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ビート&ヨーン  作者: ダメだ里香ちゃん


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パン②

フェンリルの存在は、周囲の村々にとって圧倒的な軍事力であり、抗いようのない脅威であった。

人々は皆、その牙を向けられることを恐れ、同時にその恩恵に預かろうと列を成した。オルドヴィアと良好な関係を築き、同盟を結び、あるいは自ら合併を望む。そうして、かつての小さな村はいつしか山脈を統べる一つの王国となり、オリビアはその国の初代女王として戴冠した。

オリビアが天寿を全うし、その魂が星へ還った後も、フェンリルと魔族の絆は不変であるかに見えた。しかし、歴史の歯車は北の大国――領土拡大の野望を抱く帝国の出現によって、歪な音を立て始める。

オルドヴィアに派遣された使者たちは、山脈に君臨するフェンリルの圧倒的な威容を目の当たりにし、即座に方針を武力制圧から「懐柔」へと切り替えた。彼らが求めたのは、豊かな山脈そのものだった。地質調査の結果、山底に眠る巨大な銀山が発見されると、彼らは巧妙な外交によって採掘権を手中に収めた。

彼らはオルドヴィアの人々と同じ魔族であったが、自らを**「人間」**と称した。

「人間」が持ち込んだ文明は、オルドヴィアの生活を根底から塗り替えた。特に農耕と畜産の普及は、人々の生存様式を狩猟採集から農地開拓へと劇的に変えた。

牛に農具を牽引させ、山羊の乳を搾り、羊の毛を刈る。鶏は卵を産み、馬は重たい荷を運ぶ。

ルナは、この光景に言い知れぬ不安を覚えていた。彼女はオリビアの子孫である王に、静かに、しかし厳しく諭した。

「野生の動物たちを招き入れるのは良い。だが、奉仕してくれた彼らを屠り、食糧とすることだけは辞めるのだ。それは奉仕を裏切る行為に他ならない」

しかし、畜産こそが国を富ませる礎であると信じて疑わない王が、首を縦に振ることはなかった。

人々は、昨日の耕作を助けた牛を、乳を与えた山羊を、暖かな毛を分け与えた羊を、躊躇なく屠った。役に立たなくなったからではない。ただ、その肉の味を求めるがゆえの殺戮だった。

ルナは根気強く王を説得し続けた。

「……かつて、我らフェンリルもお前たち魔族を力で制圧し、家畜にすることができた。だが、そうはしなかった。奉仕こそが愛の発露であり、我らは愛を最大の美徳とするからだ。お前たちは、神を手本として生きようとは思わぬのか?」

だが、王から返ってきたのは、信じがたい言葉だった。

「神獣よ。人間は特別な存在なのだ。他の動物を征服し、好きにして良いという特権を、我らは神から授かっている。北の神**『ルシファー』**は、畜産こそが文明の進歩であると推奨しておられるのだ。狩猟で殺すことが許されるなら、殺されるまでの間を生かすことは、それより遥かに慈悲深いとは思わぬか?」

「ルシファーなどという神は存在せぬ。それは自らの行いを正当化しようと、お前たちの妄想が作り出した虚構だ」

「ルシファーは存在する」その一言でルナの反論は冷たく一蹴された。いつの間にか、フェンリルは王にとって「人間を傷つけない都合の良い獣」に成り下がっていた。大国に攻め込まれないための、最強の防衛設備という名の家畜。

もうここに、オリビアから貰った「パン」は無い。

その精神の荒廃を悟ったルナは、仲間たちを連れて村を去る決意を固めた。

大国からの侵略を恐れた王は、顔を青くしてルナを引き留めた。

「行かないでくれ! 望むなら、この国にある宝の一部を差し出そう!」

王は帝国から取り寄せた絢爛豪華な宝飾品や金銀を広げたが、ルナがそれらに一瞥をくれることはなかった。

「……お前たちが自らの行いを悔い改めるまで、我らがこの地へ戻ることはない」

最後にルナはオリビアと初めて出会った夜の、コートのなかの体温を、その勇敢な瞳を思い出し、永遠の絆の残滓として、一対の銀の杯を選んだ。

彼女はその片方を静かに咥え、深い霧の立ち込める山奥へと消えていった。


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