トウショウブ
「これから、≪日本人≫が≪日本人≫たる所以を伝えよう。
此処に、【闘戦経】という我が家に古くから伝わる書がある。
此の書は、五十三章から成る兵法書である。
此の【闘戦経】五十三章について一つ一つ説明し、『≪日本人≫とは何か』『≪日本人≫の在り方』を伝えたいと思う。
【第一】
日本の『武』は、『天地』の初めから在る。
『天』と『地』は、『武』によって分かたれた。
まるで、雛が卵の殻を割るが如く。
『天』と『地』、つまり『陽』と『陰』が同じ場に共に存すると、この世は無秩序となる。
何故なら『天』と『地』はそれぞれ異なるものであり、真逆の存在であるからである。
『武』によって『天地』が分かれたことにより、この世に秩序が生まれた。
故に『武』は日本にとって万物の根元であり、多くの思想の根本となるものである。
『武』は、『戈』を『止』めるという意味である。
『武』は、『力』で以て国を治める為のものではない。
『武』は国に秩序を齎し、国を守る為のものである。
【第二】
漢の思想では、『文』を第一とし、『武』を第二としている。
しかし其れでは、車の両輪や鳥の両翼の原理を理解することは出来ない。
車は、二つの車輪がなければ安定して進むことが出来ない。
鳥は、二つの翼がなければ飛ぶことすら出来ない。
二つが共に無ければ、機能しない。
『武』と『文』も、此れと同様である。
『武』と『文』も共にあらねば、国の安定化を図ることなど出来はしない。
『武』で国を平定し、『文』で国の規制や規則を定めて国の統制を維持し、国と人を守る。
『武』で土台を確りと固め、『文』で秩序を立て保つ。
土壌が肥沃であるからこそ、美しい花が咲く。
〔国生み神話〕が、良い例である。
伊邪那岐命と伊邪那美命の二柱は高天原から天浮橋に降り立ち、持っていた天沼矛で混沌とした大地を掻き混ぜた。
そして其の矛を持ち上げると、矛先より滴り落ちた潮が積もり固まって淤能碁呂島(自凝島)が出来た。
其の後、伊邪那岐命と伊邪那美命の間には多くの神々が生まれ、自然豊かな国々が形成された。
つまり、天沼矛という『武』によって世界の混迷を鎮め、多くの新たな国や神が生まれ、神々が国を統治するという『文』によって世界は平穏を得た。
『武』と『文』が共になければ、平和を守ることは出来ない。
【第三】
『武』に於いて、『心(精神)』と『気(気合)』に頼る者は未熟である。
『武』に於いて、『心』と『気』に頼らない者も未熟である。
『武』には『心』と『気』、そして『力(実力)』が共に備わっていなければならない。
たとえ『知(知識)』を得ても、保ち続けなければ意味がない。
たとえ『慮(思慮)』を重ねても、保ち続けなければ意味がない。
自分の骨と化すまで『武』について識らなければ、『武』を極めることなど出来はしない。
多くの知識を得て、考え、実践を通して経験を重ね、精神力を鍛え高め続け、『武』が何たるかを識らなければ、『武』を我がものとすることなど出来はしない。
【第四】
『金』は、自らが『金』であることを知っている。
『土』は、自らが『土』であることを知っている。
故に、『金』は『金』の『役割』を果たす。
故に、『土』は『土』の『役割』を果たす。
『金』は、『土』の代わりにはなれない。
『土』は、『金』の代わりにはなれない。
『金』は『金』であり、『土』は『土』である。
『天地の道』は、『純一』であることが『宝』である。
『分』と『役割』は一人一人、一つ一つ異なる。
それぞれに、優劣などない。
それぞれが唯一無二のものであり、それぞれが素晴らしいものである。
それぞれの『分』と『役割』を果たすべきである。
そして、それぞれの能力を生かして国と人を豊かにすべきである。
【第五】
『天』は、剛毅を以てしても傾かない。
『地』は、剛毅を以てしても堕ちない。
『神』は、剛毅を以てしても滅びない。
『仙』は、剛毅を以てしても死なない。
強く、固く、屈しない、確たる意志があれば、滅びることなどない。
【第六】
人は『生』の際、骨から成る。
人は『死』の際、骨が残る。
