【白蛇】胎囚
陽は傾き、森の奥は青く沈みはじめていた。
植木鉢に移されたアリーを抱え、ノーチスに導かれるまま、苔むした獣道を進む。空気はしっとりと冷たく、地を這う霧の中で木々の根が無数の蛇のように絡まりあっていた。
「この先に、師の棲まう大樹がある」
ノーチスの声は穏やかで、どこか祈りのようだった。
やがて森の中心にそれは現れた。
幹の直径だけで十人が手を繋いでも届かぬほどの巨木。表皮は黒曜石のように滑らかで、幹の中央に穿たれた穴が巨人の心臓の入口のように見えた。内部からは淡い光が漏れている。
「中へ」
促されるまま足を踏み入れると、そこは不思議なほど静寂だった。
壁という壁が柔らかく脈打ち、触れると温かい。樹の内側はまるで生き物の胎内のように息づいていた。
だが——誰の姿もない。
「……師は?」
「すぐにお会いできる」
ノーチスは微笑んだ。その笑みに僅かな違和を覚えた次の瞬間、背後で重い音が響く。格子扉が閉ざされ、ガコン、と鈍い音が響いた。
息を呑む音が自分のものだと気づくまで数拍を要した。
「ノーチスさん……?」
彼が扉の向こうでゆっくりと振り向くと、金の瞳がまるで血を吸ったように濁った光を宿していた。
「……騙しやすい馬鹿で助かる」
その声は低く、乾いていた。
「この地に落とされる転生者どもは、純粋すぎるな。
お前はこの森を再び繁栄へ導く胎としてこれ以上ない器だ。
——ここで生涯、我らの子を産み続けるがいい」
「な、何を言って……っ!」
扉に駆け寄るが、閂を掛けられたようにびくともしない。
ノーチスは淡々と続けた。
「お前は癒し手だろう。あの花となった娘も、お前の力を己が種のものにしようとしただろう。だが人は脆く、それでいて世界を穢し続けた。森を焼き、川を黒く濁らせ、獣を弄びながら文明と呼んだ。
ならば我らの獣血で新たな種を紡ぐしかない。この世界を正しく保つには、人などという癌を滅ぼさねばならぬ」
その言葉には怒りでも憎しみでもなく、静かな確信があった。狂信——それ以外の名を知らない。
「そんな……私は、ただ彼女を助けたかっただけなのに……」
膝が震え、指先が冷たくなる。ステラを焼いた光景が脳裏を過ぎる。あのとき信じたのは——彼だった。
それなのに今、彼は——。
——そのとき。
空間の奥で微かな音がした。最初は風かと思った。けれど違う。囁き声だ。木の根の奥から滲み出るような、小さな声。
『……ミナ……聞こえるキュ……?』
息が止まる。
この声——まさか。
『……ボクだキュ。ステラだキュ。ノーチスは嘘をついてるキュ。あいつらは、世界を貪り、それをボクらのせいにしてるっキュ。
ミナ、お願い。この世界を……護って……』
「嘘よ……あなたは消えたはず……」
どこからともなく樹の内壁が脈動する。根の一本が光を帯び、まるで脈のように震えながらミナの足元へと伸びてきた。体の奥が熱を帯び、視界の縁が白く滲む。
『信じて……ボクたちはこの世界を守りたいだけキュ……』
ノーチスが顔をしかめ、周囲を見回す。
「ステラの残響、か。まだ残っていやがったのか」
低く唸る声のすぐあと、彼の背から銀の毛が逆立つ。
「黙れ。お前ら調律者などにこの牝を渡すものか。今度こそ——灼き尽くしてやる」
ノーチスの爪が光を掻き切るように振るわれた。木扉が裂け、木片が弾け飛ぶ。ノーチスが大股で近寄ってくる。
その瞬間、ミナの胸の奥が焼けるように痛んだ。紅の紋が再び浮かび、光が走る。
『ミナ……今こそ、救って……世界を——。ボクと繋がって——』
「ミナ、こっちに来い。そんな調律者の言うことなど信じるな」
ステラとノーチスの声が脳裏で混ざり合う。
——どちらを信じるべきなのか……。
その問いが光よりも早く胸を貫いた。
同時に、アリーの微かな脈動が植木鉢の冷ややかな土を透かして、私の掌へと滲み込んだ気がした。




