している。ピークが近い。
雨が——ほんの少しだけ、弱まった気がした。