骨は人の『体』の中で何よりも強いものであり、人の根源を成すものである。
『天』と『地』が長久であるのは、根本が強固であるからである。
故に人がもし長久を願うのであれば、骨を強化しなければならない。
『本』が強ければ、長く生きることが出来る。
【第七】
秋の冷たい風が、紅葉した葉を払う。
冬の冷たい霜が、蒼き草を枯らす。
冬に太陽が南に鎮座すれば、空気は冷たくなる。
春に草木が芽吹き、夏に花が咲き、秋に果実が実っても、其れらは冬によって容赦なく消滅させられる。
『何か』を生み出すには、『何か』を断ずることが必要な時がある。
繰り返し『何か』を生み出し続ける『造化の神』は、『何か』を造る為に『何か』を切り捨てる。
『造化の神』は、冷厳である。
しかし、其れにより秩序は保たれ守られてきた。
『武』もまた『造化の神』の如く、断固とした意志をもって断たなければならない時がある。
秩序を乱すものに対しては、厳格な処置を行わなければならない。
【第八】
漢の書物は、『詫譎』を説く。
日本の書物は、『真鋭』を説く。
嘘偽りにより人を欺き、勝利を得ようとする漢の思想。
誠実に、真心を以て勝利を得ようとする日本の思想。
狐を以て、狗を捕えるか。
狗を以て、狐を捕えるか。
日本は必ず、後者を選ぶ。
日本の『武』は漢の思想とは根本的に異なり、相容れることは断じてない。
【第九】
兵法の神髄は、正々堂々と戦うことである。
其の為には、精錬された『心』と『体』が必要である。
其れらを保持し続け、不法なるものに対しては『武』で以て従わせるべきである。
【第十】
先ずは、『仁』を学ぼうか?
先ずは、『智』を学ぼうか?
先ずは、『勇』を学ぼうか?
壮年になっても人から『生きる道』を問うようでは、何れ『人の道』を見失うであろう。
先ずは、『水』を呑もう。
先ずは、『食』を求めよう。
先ずは、『枕』を取って休もう。
百里歩いて疲労困憊した者は、目の前にあるものから答えを見つけようとする。
惑って色々と考えるよりも、一心に今、『為すべき』ことを『為すべき』である。
【第十一】
目は『明』を尊ぶとはいえ、目は三つも要らない。
指は『用』を為すとはいえ、指は六本も要らない。
必要以上のものは要らない。
今、あるもので十分である。
孫子 曰く
〖是故百戦百勝 非善之善者也
不戦而屈人之兵 善之善者也〗
百戦百勝は、最善の策ではない。
戦わずして勝利することが、最善の策である。
しかし此れは、必勝の術ではない。
確かに、策を講じることは必要である。
しかし多くの策を弄すれば、何れ策に溺れることになるであろう。
また人を騙し裏切ってばかりいれば、人々から猜疑心が生まれ、信頼を失い、折角立てた策も瓦解することになるであろう。
策を講じる際は『中庸』であること、そして『正攻法』であることが重要である。
【第十二】
『死とは何か?』『生とは何か?』を考えても、答えは見つからない。
答えは見つからないので、考えても無駄である。
人は生まれ、いつか死ぬ。
此れは、『宿命』である。
変えることは出来ない。
故に『死生』を考えるのではなく、『如何に生き、如何に死ぬか』を考えるべきである。
【第十三】
孫子も、『懼』という文字から逃れることは出来なかった。
敵を恐れ、失うことを恐れ、傷つくことを恐れ、死を恐れ、覚悟がなかったから、孫子の〔兵法〕は権謀術策に長けた書なのである。
覚悟をもって生きていれば、毅然として困難に立ち向かうことが出来る。
【第十四】
『気』は、『容』を得て生じる。
『気』は、『容』が亡くなってからも生きる。
薬草が枯れても、薬草の効能が残るのと同様に。
此れが、『天地の理』である。
『体』が壊れていないにも拘わらず『心』を失うのは、此の『天地の理』と違う。
戦場では、『気』が衰えている方が負ける。
『強固な気』を持っている方が、戦に勝利することが出来る。
何故なら、其れが『天地の理』であるからである。
【第十五】
魚には、鰭が有る。
蟹には、足が有る。
魚も蟹も、共に水の中に棲んでいる。
では魚と蟹、どちらが『有利』なのであろうか?
