対岸の実り
健悟は橋を渡り、対岸の畑に立っていた。足元の土が柔らかい。増水で表土が流された場所と、逆に上流から肥沃な泥が堆積した場所がある。洪水の後の農地は、被害と恩恵が隣り合わせだ。古代エジプトのナイル川と同じ原理。洪水が運ぶ泥が、肥沃な農地を作る。国交省時代の河川局の資料に書いてあった。まさか異世界でそれを体感することになるとは思わなかったが。
膝をついて、土に手を当てた。《万象鑑定》が起動する。青い構造線が地面に広がり、数値パネルが浮かぶ。
【土壌種別:沖積土(洪水堆積層あり)】
【有機物含有率:4.2%(良好)】
【排水性:やや不良(粘土質下層あり)】
【推奨作物:根菜類(排水改良後は穀類も可)】
【注意:表層30cm以下に旧水路の残骸あり】
土壌が読める。作物の適性まで分かる。《万象鑑定》は人工物に対して精度が高いスキルだが、農地も人の手が入った土地だ。耕された土、整地された畝、灌漑の痕跡。人が手を加えた大地は、鑑定の対象になる。
「健悟さーん、こっちの畑も見てもらえますか」
トビアスが北側の区画から手を振っている。増水後、村人たちは対岸の畑の復旧に取りかかっていた。しかし何を植えればいいのか、どの区画から手をつけるべきなのか、判断がつかない。半世紀近く放置されていた農地だ。土の状態を知っている者がいない。
そこで健悟が呼ばれた。「鑑定士さん」と。
北側の区画に移動し、再び膝をついた。土に手を当てる。青い線が広がる。
【土壌種別:洪積土(旧段丘面)】
【有機物含有率:2.8%(やや不良)】
【排水性:良好(砂礫層あり)】
【推奨作物:豆類・葉物(窒素固定後は穀類も可)】
「ここは排水が良い代わりに栄養が少ないですね。最初は豆を植えましょう。豆は痩せた土を改良する効果もあります」
「へえ、豆がそんなことを」
「根に特殊な菌がついて、空気の中の成分を土に取り込むんです。二年ほど豆を作れば、この土は穀類にも耐えられるようになります」
トビアスが素直に頷いた。この青年は理屈より結果を信じるタイプだ。橋が直ったこと、洪水で橋が持ったことを見ている。「鑑定士さんが言うなら」で動いてくれる。ありがたい協力者だ。
隣の区画ではハンスとヨルグが黙々と畝を作っていた。二人は言葉少なだが、仕事は正確だ。健悟が指示した畝の幅と間隔を寸分の狂いもなく守っている。農夫の手は、土木作業者と同じくらい精密だった。
「ハンスさん。その区画は有機物が豊富です。カブか大根が良いと思います」
「……分かった」
ハンスの返事はいつも一言だ。しかし翌日には、言われた通りの種を蒔いている。信頼の形は人それぞれだと健悟は学んでいた。言葉が少ないからといって、聞いていないわけではない。
午前中いっぱい畑を歩き回った。六つの区画を鑑定し、それぞれに推奨作物と土壌改良の方針を伝えた。ヨルグの区画は粘土質が強かったので砂を混ぜる暗渠排水を提案し、エルマーの区画は日当たりが良いので果樹の苗も検討できると助言した。メモを取る者はいないが、口伝えで情報が広がる。村の情報伝達は速い。昼にはロッテの宿で「鑑定士さんが北の畑は豆がいいって言ったらしい」という話が流れていた。
鑑定士さん。その呼び名が定着しつつある。
(僕の肩書きは「元国交省職員」なんですが。まあ、通じないから仕方ない。こっちの方が分かりやすいのは確かだ)
昼食をロッテの宿で取った。今日のメニューは硬いパンと豆のスープ。洪水後は食材が限られている。しかしロッテの手にかかれば、同じ豆のスープでも毎日味が違う。今日はハーブが効いていて、少し酸味のある爽やかな味だった。
食後、リーゼが深刻な顔で近づいてきた。
「健悟。ちょっと話があるんだけど」
「何でしょう」
「ノルンが気になることを言ってて——」
リーゼに連れられて、ノルンの家を訪ねた。村の東端にある小さな石造りの家だ。薬草の乾燥した匂いが染みついた室内に、老婆が椅子に腰掛けて待っていた。白い髪を布で包み、皺だらけの顔に鋭い目が光っている。テーブルの上に、古い羊皮紙の地図が広げてあった。
「お座り、鑑定士さん」
ノルンもその呼び名を使う。
「ノルンさん、何かあったんですか」
「昨日、行商のペーターが来てね。街道筋で辺境伯の使者を見かけたそうだよ。馬に乗った文官風の男が、護衛を二人連れて南に向かっていたって」
「辺境伯の使者?」
「グレンヴァルト辺境伯。この一帯を治めるお偉いさんだよ。あたしが若い頃は、二十年に一度くらい徴税の役人が来たもんだ。最近はとんと来なくなった。この村に取る税がなくなったからね」
ノルンが渋い顔をした。皺が深くなる。
「でも——使者が近くをうろついてるって話はね、良い兆候じゃないのさ」
「なぜですか」
