綱渡りの二日目——ディートリヒの追及
朝食の席で、ディートリヒがグラーフに報告した。「昨夜、工房の壁面に古代の碑文を発見しました。ドワーフ文字と思われます。報告すべき案件です」。グラーフの目が鋭くなった。
集会所に全員が集まった。グラーフ、書記官のヘルマン、ディートリヒ。対するは健悟、リーゼ、フェリス、ザイン。テーブルを挟んで——空気が張り詰めている。
「古代の碑文について説明を求める」グラーフの声が硬い。
健悟が答えた。慎重に言葉を選ぶ。
「下水道の修復工事中に発見された考古学的遺物です。フェリスが解読を進めていますが——まだ途上です。内容は都市の設計思想に関するもので、軍事的な記述は含まれていません」
「軍事的でないとどうして分かる」ディートリヒが切り込んだ。椅子の背もたれに体を預けているが——目だけが鋭い。鷹の目が健悟を射る。「まだ解読途上だと言ったばかりだろう。解読が終わっていない遺物を——伯爵閣下に報告しないのは越権行為ではないか。古代の遺構には軍事転用可能な技術が含まれている可能性がある。魔法石粉を大量に消費するインフラ——それ自体が軍事的意味を持ちうる」
「報告しなかったのではなく、解読が完了してから正式な報告をする予定でした。不完全な情報で伯爵閣下のお手を煩わせるのは——かえって失礼に当たると判断しました」
ザインが助け舟を出した。「ディートリヒ殿。考古学的遺物の報告手順について——辺境伯領の規定では、『調査完了後に報告』が原則です。中間報告は求められていません」
ザインの声は穏やかだが——行政規定を盾にしている。文官の戦い方だ。
「それは査察の範囲外だ」グラーフが制止した。「ディートリヒ殿。碑文については別途確認する。今日の査察は——格上げ審査の続行だ」
ディートリヒは納得していない。しかしグラーフの判断には従った。査察官の権限が——軍事顧問府の副官よりも上だ。この場では。
しかし——嵐は去っていない。単に延期されただけだ。ディートリヒの目が——健悟を追っている。食堂を出る時も、通りを歩く時も。監視されている。
健悟はフェリスに耳打ちした。「碑文の解読データを整理しておいてください。求められたら——出せる形で」
「了解しました。ただし——全てを見せる必要はありません。学術的に公開可能な範囲を私が判断します」
フェリスの琥珀の瞳に——知性の冷静さがあった。百二十年の学者は——情報の取捨選択を知っている。
リーゼが——別の作戦を動かした。
「査察官殿。今日は——住民の方々と直接お話しいただけませんか」
「住民と?」グラーフが眉を上げた。
「はい。書類と数字だけでは——町の本当の姿は見えないと思うんです。住民がどんな気持ちで暮らしているか。それを——直接聞いてほしい」
グラーフは少し考えて——頷いた。予定外の提案だ。しかし——文官としての好奇心があった。数字の裏にいる人間を見たい。書類だけで判断するのは不十分だという意識が、グラーフにはある。叩き上げの文官だからこそ——現場を知る重要性を分かっている。
「いいだろう。案内してもらおう」
市場の建設現場に行った。ハインツが石を積んでいる。グラーフが声をかけた。
「この市場を——楽しみにしているか」
「ああ。毎日ここで買い物ができるなら——妻も喜ぶ。今は天幕の集落まで配給を取りに行かなきゃならん。遠い」
「避難民だったのか」
「グライフ村から来た。村を焼かれた。しかし——ここで仕事がある。石を積む仕事がある。それだけで——ありがたい」
ハインツの太い腕が石を持ち上げた。職人の手だ。働く場所を得た男の手。
孤児院の設立準備場所を見せた。まだ建物はない。西丘陵の公共福祉区画に——杭が打たれているだけだ。しかしエミルが駆け寄ってきた。
「リーゼお姉ちゃん! 今日もここに来ていい?」
「いいよ。エミル、この人はお客様だよ。挨拶して」
エミルがグラーフを見上げた。十歳の男の子が——初老の厳格な文官を見上げている。靴を履いている。顔が以前より丸くなった。食べている証拠だ。
「こんにちは。おじさんは——えらい人?」
グラーフが——一瞬、表情を崩した。口元がわずかに緩んだ。すぐに元に戻したが——健悟は見逃さなかった。
「……えらいかどうかは分からんが。仕事で来ている」
「ふーん。仕事って——つまんないの?」
「つまらなくはない。今日は——面白い」
グラーフがそう言った時、書記官のヘルマンが驚いた顔をした。グラーフが「面白い」と言うのは——極めて珍しいことらしい。子供の顔。それが——どんな書類よりも雄弁だ。