水の中で泳ぐことの出来る魚の方が『有利』なのであろうか?
それとも、水の中で歩くことの出来る蟹の方が『有利』なのであろうか?
どちらにも『利点』があり、どちらにも『欠点』がある。
どちらも『有利』であり、どちらも『不利』である。
故に優劣など決めることは出来ないし、決める必要もない。
優劣を考えるのではなく、それぞれが生まれ持った能力を伸ばし、活かして生きていけば良いだけのことである。
【第十六】
物の根本たるものには、五つある。
其れは、『陰陽』『五行』『天地』『人倫』『死生』である。
『陰陽』とは、万物を造る『陰の気』と『陽の気』のことである。
『五行』とは、自然界の五つの分類である『木』『火』『土』『金』『水』のことである。
『天地』とは、『宇宙』のことである。
『人倫』とは、『人の道』のことである。
『死生』とは、『死』と『生』という『天命』のことである。
此の五つにより、万物は生まれる。
此の五つの『初め』の『始め』を見ることが出来るのは、『神』だけである。
『神』は、全てを知っている。
時に『神』は人の『容』をして現れ、人々の為に其の『意思』を語る時がある。
人の『容』をした『神』を、人は『聖人』と言う。
【第十七】
孫子 曰く
〖兵者詭道也
故能而視之不能 用而視之不要
近而視之遠 遠而視之近
利而誘之 乱而取之
実而備之 強而避之
怒而撓之 卑而驕之
佚而労之 親而離之
攻其無備 出其不意
此兵家之勝 不可先伝也〗
兵法とは、敵を欺くことである。
故に自軍は有能であっても無能のふりをし、
自軍にとって有用であっても無用のふりを
する。
自軍が敵軍の近くにいても遠くにいるように
見せかけ、自軍が敵軍から遠くにいても
近くにいるように見せかける。
敵軍には有利だと見せかけ誘い出し、
敵軍が混乱している時に奪う。
敵軍が強力である時は自軍の防備を固め、
自軍が強力な時は敵軍への攻撃は避ける。
敵軍を挑発して敵の布陣を乱し、
自軍を卑下して敵軍を驕らせる。
自軍に余裕があると見せかけ
敵軍に心理的疲労を与え、
敵軍に与する国と親交を深めて
敵軍から味方を離れさせる。
敵軍の防備が手薄なところや敵軍が
予想していないところへ攻撃し、
不意を衝く。
此れこそが、疑うべくもない
兵家の必勝術である。
軍は本来、『進む』か『止まる』のみである。
故に、孫子のように『奇襲』を主とし、敵を欺くことによって勝利を得るなど卑劣極まりない行為である。
『兵は詭道なり』など、『詭弁』に過ぎない。
【第十八】
兵は『稜』、即ち『鋭気』を用いる。
戦に於いては権謀術数を巡らせて戦うのではなく、鋭い洞察力と堅固な意志を以て戦わなければならない。
【第十九】
儒教を信仰する者は、世の流れ次第で訓えに従って死を選ぶ。
謀議を図る者は、己に危機が迫れば逃げる。
『貞婦の石』を見たことはあるが、『謀士の骨』は未だ嘗て見たことがない。
貞操を守った者は永遠に残り、謀略を尽くした者は骨一つ残らず消え去る運命である。
【第二十】
大将に度胸があり、常に冷静にそして迅速果断に対応し、軍が規律正しければ、乱れた足跡は残らない。
此れこそが『善』であり、『強』である。
統率者によって、軍の在り方は大きく異なる。
全て、統率者次第である。
【第二十一】
蝮蛇は考えた。
「先ず、翼を得れば良いのか?
