ニワトリ
イザベル共生領に、爽やかな風が吹き抜けた。
あれほど彼らを蝕んでいた人間の底知れぬ悪意。そこから物理的にも精神的にも解き放たれた生活が、これほどまでに安息をもたらすものかと、一同は驚きを隠せなかった。
もっとも、安息といっても「休息」と同義ではない。
レオンハルトのスパルタぶりは新天地でも健在であり、特別攻撃隊の面々は、徹底的に働かされた。
グンは、その大きな背に子供たちを乗せて子守りを引き受け、ブリューはルカを乗せて電光石火の速さで果実を収穫して回る。収穫が終われば、今度はレオンハルトを乗せて山奥への狩りへ。ルカとレオンハルトの完璧なローテーションだ。
ブリューが迎えに来るまでの間、ルカは国民たちと共に果実を干して保存食を作り、レオンハルトは目にも止まらぬ速業で獲物の肉を捌いていく。
「休憩だ」
時折、レオンハルトの短い号令が掛かる。だが、彼自身がポーションを煽った数秒後には、
「再開だ」
という冷徹な号令に塗り替えられる。
(相変わらず休憩になっていない……)
ルカは心のなかで突っ込むだけ、王の言葉に異を唱えるタイミングすら与えてもらえない。
カミロは、憔悴していくルカを見かねて「俺がいる時だけは休め」と司法官代理を買って出た。狭い隠れ家の中をパトロールしながら、カミロは国民一人一人と雑談し、交流を深めることに専念した。
「……ねぇ、カミロだけ……ズルくない? ……みんなと話してるだけ、じゃん」
肩で息をしながら、ルカが恨みがましい視線を送る。
カミロはそれを鼻で笑い、冷たく突き放した。
「は?お前、感謝してたじゃん」
「いや……その……あの時は……そう思っだんだけど……」
「今さら代わらねぇよ?」
「酷いッ!騎士のくせに!」
ルカの疲労はとうに限界を超えていた。だが、不思議と心は軽かった。全てを忘れさせてくれる、この上ない至福の時間。
「あらかた食糧の備蓄は済んだな」
レオンハルトのその一言でルカはほっと胸を撫で下ろす。ようやくポーションの蓋を開けた。しかしあまりの衝撃に思わずそれを吹き出してしまった。
「移動だ」
「王様……今なんて?」
「移動だよ」
聞き間違えではなかった。イザベル共生領はオルドヴィア山脈に点在する隠れ家の集合体だ。確かに全ての隠れ家の食糧の備蓄は完了していない。
「もしかして、全ての隠れ家を回るつもりですか?」
「当たり前だろ。王様が休むわけないだろ」
王様は休まない。そんな格言は聞いたことがなかったが、逆らえるはずがなかった。
そうしてレオンハルトたちは隠れ家から隠れ家へと走り回り、労働に勤しんだ。全ての隠れ家の備蓄が完了した頃には、空は既に濃い夕闇に染まっていた。
「お疲れ様」
ようやくレオンハルトから労いの言葉が出る。老婆のように背中を丸めたルカの顔は、今までとは別の意味で完全に死んでいた。
「じゃ、偵察に行こうか」
もう突っ込む気力すら残っていない。ルカの口角が、引きつったように釣り上がる。笑うしかなかった。
ルカはブリューに跨ったカミロの腰に後ろから抱きつくと、自分自身とカミロを結束魔法でガチガチに固定した。そのまま眠りに落ちる気満々だ。
「出たよ。大魔法使い様お得意の『居眠り結束』が」
カミロが嫌味ったらしく肩をすくめたが、ルカは目を閉じたまま、消え入りそうな声で反論する。
「いいじゃん。カミロは一日中休んでたんだから」
「休んでねーし」
カミロは毒づきながらも、口元に慈しむような笑みを浮かべた。
(こんな日常が、毎日続けばいいのに……)
心から、そう願わずにはいられなかった。
「そういや王様、鍾乳洞の隠れ家の子供たちがニワトリを迎え入れたいって言ってたぞ」
カミロが国民との交流で仕入れた情報を報告すると、レオンハルトが柔らかく微笑んだ。
「ニワトリか……いいな。朝、大きな声で鳴くニワトリを迎え入れることが出来たなら、それはもう恐怖に怯えて生きる必要がなくなったことの象徴になる」
「でもニワトリの卵って食べちゃマズいんじゃないのか?」
カミロの素朴な疑問に、レオンハルトが答えた。
「オスのいない環境でニワトリが産むのは無精卵だ。命になるはずのないものを頂くのは、虐待にも屠殺にも当たらない」
初めて知る知識にカミロが深く頷いていると、眠ったはずのルカが薄目を開けて突っ込んだ。
「カミロ……そんなことも知らなかったの?」
「うるせぇ! お前は寝てろ!」
久しぶりの家族団欒の一日を堪能したグンとブリューがふわぁと大きなあくびをした。




