【睦永猫乃】憧憬
―~*✣*✣*~―
足が、腕が、身体が動かない。
目を開いても、視界は全くの闇。彼女の胎内は暖かく、枝根に身動きができないほどに固定されて、ドクリと脈打つのが自らの拍動なのか彼女のそれなのかすら定かではない。
「――リーリエ! どうしてだ、リーリエ!!」
だから我は、ひたすらに叫び続けていた。
もはや調律者の残滓は跡形もなく失われている。ミナ……あの獲物の雌が唐突に覚醒し、この場から化け物の最後の意識を消し飛ばして行ったからだ。
そしてここに残されたのは我と、そう、エルフのリーリエ……。
彼女は、我の師であり、育ての親であり、――――そして人間どもに欺かれ、調律者の"母体"に"黒曜の大樹"にされてしまった、我のたった一人の家族だった。
――――しかしもはやその姿すら、あの雌によって崩されてしまった。
『お願い、彼を止めて!』
去り際のあの雌の一言。あれと同時に、ミナは自らの力をリーリエに注ぎ、そしてリーリエはまるでその言葉に従うかのように我を懐いたままひしゃげ、崩壊した。
思い返せばミナのあの覚醒の瞬間すら、リーリエもまた、あの雌に手を貸したようにしか思えてならなかった。故に余計に、我はわけが分からなくなる。
「どうしてだリーリエ! なぜあの雌の言うことをきく! あの雌とて、中身は人間だぞ! なぜ!? 貴女がこうなったそもそもの根源は、貴方を疎んで調停者どもに売り渡した、あの悪しき人間どもだったではないか!」
するとそれに応えるように、我を包む膚が震えた。それはまるで否定のように思え、我は切なさに喉を鳴らす。
我は幼い頃、人間どもに家族を奪われていた。
ただ森を守り、愛していただけの家族を残忍に殺され、生まれた森も今や人間どもに蹂躙されて跡形もない。
家族も家も失い野垂れ死ぬその寸前、拾ってくれたのがリーリエだった。
リーリエはエルフでありながら、人間と共に生きていた。
優しいリーリエ。美しいリーリエ。
彼女は癒し手……あるいは救済者の力と呼ばれる力で、種族など隔てなく癒し、助けて回っていた。その合間には、魔法の才覚のあった我に薬の調合や魔法の使い方を教え、慈しんでもくれた。
だが我はどうしても、彼女のやり方が気に入らない時があった。
故にあれは、エルフの治療など薄気味悪いとして、とある街から追い出された夜のことだった。
『どうしてリーリエはいつも、あんな人間どもにばかり肩入れをするんだ! リーリエも森に戻って、おれたちだけを助けてくれればいいのに』
野営の火を囲み、幼い我は彼女に食ってかかっていた。リーリエの金のまつ毛は伏せられ、焚き火の光に憂うような影を伸ばしている。
『ノーチス。あなたの傷は理解しているつもりです。でも、あなたの視野はまだ狭すぎる。
どこにでも困っている人は居るものですよ。それは人間も私たちも変わらない……。今までも、私たちを受け入れてくれる人間の町や村はありました。求めてくれる人がいるならば、私達はそこに行く。ただそれだけなのですよ』
それから彼女は、命に貴賤などありません、と微笑んだが、我はその意味が理解できなかった。
……そして今も、それは変わらない。
奥歯を噛み、食い込んだ爪から血の滑りを感じるほどに拳を握り込む。
どうして庇う。なぜ守ろうとする。
復讐のため外法にまで手を染め、研究に研究を重ねた末、やっと訪れた大きなチャンスだった。
我がリーリエの胎に"贄"を閉じ込めたのも、この復讐を最愛の、たった一人の貴女に見届けて欲しい、ただそれだけであったのに!
その時だった。
「――もう、やめにしましょうノーチス」
リーリエの声が、確かに聞こえた。
二度と聞くことも叶わないと思っていた、麗しい声だった。