先ず、足を得れば良いのか?
先ず、觜を得れば良いのか?
翼の無い者は、地にある罠を逃れ難い。
足の無い者は、其処から動くことが出来ず食を求め難い。
觜の無い者は、食べることが出来ない為に命を全うし難い。
ああ。
如何すれば良いのか?
何か、生きる為の方法はないのか?」
こうして、蝮蛇は体内に『毒』を生んだ。
『足らない』からと言って、『不利』だからと言って、悲しんでいても意味はない。
『無いもの』は、『無い』。
『足らないもの』を、元々『有るもの』から努力して生み出し備えれば良いことである。
蝮蛇は『毒』を生んだことによって、相手に脅威を与えることが出来るようになった。
『毒』を持っている蝮蛇を、相手は攻撃しなくなった。
何故なら、相手は蝮蛇が『毒』を持っていることを『知っている』からである。
そして、たとえ相手に攻撃されても、『毒』と言う『切り札』が有れば臆せず勇気を以て戦うことが出来る。
『毒』は蝮蛇にとって禍を避ける為の『抑止力』となり、そして攻撃された時の『防御力』『戦闘力』にもなった。
【第二十二】
疑心暗鬼に陥れば、『天地』全てのものが疑わしく見える。
疑念を抱かなければ、『万物』全てのものを信じることが出来る。
不純な目で人を見れば悪意ある敵を見極めることは出来るが、善意ある味方に誤解を与え、信頼を損なうことになる。
純粋な目で人を見れば悪意ある敵に欺かれるが、善意ある味方と更なる信頼関係を築くことが出来る。
純粋に目に映るものを其のまま信じることが出来る平和な世であることが理想ではあるが、悲しいことに世の中は私利私欲に塗れ、『道徳』は廃れている。
『性善説』だけでなく『性悪説』も取り入れなければ、世は無秩序となる。
必要なものは取り入れ、不要なものは切り捨てなければならない。
其れが、秩序を守り保つ為の方法である。
【第二十三】
呉起が記した〔呉子六篇〕は、『常道』である。
〖図国第一〗は、国の統治方法について。
〖料敵第二〗は、敵を見極める方法について。
〖治兵第三〗は、兵の統率方法について。
〖論将第四〗は、将軍の在るべき姿について。
〖応変第五〗は、臨機応変に戦うことについて。
〖励士第六〗は、兵を激励する方法について。
呉起は、孫子と並び称される兵法家である。
呉起は戦の際、『奇略』を用いた。
しかし其の『術』が人々の目には『謀略』と映った為、〔呉子六篇〕は『正しい道』を説いているにも拘わらず『謀略の書』と見做され、呉起は『謀士』と呼ばれた。
【第二十四】
文官は、金銭に目が眩めば政を行わなくなる。
武官は、即断即決出来なければ戦に敗ける。
人間性に問題があり、信念も理念も覚悟も能力も実力も無く、狡猾で卑劣で姑息な手段を用いる人間に、国の存亡を左右する判断を委ねてはならない。
其の様な人間が内にいる事は、味方の中に敵がいることと同じである。
其の様な人間は、直ぐに排除すべきである。
そうでなければ、国は亡びる。
【第二十五】
雪は草木を枯らさないが、霜は草木を枯らす。
故に草木は霜を懼れるが、雪は懼れない。
『刑罰』によって人を完全に抑圧することは出来ないが、『権威』によって人を服従させることは出来る。
故に人は『刑罰』は懼れないが、『権威』は懼れる。
『暴力』による支配ではなく、『威厳』による敬服が国を強くする。
【第二十六】
蛇が蜈を捕えているのを見ると、無足は多足に勝ると思われる。
『一心』と『一気』は、戦に勝つ為の大原則である。
有象無象の不統一な大軍が、一騎当千の統率された軍に勝てるわけがない。
量ではなく、質を重んじるべきである。
【第二十七】
取るべきものは、倍にして取れ。
