和平会談
フェンリルの里。その聖なる祭壇を囲み、向かい合う両陣営の間には、氷のような緊張感が張り詰めていた。
『イザベル共生領』と、彼らが魔王軍と呼び、忌み嫌ってきたクトゥルヒ人の国『ロマール共和国』。人類の存亡を懸けた和平会談の幕が、静かに上がった。
ロマール共和国の代表として現れたのは、銀髪のオールバックを脂で固めた、身なりの良い若い悪魔だった。彼は退屈そうに爪を眺めながら、傲慢な口調で先制を打つ。
「もうフェンリルから聞き及んでいると思うが、お前たちの新興国は神々の殲滅対象から外れた。……好きに生きるが良い」
レオンハルトは、努めて冷静にその言葉を受け止めた。
「イザベルは貴国との和睦を望む。我が国が殲滅対象から外れたのであれば、なおのこと、これ以上争う必要はないはずだ」
「和睦ねぇ。別に構わないが……一つ条件がある。お前たちも人間狩りに参加しろ」
「なっ……!」
ルカが驚き、弾かれたようにレオンハルトの横顔を覗き込んだ。だがレオンハルトは、一瞬の迷いもなく即答した。
「それは無理だ。同じ人間同士、殺し合うことはできない」
その答えを聞いた瞬間、オールバックの悪魔は深いため息を吐き出し、視線だけで斜め上を仰いだ。心底、救いようのない馬鹿を相手にしているといった様子で。
「あのなぁ……。では、我々が人間を襲っている現場に遭遇した時、お前たちはどうする?」
レオンハルトが、わずかに言葉に詰まった。想定していた倫理的な境界線が、悪魔の問いによって揺らぎ始める。それを見てルカが助太刀に入った。
「助けますよ! 当たり前じゃないか!」
「助けるって? 我々に牙を向けるのか。それのどこが和睦だ。……お前たちの言う当たり前は、ただの宣戦布告なんだよ」
今度はカミロが割って入った。
「……不干渉ならどうだ。お前たちが人間を襲っている現場に遭遇した際、俺たちは干渉しない」
「ほう。では、さらに切迫した状況を想定してみろ。お前たちが負傷した人間を救助している最中に我々が現れ、『その人間を寄こせ』と言ってきたら? 渡すのか? それとも戦うのか?」
重い沈黙が場を支配した。レオンハルトは、この問いに感情で答えを出しても無意味だと悟り、解決の糸口を探る。
「……一つ、教えてくれ。なぜ貴国は人間狩りを続ける? すでに人間の文明は滅んだはずだ」
「人間はこの世界に狂気をもたらす害虫だ。一匹残らず駆除するのは当然だろう。いつまた奴らがイカれた国を造り始め、神々の領域を汚すか分かったものではない。……お前たちも、同胞ながらそう思うだろう? そう思ったからこそ、あんな醜い国を捨てて自分たちだけの国を興したのではないのか?」
レオンハルトたちは、返す言葉を失った。自分たちがイザベル共生領を創った動機の根底を、悪魔に鋭く突かれたからだ。悪魔の弁舌は、怒りの熱を帯びて加速する。
「例えば、我々が共に戦っている戦友のゴブリンを、喰い始めたらどう思う? 『イカれてる』と思うだろう? 人間はそういうことを平気でやる動物だ」
「確かに、人間は褒められた動物じゃねぇ……。それは認める」
カミロが低い声で反論した。
「だが、お前らだって人間を凌辱して殺すじゃねぇか。どの口が言ってやがる」
「凌辱? 本当にそうか?」
悪魔はあざ笑うように口端を吊り上げた。
「ただ、人間を喰っただけではないか。いいか。人間は『喰われて死ぬ』ことに、尋常ならざる恐怖を感じる特殊な動物だ。他の野生動物のように、命の循環としてそれを受け入れることができない。神に助けを乞い、それが無理だと分かると泣き喚き、恐怖を撒き散らす。……我々が凌辱したのではない。人間が勝手にとち狂って、恐怖を撒き散らしただけだ」
カミロは拳を血が滲むほど強く握りしめた。だが、悪魔の理屈は止まらない。
「一方で、飢えて死にそうな時はどうだ? そこまでのパニックは起こさないだろう。なぜか? 飢え死にする時、自分はまだ人間であるという特別感を失わずにいられるからだ。だが、喰われて死ぬ時は違う。自分がただの餌であり、動物に過ぎなかったと否応なしに思い知らされる。だから、耐え難い恐怖を感じるのだ。自分たちが他の動物を見下し、感情を共有することを拒絶し、物理的アプローチで思い通りにしてきた自覚が、人間には確かにある。だからこそ、自分たちがやってきたことをそのままやり返されることを何より恐れ、剥ぎ取られようとする『人間』という特権に最後の最後までしがみつくのだ」
カミロは、目の前の悪魔の理屈を全て肯定することはできなかったが、否定することもできなかった。自分たちを特別な存在だと信じ込み、他者を搾取してきた歴史。その末路が、今の共喰いの地獄なのだとしたら――。
「さて、ところで。人間は、特別なのか?」
悪魔はわざとらしく問いかけ、場をあざけ笑いで満たした。
レオンハルトは冷静を装い、議論を本筋へと引き戻す。
「話を戻そう。貴国は、人間を残すのは、今後の世界にとって危険だと考えている。だから殲滅を完遂したい。ここまでは合っているか?」
「合っている」
「では、人間を殲滅することは、神々の意思ではないのだな?」
「神々の意思だよ」
オールバックの悪魔が、傍らで見守るフェンリルの王に視線を送った。二人の間で交わされる無言の合図。やがて、フェンリルの王が静かに語り掛けた。
「レオンハルトよ……お前たちはまだ、この戦争の核心を知らない。お前たちがこれ以上人間を救助しないと宣誓するのであれば、それを隠す必要はなくなる」
もう人間の救助は辞めろ。それがフェンリルの王からの要求だった。家族のため、国民のために救助活動を辞めたレオンハルトは元よりそのつもりだ。
「和睦が締結すれば、イザベルは潜伏する必要がなくなる。堂々と太陽の下で田畑を耕し、定住へと舵を切る。そして十分な領土を確保した暁に、防壁を築いて中立を堅持することを宣誓します」
「その中立とは、つまりロマールが人間の殲滅を終えるまで、決して外部の人間を招き入れず、救助もしないということだな?」
「そうです。イザベルは殲滅が終わるまで移民を受け入れない。国民は防壁から外へ出ない。外出には国の許可を必要とする。これで衝突の懸念は解消するはずです」
レオンハルトの提案を受け、フェンリルの王は再びオールバックの悪魔と視線を交わす。
やがて、彼は満足げに肩をすくめた。
「いいだろう。それで手打ちだ」
人類の誇りを捨て、身勝手な生存を選んだのか。あるいは、真実を知るための苦渋の決断か。
冷たく乾いた握手もなく、史上最も不名誉で、しかし生存のための確かな和睦が成立した。