「お上が辺境に目を向ける時はね、二つしか理由がないんだよ。税を取るか、兵を取るか。どっちにしても、村にとっちゃ災難さ」
ノルンの声は静かだったが、長い人生で何度も為政者の気まぐれに振り回されてきた実感がこもっている。五十年前の大洪水の後も、辺境伯の役人が来て復興の名目で増税を課したと聞いた。弱っている時に搾り取る。古今東西、権力の常套手段だ。
健悟はその言葉を噛みしめた。国交省にいた頃、地方自治体の陳情を受ける側だった。予算をつける側、事業を承認する側。「中央」の論理で動いていた。しかし今は陳情する側だ。辺境の小さな村。中央から見れば取るに足らない存在。
「辺境伯がこの村に興味を持つ理由として——橋の修繕は考えられますか」
「どうだろうねえ。橋一つで辺境伯が動くかは分からないけど——噂は広がるもんだよ。よそ者が来て鑑定スキルで橋を直した、洪水を耐えきった、対岸の畑が復活したって話は、隣村にはもう伝わってるだろうね。行商人の口ほど速いものはないのさ」
リーゼが腕を組んだ。
「来るなら来ればいいよ。隠すことは何もないんだから」
「リーゼ。お前さんの肝が太いのは結構だけどね」
ノルンが苦笑した。
「辺境伯の使者と村長が話すなら、事前に準備が要るんだよ。何を聞かれるか、何を答えるか、何を答えないか。——あたしが若い頃、先々代の村長が辺境伯の役人にうっかり正直に収穫量を答えてしまってね。翌年から税が倍になったのさ」
「それは——まずいですね」
「でしょう。だから、鑑定士さん。お前さんは役所仕事をしてたって言ったね。お上の考えることが分かるなら——少し知恵を貸してもらえないかい」
健悟はノルンを見た。鋭い目が、真剣に見つめている。この老婆は村の生き字引であり、同時に政治的な嗅覚も持っている。だからこそ、自分では対処できない事態の到来を予感して、外部の知恵を求めている。
「分かりました。使者が来た時の対応を少し考えておきます。——もしよければ、過去の徴税記録などがあれば見せていただけますか。相手の出方を予測するには、前例が一番の材料です」
「さすが役人は言うことが違うね。押し入れの奥に、先代が残した帳簿があるはずだよ」
ノルンが立ち上がり、奥の部屋に消えた。しばらく物音がして、埃だらけの革表紙の帳簿を三冊抱えて戻ってきた。
「三十年分くらいはあるはずさ。字が汚くて読みにくいけどね」
「ありがとうございます。分析してみます」
帳簿を受け取った。重い。革の表紙が乾いて罅割れている。中を開くと——この世界の文字で数字と項目が並んでいた。言葉は通じるが、文字は読めないはずだった。しかし不思議なことに、数字だけは読める。アラビア数字ではないが、意味が頭に入ってくる。転移の恩恵だろうか。文章はまだ拾い読みの段階だが、数字の表が並んでいれば内容は推測できる。国交省で培った表の読み方が役に立つ。
ノルンの家を出た。夕方の空が橙色に染まっている。対岸の畑が夕日に照らされて、新しい畝の土が赤銅色に光っていた。
リーゼが隣を歩いている。表情が硬い。
「辺境伯の使者か。——面倒なことにならなきゃいいんだけど」
「備えがあれば対処できます。僕は霞が関で十一年、そういう調整をやっていましたから」
「カスミガセキ?」
「お上の中のお上がいる場所です」
「……なんだか分かんないけど、頼りにしてるよ」
リーゼが肩の力を抜いた。信頼の言葉だ。軽い口調だが重みがある。村長として、一人の人間に全幅の信頼を預けている。
橋を渡った。夕日が石のアーチを照らしている。修繕の痕跡が見える。新しい石と古い石の色の違い。支保工の木材が夕日を浴びて影を落としている。それらが一体となって、橋は立っている。健悟は歩きながら、何気なく欄干に手を触れた。鑑定は起動しなかった。ただ触れただけだ。石の温かさが掌に伝わる。日中の太陽を吸った石が、まだ熱を保っている。
(使者が来ようと、辺境伯が目をつけようと——この橋を渡って日常を生きることに変わりはない。畑を耕し、作物を育て、村を守る。その上で、来るものには備える。予算折衝と根回しと調整。国交省でやっていたことと、本質は同じだ。フィールドが変わっただけ。道具が書類からスキルに変わっただけ)
しかし——ノルンの言葉が、胸の奥に引っかかっている。
「税を取るか、兵を取るか」
辺境の小さな村が、中央の権力と向き合う日が来る。それが明日なのか一月後なのかは分からない。しかし確実に来る。この村が力をつけるほど、上からの視線も厳しくなる。国交省時代に知っていた。地方が元気になると、中央は二つのことを考える。税源にするか、取り込むか。
健悟はノルンの帳簿を小脇に抱え、ロッテの宿に向かった。今夜は数字の読み込みだ。前世と同じく残業になりそうだが——相手が見えている分、霞が関の夜より気が楽だった。