捨てるべきものは、倍にして捨てよ。
鳶や狐のように疑い続けて二の足を踏んでいたら好機を逃がし、後々取り返しのつかないことになる。
智者は、即断即決を旨とする。
迷いを断ち、「真に必要なものは何か」「排除すべきものは何か」を『選択』『選別』し、躊躇なく、断固とした決断を下さなければならない時がある。
小さな綻びが繕うことの出来ないくらいの大きな穴になる前に、迅速に徹底的に対処・実施しなければならない。
【第二十八】
『火』が燃えると木が焼け、石が焼け、水までも焼ける。
其れは、『五行』の中にそれぞれ『火』が在るからである。
『五行』とは万物の中に存在する『木』『火』『土』『金』『水』、五つの『英気』のことである。
人間も、『五行』で生っている。
人間の中にも、必ず『火』が在る。
『火』は『太陽の精』であり、神々の『鋭気』でもある。
『太陽』つまり『日』には神々の力が宿っており、『日の本』である≪日本≫や其処に住む≪日本人≫には神々の力の片鱗が存在する。
故に守りを固めていても崩され、戦っていても直ぐに屈服し、攻められ苦しんで投降するような者は、『五行』の『英気』を正しく用いていない者である。
『強い心』を持っていない軍は、戦いに敗れる運命にある。
【第二十九】
空腹を満たすことによって幸福感が高まると、身体的・精神的・社会的健康を得られる。
同様に戦に於いては、『正道』が『邪道』に勝つことによって人は『仁義』を行うことが出来るのである。
戦に勝たなければ秩序は乱れ、混沌とした世の中に陥る。
故に、決して戦に敗けてはならないのである。
【第三十】
小さな虫に『毒』があるのは、『天』が与えたものなのであろうか?
小さな勢力でも大敵を討つことが出来るのは、此れと同じ理由なのであろうか?
小さな虫が『天』から『毒』を与えられたのであれば、小さな勢力も『天』から『毒』を持つことを許されているはずである。
小さな勢力は、大きな勢力よりも脆弱である。
故に大きな勢力を倒す為には、『猛毒』が必要である。
たとえ小さな勢力であっても、『猛毒』という『奥の手』を所持していれば大きな勢力を倒すことが出来る。
【第三十一】
鬼の『智』が『智』であるのであれば、人の『智』も『智』である。
『鬼智』は、『人智』より優れていると言われている。
しかし本当に、『人智』は『鬼智』を凌ぐことが出来ないのであろうか?
今まで、人の『智慧』で解決してきたことは数知れない。
人々が不可能なことを可能にしてきたのは、人々が積み重ねてきた『人智』があったからである。
故に、『人智』は『鬼智』を超えることが出来るのである。
其れは、『歴史』として残っている。
【第三十二】
戦国の主君たる者は、疑いを捨てることにより『権威』を益すことが出来る。
国民を裏切るような政策を行えば、国民の『心』は主君から離れるであろう。
国民を尊ぶ政策を行えば、主君は国民から『信頼』を得るであろう。
国を豊かにし、国を強くし、内敵外敵から国を守る為にも、主君とは『権威』ある者でなければならない。
【第三十三】
懐に手や指を入れていると、『心』が乱れていることに気付かれる。
饒舌であると、つい口を滑らせて思わぬ結果を招くことになる。
決して隙を見せてはならない。
羊の皮を被った虎が、虎視眈々と人を貶める機会を窺っている。
【第三十四】
『変化』は、『常態』である。
『怪奇』は、『物質』である。
不可思議なことも、物の怪も、『普通』であると考えれば何も怖いことはない。
『怖い』と思うから、『怖い』のである。
『怖くない』と思えば、『怖くない』のである。