リーゼがグラーフの横を歩きながら、静かに語った。
「この町には——避難民が百六十人以上います。家を焼かれた人。家族を失った人。居場所を失った人。この人たちが——ここで新しい暮らしを始めている。全員に仕事がある。全員に住む場所がある。全員が——名前で呼ばれている」
「全員の名前を——覚えているのか」
「当たり前です。この町の村長ですから。名前を覚えるのは——村長の最低限の仕事です」
リーゼの碧い目が——真っ直ぐにグラーフを見た。数字は苦手だ。書類も苦手だ。しかし——二百人以上の名前と顔を覚えている。それは——どんな書類よりも重い資質だ。
グラーフが——何かを呟いた。しかし声が小さすぎて聞こえなかった。書記官のヘルマンだけが聞いたらしく——メモを取る手が止まった。後にヘルマンが教えてくれた。グラーフは——「インフラとは設備ではなく、人の暮らしそのものか」と呟いたらしい。
午後遅く。建設現場に足を運んだ。トビアスが指揮する建設班が——市場の屋根の骨格を組んでいる。ドラガのマギクリートの柱が六本、空を支えるように立っている。グラーフが柱を見上げた。柱の表面を手で触った。
「この素材は——石か」
「マギクリートです。ドワーフの鍛冶師ドラガが開発した複合素材です。石と木の利点を兼ね備えています」
「ドワーフの鍛冶師にエルフの学者——辺境村に、なぜこれほどの人材が集まっている」
「全員——よそ者です」リーゼが答えた。「この町は、よそ者に助けられて生き延びた。だから——よそ者を受け入れる。それがハルベルトのやり方です」
グラーフの目が——リーゼに向いた。二十歳の村長が——堂々と立っている。数字は苦手でも、人の前に立つことは得意だ。この娘は——自分の武器を知っている。
夕食会。ロッテの宿の食堂で、査察団とハルベルトの主要メンバーが食卓を囲んだ。ロッテのスープが温かい。今夜は特別に——テール川で獲れた大きな鱒の塩焼きが出た。パンが焼き立てだ。薬草茶の湯気が食卓に漂っている。
ガルドがさりげなくディートリヒの横に座った。元冒険者と元軍人。戦場を知る者同士の距離感で——自然に会話が始まった。
「ディートリヒ殿。軍歴は長いか」
「十五年だ。伯爵の近衛から軍事顧問府に移った。戦場はテルン辺境の魔物掃討作戦が最後だ」
「テルン辺境——あの大規模掃討か。相当な修羅場だったと聞く」
「生き残った方だ。半数が帰らなかった」
「近衛から顧問府——腕は立つな」
「そちらこそ——ただの自警団長ではないだろう。その体格と剣だこの手を見れば分かる。元冒険者か」
「ああ。昔の話だ」
二人の間に——奇妙な共感が流れた。命のやりとりを知る者同士の距離感。酒を酌み交わせば——友人にもなれたかもしれない。しかし今は——立場が違う。ガルドの目的は情報だ。
「上官は——バルトスか」
ディートリヒの手が——一瞬、止まった。パンを千切る手が。
「……知っているのか」
「昔の知り合いだ」
ガルドの声が低い。右腕の古い傷痕が——テーブルの下で白く光っている。二十年前の夜。パーティを壊滅に追い込んだ事件。バルトスの名前が——再び浮上した。偶然か。それとも——。
ディートリヒは何も答えなかった。しかし——パンを千切る手が、わずかに震えていた。
食事の後。ガルドが健悟に耳打ちした。見張り台の下で。夜の冷たい風が吹いている。
「ディートリヒの上官はバルトス。伯爵の軍事顧問だ。——あの夜、俺たちのパーティの情報を魔物の群れに売った男かもしれん」
「売った——情報を?」
「証拠はない。二十年間——探し続けたが見つからなかった。しかし——あの夜、俺たちが通るルートを知っていたのは、冒険者ギルドとバルトスだけだった。ギルドの方は潔白だと確認した。残るは——バルトスだけだ」
ガルドの右腕の古い傷痕が——月明かりの下で白く浮かんでいた。二十年間燻っていた疑惑が——目の前の査察と繋がろうとしている。バルトスの部下であるディートリヒが、ハルベルトに来ている。単なる偶然か。それとも——バルトスの意図が裏にあるのか。
「気をつけろ、健悟。この査察は——ただの格上げ審査じゃない可能性がある。伯爵の裏に——バルトスの思惑が動いているかもしれん」
ガルドが——静かに剣の柄に手を置いた。守るべきものが——また増えた。この町と、この町の住民と、二十年前の仲間の記憶。全てを守る。二十年前に守れなかったものの分まで。今度こそ——もう何も失わない。




