パン①
オルドヴィア王国の歴史。それは、二人の少女――神獣の幼子ルナと、魔族の少女オリビアの出会いという、小さくも尊い奇跡から始まった。
生後三カ月。ルナにとって世界は、驚きと喜びに満ちた巨大な遊び場だった。中型犬ほどの大きさになった彼女は、自分の意思で跳ね、駆け、止まるという身体操作の楽しさに夢中だった。銀色の毛並みをなびかせ、雪原を転げ回る。その一挙手一投足が、未来の「最強の牙」を予感させるしなやかさを帯び始めていた。
初めて迎える冬の冷たさは、運動で体温の上がった幼い神獣にとって心地良い涼しさだった。白銀の世界で遊び疲れたルナは、深い雪の窪みで丸くなり、いつしか深い眠りに落ちていた。
そこへ通りかかったのは、一対の魔族の親子だった。
「お父様、見て! 何かある!」
少女オリビアが駆け寄る。彼女の目には、雪に埋もれて動かないルナが、今にも消えてしまいそうな瀕死の仔犬に見えた。
「可哀想に……母犬とはぐれてしまったのね……」
オリビアは震える手でルナを抱き上げ、自らの厚手のコートの中に潜り込ませた。吹雪のなか、必死に自分の体温を分け与えようとする少女。ルナはその微かな振動と、自分を守ろうとする勇敢な瞳に、まどろみのなかで心を打たれた。
(この魔族は、私を助けようとしているのか……。ならば、もう少しだけ、こうしていよう)
ルナはあえて目を開けず、少女の胸の高鳴りを聞きながら、その温もりに身を委ねることに決めた。
辿り着いた山小屋で、オリビアは一晩中ルナを抱き締め続けた。
夜が明け、窓の外が青白く光り始めた頃、ルナはゆっくりと目を開けた。目の前には、自分を抱いたままうたた寝をする少女の顔。ルナは挨拶代わりに、その小さな頬をべろりと舐め上げた。
「……っ! 生きてる! お父様、この子、生きてるわ!」
飛び起きたオリビアは大喜びで踊るように回り、自分の朝食であるパンを千切って、ルナの口元へ差し出した。神獣にとってパンは決して滋養に富むものではなかったが、ルナはその「分け与える」という行為の尊さを味わうように、ゆっくりと咀嚼した。
オリビアはルナを村へ連れて帰りたいと父に懇願したが、父の判断は冷徹だった。
「これ以上、獣に情を移すな。雪のない場所まで下山したら、野に放つ。それがこの子のためだ」
オリビアは涙を呑んで頷いた。彼女は下山の道すがら、ルナがひもじい思いをしないよう捕らえた雪兎を一匹与えてやり、村近くの巨大な古木の傍らで、そっとその背中を押した。
「元気でね、ワンちゃん。さようなら……」
しかし、別れは始まりに過ぎなかった。
翌日、ルナは「あの子がまた来るのではないか」と大木の下で待ち、オリビアもまた「あの子が待っているのではないか」と大木へと走った。
二人の奇妙な逢瀬は、冬を越し、春の芽吹きとともに村中の知るところとなった。ルナはまたたく間に巨大化し、馬をも凌ぐ体躯となった。大人たちは「いつかオリビアが食い殺されるのではないか」と危惧し、二人を引き離そうと武器を手に囲んだこともあったが、ルナが放つ圧倒的な威圧感と、オリビアに見せる深い慈愛を前に、最後には手出しを諦めた。
平穏が破られたのは、ある月夜のことだ。
戦争に敗れ、理性を失った敗残兵たちが、略奪のために村を襲った。燃え上がる家々、響き渡る悲鳴。オリビアの家にも、血に飢えた刃が迫る。
その時、夜闇を切り裂いて銀色の閃光が走った。
ルナだった。
彼女は神速の機動力で敗残兵たちに体当たりを敢行し、大地を震わす咆哮で威嚇して回った。
村を救ったのは、大人たちが恐れた「獣」だった。
この夜を境に、ルナは村の守り神として正式に崇められるようになった。
やがてルナはオリビアに誘われて村に住み着くようになると、村で子を産んだ。
フェンリルと魔族が同じ食卓を囲み、同じ空を見上げて眠る――。
それが、オルドヴィアという村の原風景となったのである。