『平常心』を保っていれば、適確に判断し、迅速に対応できる。
何事も、心得次第である。
【第三十五】
胎内で、胎児は胞に守られている。
其れと同様に、人々は『神』に守られている。
人は、『人』と『神』に守られていることを忘れてはならない。
【第三十六】
細い蔓が、大きく重たい瓢を支える。
小さな蝮の牙の中には、『猛毒』が有る。
〔維摩経〕には、芥子(ケシ)の粒の中に須弥山が入ると書かれている。
『天』は『小さなもの』の中に、『大きなもの』を超える『力』を与えた。
たとえ『小さなもの』であっても、鍛え方次第で『大きなもの』を凌駕することが出来る。
『小さなもの』には、無限の可能性がある。
【第三十七】
先ず脚下の蛇を断ち、其の後、山中の虎を制すべきである。
内にいる小さな敵を倒した後、其のままの勢いで外にいる大きな敵を倒すことが、国の安寧秩序を齎すのである。
『内憂外患』に対処し、『内平外成』へと導く。
【第三十八】
玉珠は『外』からの『光』を『内』に吸収し、『内』から清らかな『光』を放つ。
『知』もまた玉珠の如く、『外』からの影響により『内』から煌めく『光』を発する。
炎火は『内』に在る力によって、『外』へ『火花』を散らす。
『勇』もまた炎火の如く、『内』からの影響により『外』へ力強い『光』を発する。
しかし『光』があれば、必ず『影』がある。
『知』の影は『内』に在る為、知者は自身の『内』を顧みなければならない。
『勇』の影は『外』に在る為、勇者は『外』へ進まなければならない。
此れは『陰陽』に於ける『自然の理』であり、『至道』でもある。
『内』も『外』も、『光』も『影』も、全てを知ってこそ、『武』の極地に達することが出来る。
【第三十九】
『人の道』に背いてはならない。
しかし戦に於いて、ひとたび開戦すれば倫理感も常識も崩れる。
陣頭に『仁義』なし。
刃先に『常理』なし。
ただ、戦うのみである。
情けを掛ければ、敵に付け入る隙を与えることになる。
平家が滅びたのは、情に流された平清盛が源頼朝と源義経を生かしたからである。
敵に情けを掛け、其れを仇で返された為に平家は滅亡した。
少しの油断が、自分の大切な人達を危険に晒すことになる。
『歴史』から学ばなければならない。
たとえ無情と言われようとも、『守るべきもの』の為には『心』を殺す必要がある。
『守らなければならないもの』は、『守らなければならない』。
『切り捨てるべきもの』は、『切り捨てなければならない』。
平和を壊し、秩序を乱すのであれば、徹底的に戦わなければならない。
禍根を断たなければならない。
但し、私怨の為に残虐行為をするなど断じてあってはならない。
『正攻法』で戦わなければ、必ず遺恨を残すことになる。
【第四十】
『基本』が確立していれば、『応用』が出来る。
『応用』から『基本』を得ることは出来ない。
戦に於いて、剛胆な者が兵法を学べば常勝将軍となる。
兵法を学んでから剛胆を得たとしても、敗軍の将となるだけである。
元々『強い心』を持ち、誠実で人を惹きつける求心力がある人物は、人から慕われる。
そういった人物に人は自分の命を委ねたいと考え、自然と軍の結束力は強くなり、其れが強い軍事力に結び付く。
一方、どれ程戦略家として優れていようとも、元々妄言綺語、大言壮語、阿諛追従、敵前逃亡、傲岸不遜な人物に人は付いていかない。
そういった人物が統率する軍は、弱い。
【第四十一】
亀が鴻から飛び方を万年学んでも、鴻になることはない。
しかし螺が子蜂の飛翔を祈れば、子蜂は直ぐに飛ぶことが出来る。
得ざる者と得る者の違いとは、『天』の采配によるものなのであろうか?
