【ウィズ】再生
ステラとノーチスの声が脳裏で混ざり合う。世界の調和を謳う声と、種の繁栄を説く声。どちらも正しく聞こえ、そしてどちらもが、命を自分たちの都合の良い形に変えようとしている。
——どちらを信じるべきなのか……その問いが、光よりも早く胸を貫いた。
いや、違う。
問いそのものが、間違っている……!
ノーチスの言う「種の繁栄」も、ステラの言う「花の救済」も、どちらも私やアリーの命を、その尊厳を踏みにじっていることに変わりはないじゃないか。私は、そんな歪んだ理のどちらかを選ぶために、ここに来たんじゃない。
私は、何も護れなかった。チョビ助も、カナンも。だから、今度こそ護りたかった。その想いが、獣医としての私の、ただ一つの本能だったはずだ。
私の視線は、ノーチスでも、ステラの声が響く空間でもなく、ただ一点に注がれていた。腕の中にある植木鉢。そこに咲く、アリーのなれの果てである、大きな花に。
「ミナ、こっちに来い。そんな調律者の言うことなど信じるな」
『ミナ……今こそ、救って……世界を——。ボクと繋がって——』
二つの身勝手な声が、私を自分たちの側へ引き込もうとする。私は、そのどちらにも答えなかった。ただ、植木鉢を抱きしめる手に力を込める。
「何をしている、ミナ」
ノーチスの声に、苛立ちの色が混じる。
私は静かに鉢を床に下ろし、花の前に膝をついた。そして、震える手を、その肉厚な葉にそっと触れさせる。
「あなたたちの理屈なんて、私には分からない」
私の声は、静かだった。しかし、その奥には、崖の上で全てを諦めた私とは違う、揺るぎない決意が宿っていた。
「どっちが本当のこと言ってるとか、世界の真実とか、そんな大きな話はどうでもいい。私はただ、この子を……アリーを、助けたいだけだ!」
その叫びと同時に、私は自身の魂の全てを注ぎ込むように、掌に意識を集中させた。——癒しの力を。私の後悔も、贖罪も、そして命を救いたいと願うただ純粋な祈りの全てを。
その瞬間、私の掌から、柔らかな青白い光が溢れ出した。それは魔法というより、もっと根源的な、魂の輝きそのものだった。光は、花の葉脈を伝い、その毒々しい緋色の花弁を、優しく包み込んでいく。
「なっ……!?」
『……これは……調律とは違う……ただ、癒す光……?』
ノーチスとステラの、驚愕に満ちた声が響く。光に照らされた花が、ふるりと一度、大きく震えた。花弁の中心にある、白目を失ったはずの翠の瞳から、ぽろり、と一筋、朝露のような雫がこぼれ落ちた。
「やめろ、ミナ!それは既に穢れた理の一部だ!元に戻すことなど——」
ノーチスの制止の声も、今の私には届かない。私はただ、祈り続けた。光はさらに輝きを増し、奇跡の始まりを告げる。
最初に起こったのは、色の変化だった。おぞましい腐肉を思わせた緋色の花弁が、その毒々しさを洗い流されるように、純粋な白へと変わっていく。ぱきん、と硝子細工が砕けるような澄んだ音が響くと、純白の花弁が一枚、また一枚と、光の粒子となってはかなく散り始めた。
花弁が全て散りきると、そこには光の繭のような蕾だけが残される。蕾はゆっくりと、まるで逆再生の映像のように、固く閉じていく。その表面を覆っていた植物の繊維が解け、下から現れたのは、陶器のように滑らかな、人の肌だった。
天を仰いでいた花は、次第にその首をもたげ、人の輪郭をなぞるように形を変えていく。太い茎はしなやかな首へ、肉厚な葉はか細い腕へ。光の繭が完全に消え去った時、そこには、生まれたての赤子のように無垢な姿で眠る、一人の少女が横たわっていた。銀糸のような髪が、清められた苔の上に広がっている。腕にあったはずの傷は跡形もなく消え、その寝顔は、ただ安らかだった。
「馬鹿な……。調律者の呪いを、ただの癒しの力で浄化したというのか……ありえん……!」
ノーチスが呆然と呟く。今しかない。私の直感が、そう告げていた。
私は躊躇なく、眠るアリーの体をそっと抱きかかえる。温かい。軽い。間違いなく、生きている人間の重みだ。だが、出口はない。背後ではノーチスが我に返りかけている。
私は塞がれた大樹の壁に振り返り、最後の力を振り絞ってその生きた壁に手を触れた。「どいて!」癒しの光が再び奔流となって注ぎ込まれる。大樹が苦しむように軋み、私の手が触れた部分の木肌がまるで瘡蓋のように剥がれ落ち、獣一頭が通れるほどの穴を穿った。私はその穴へ、一心不乱に飛び込んだ。
「待て、ミナ!」
背後からノーチスの怒号が飛ぶ。しかし、私は振り返らない。振り返る代わりに、私に癒された大樹そのものへ、祈るように叫んだ。
「お願い、彼を止めて!」
その声に呼応するかのように、大樹が再び激しく軋む。私の足元、そしてノーチスのいる後方から、無数の木の根が床を突き破り、巨大な蛇のようにうねりながら彼に襲い掛かった。
「なっ、小賢しい真似を……!」
ノーチスの焦る声と、何かがへし折れるような鈍い音を背中で聞きながら、私はただ前だけを見て走った。
森へ出てからも、私は足を止めなかった。ワーウルフの鋭敏な嗅覚を、獣医としての知識で欺く。追跡を困難にする強い匂いを放つ苔、獣が嫌う特定の樹液。見つけ次第、それらを自分とアリーの体に擦り付け、必死で痕跡を消していく。この腕の中にある温もりを、今度こそ護り抜くと決めたから。
どれくらい走っただろうか。あたりは暗くなり、夜のとばりが落ちていた。息が切れ、足がもつれ、私は小さな洞窟のような場所に転がり込んだ。幸い、追ってくる気配はない。アリーをそっと横たえ、その呼吸を確かめる。穏やかだ。大丈夫、もう危険はない。安堵した瞬間、私の意識もまた、深い闇へと落ちていった。
次に目を覚ました時、翡翠のような瞳が、すぐ間近で私を心配そうに覗き込んでいた。
「……あの……あなたは、だれ……?」
か細い、しかし確かな人間の声。私は、ワーウルフの貌のまま、できるだけ優しい笑みを浮かべて答えた。
「私はミナ。……ただの、獣医よ」
全てを失った私の、二度目の人生。それは、この小さな命を抱きしめた、この瞬間から始まったのだ。