人にはそれぞれ、『天性の才能』というものがある。
人にはそれぞれ、『出来ること』『出来ないこと』がある。
人にはそれぞれ、『限界』がある。
『出来ること』は、『出来る』。
『出来ないこと』は、『出来ない』。
其れは、『運命』である。
其の『運命』の中で、人は「何を為すべきか」「何が出来るのか」「何が最善か」を考えれば良い。
そして、『自分の出来ること』をすれば良い。
【第四十二】
龍は、風の勢いによって天空に騰ることが出来る。
鯉は、自らの力で龍門に登ることが出来る。
龍は、自由に空を飛ぶことが出来る。
其れは、龍に元々空を飛ぶ能力があるからである。
鯉は、自力で滝を上る。
其れは鯉が最後まで諦めず、努力をして川を上ろうとするからである。
自分の今ある限りの能力を伸ばす為に地道な努力を続けていれば、困難なことも乗り越えることが出来る。
【第四十三】
単兵が急襲して敵を捕虜にする為には、『毒尾』を打てば良い。
力の弱いものが巨大な敵を倒す為には、敵の『弱点』や『急所』を突けば良い。
其れが、巨大な敵を倒す為の『秘訣』である。
【第四十四】
一本の矢を弓から勢いよく飛び放つことは、寡兵が大軍を討つことと同じである。
小さな勢力であっても、ただ一生懸命、真っ直ぐに突き進むべし。
そうすれば、大軍に一矢報いることが出来る。
【第四十五】
車輪が危険だと理解している蟷螂は、車輪に轢かれない為に車輪を避ける。
車輪が危険だと理解していない蟷螂は、車輪に威嚇したとしても車輪に轢かれる。
つまり、先ず『知識』が第一であって、『勇気』が第二であるということである。
しかし、其れは本当であろうか?
昔、ある者が船を造る者に質問した。
「帆と舵は、どちらを先に作るのか?」
船を造る者は鑿を投げ、怒りを露わにして答えた。
「そのような問いをする者に、海を渡ることなど出来はしない」
帆も舵も、船にとって欠かすことの出来ない大切なものである。
帆も舵も、どちらも同じくらい大切なものである。
其れ位のことも分からず、其のような下らない質問をする人物に海を渡ることなど出来はしない。
抑々其のような質問をすること自体、船や海について何も理解していない証拠である。
何も理解せずに、大したことも考えられないような人間に、大きなことを成し遂げることなど出来はしない。
【第四十六】
青虫は、何れ自分が空を飛ぶということを知っているのであろうか?
蝉は、自分が土の中に棲んでいたことを覚えているのであろうか?
一つのものが変わると、一方を得れば一方を失い、一方を失えば一方を得る。
自分が変われば、自分の状況や自分の周りの環境、様々なものが変わる。
自分の状況や自分の周りの環境、様々なものが変われば、自分も変わる。
それぞれに対応し、それぞれが生きていく。
【第四十七】
人は、神気を得れば勝つことが出来る。
鬼は、神気を得れば恐れられる。
人の『心』が強くあれば、何ものにも負けない。
鬼が恐怖で人を支配しようとしても、人は完全に従うことはない。
恐怖で人心を掌握することなど、出来はしない。
【第四十八】
水の中で生きるものは、甲羅や鱗で自分を守っている。
山の中で生きるものは、角や牙を使って攻撃する。
しかし守備と攻撃、一方だけ強固であっても意味がない。
戦に於いて、守備と攻撃は同等でなければならない。
強固な守備力だけでは防御に力が注がれ、どうしても攻撃力が低下してしまう。
また敵からの度重なる攻撃を受け続ければ時間と攻撃力が削られ、一気に攻めてきた敵の攻撃に対応しきれず守備は乱れ、総崩れとなる可能性がある。
一方、高い攻撃力だけでは戦闘に力が注がれ、どうしても守備力が弱まってしまう。
また守備の固い敵を倒すことに時間を掛ければ次第に攻撃力や兵の士気も低下し、敵が虚を衝いて攻撃してくれば守りの薄いところは大打撃を受ける可能性がある。
つまり、『堅守強攻』が何よりも重要であるということである。
【第四十九】
石を投げて大軍を撃つ為には、大きな『力』が必要である。
放たれた矢を岩に貫かせる為には、優れた『術』が必要である。
投石機を使って石に『力』を加えて投げれば、敵に損害を与えることが出来る。
しかし矢で石を貫く為には、相当の『術』が無ければ不可能である。
では、『術』は『力』よりも勝るのであろうか?
否。
『術』も『力』も同等である。
『術』は、草鞋のようなものである。
病の為に歩行が難しくなった人が草履を履いても、草履は本来の役割を果たしきれない。
丈夫な足に着用してこそ、草履は本来の役割を果たす。
『術』を用いるにしても、『力』が無ければ機能しない。
『力』が有っても、其れを生かす為の『術』が無ければ『力』は無用の長物である。
『術』も『力』も同等ではあるが、使い方によって生かしも殺しもする。
戦に於いて『術』も『力』も重要であるが、結局は使う者次第である。
【第五十】
龍となって、雲雨を降らそうか?
虎となって、百獣を懼れさせようか?
狐となって、怪異を齎そうか?
龍となるものは、『威』である。
虎となるものは、『勇』である。
狐となるものは、『知』である。
『威』は、長く続かない。
『勇』は、欠け易い。
『知』は、実がない。
故に古人は『威』に頼らず、『勇』に頼らず、『知』にも頼らない。
『威』『勇』『知』は重要であり、重要でもない。
【第五十一】
北極星を中心に、星は動く。
北斗七星もまた、北極星を中心に動く。
磁石を向ければ、何があろうとも磁針は必ず北を指す。
其れは、決して変わることはない。
此れは、『天道』である。
『天道』に従い、正しい方向を目指して迷わず進むべきである。
【第五十二】
兵の本来の『役割』は国の禍を断ち、憂いをなくすことである。
断じて、他国を侵略する為のものではない。
【第五十三】
兵を用いる極意は、孫子の『詭弁』ではない。
孫子の手練手管を弄す戦法は、≪日本人≫や≪日本≫の文化とは相容れないものである。
たとえ相手が卑怯な手段で攻めて来ようとも、≪日本人≫は≪日本人≫としての誇りをもって正々堂々と真実を伝え続け、戦うべきである。
ただ、正々堂々と戦っているだけでは卑劣で悪質な手口で攻撃をしてくる敵に勝つことは難しい。
あらゆる『謀略』に対抗するには、『正攻法』だけでは通用しない。
故に、多少の『策』を講じる必要がある。
『正攻法』だけではなく、『妙計奇策』を講じるべきである。
『妙計奇策』は、≪日本人≫の得意とするところである。
しかし、『奸策』を弄する事は断じて許されない。
勝つことを目的とし、勝つ為には手段を選ばないなど、いかなる理由があろうとも絶対にあってはならないことである。
我々は、≪日本人≫としての矜持を持って戦わなければならない。
其れが出来る者こそが、≪真の日本人≫である。
では、何を以て≪真の日本人≫と言うのか?
≪日本人≫の血が流れているから、≪真の日本人≫と言うのか?
否。
≪日本人≫の血が流れているかどうかは、問題ではない。
今まで≪日本人≫によって培われてきた【日本の精神】を受け継いだ者を、≪真の日本人≫と言う。
≪真の日本人≫とは、【日本の精神】が其の者に伝わっているかどうかである。
≪真の日本人≫でなければ、【日本の精神】を理解することは出来ない。
【日本の精神】を自身の骨と化さなければ、≪真の日本人≫にはなれない。
≪日本≫は、【日本の精神】が根付いた国である。
【日本の精神】が受け継がれた≪真の日本人≫が≪日本≫からいなくなれば、≪日本≫という『国』は消滅する。
故に、断じて≪真の日本人≫は滅びてはならない。
≪真の日本人≫が生きている限り≪日本≫は生き続け、【日本の精神】も≪真の日本人≫に受け継がれる。
≪真の日本人≫は、≪日本≫を守る為に正々堂々と闘わなければならない。
≪真の日本人≫は、≪日本≫を守る為に正々堂々と戦わなければならない。
此れこそが、≪日本人≫が≪日本人≫たる所以である」




