【睦永猫乃】翠眼
流石に崖から飛び降りてしまったことまでは話したくない。
それでも一通り落ち着いたところで斯々然々、私がどこで生き、ステラの脇で目覚めてから何をしてしまったのかまでは語った。彼は一度も遮らずに話を聞いてくれた。
「……成る程な、通りで中身が違うわけだ」
話し終わると、正面から『はぁ……』と静かなため息が聞こえてくる。けれどそれは呆れではなく、受容と同情から来るような温かみを含んでいた。
「ミナ、と名乗ってたな……? まずは涙を拭け。我が泣かしたようで据わりが悪い」
「ご、ごめんなさい」
ノーチスと名乗った彼は、身体の比率からして窮屈そうな椅子に身体を預けたまま、懐からハンカチのような布を差し出してくる。私がそれを受け取ると、次に指先に火を灯し、一緒に取り出していた煙管の先にそれを点け始めた。
「先に言っておくが、お主は何も悪くない」
そうして重ならない視線で淡々と告げてくる。鋭いはずの目尻には、私の痛みを拒まない柔らかさがあった。
「ありがとうございます……」
ここはノーチスに連れられて来た、彼の家の裏庭だった。手入れされた草花の茂る中、石の円卓に向かい合う。
ズビズビと鼻を鳴らして涙を拭くと、庭の花の匂いに混じり、草のような香ばしさを含みながらやや甘くて刺激のある――どう考えても香水の香りが鼻の奥を撫でた。
何度見ても、ノーチスは野性味すら感じる人型の獣である。
なのに、こうして村はずれの一軒家を住まいにしていることも、持ち物からこんな文化的な匂いを漂わせていることも、庭の花が綺麗なことも、私には全部意外だった。
彼は生業として薬師をしていて、近隣を巡って薬を売るのを主な稼ぎにしているのだという。
というか、ここは一体どこなのだろう?
(私、本当に異世界に来てしまった……?)
不安な視線で辺りをなぞる。手の中のハンカチの柔らかさを握りしめた。今は彼の存在だけが、私とこの見知らぬ場所とを繋いでいる。
3服目の煙が細く吐き出されると、甘く乾いた香りが風と共に鼻先を掠めて行った。そうしてトン、と雁首から灰を落とし、四角くて少し鋭いこがねの瞳が再び私を向いた。
「……少し落ち着いたか?」
そこで初めて、流れていた沈黙の意義を知る。そっと頷くと、ノーチスは静かに切り出し始めた。
「お主がステラと呼んでいたアレは『調律者』のなりそこないだ。
アレらは人の意思こそが世界を歪めると考え、我らが全て草木と成れば、世界は完全な姿になると考えている。 更にはそれを存在の目的とする。
我の仲間も何人もやられた。解りあえはせぬ危険な存在だ」
私が目を丸くすると、『出遭ったのが『本物』でなくて良かったな』と言い於いて彼は続ける。煙管に詰めた草に、また火が点った。
「アレらは時折、あわれな獲物を草木に変えた後、特別に残しておいた『抜け殻』の中に、異界から呼び寄せた魂を植え付けることもあるという。……お主がアレとしたという会話を聞いて、思い出した」
「なんで、そんな……」
「憶測だが。
お主の証言と併せても、額に石を持たないしもべを使った方が、警戒されないぶん効率も良いのだろう。
で、まぁ、今の話でお主も薄々気づいているかもしれんな。――この地は、お前が生きた地とは時も空間も交わらない世界だ」
淡々と返され言葉を無くすも、間に流れる煙にはなぜか冷たさより、この庭を過ぎる風のような穏やかさがあった。
けれどそこにあった彼の表情も、ふと右脇へ視線を落とすのと同時に、どこか痛みを潜めた苦さに変わってしまう。
「――ただ、アリー、お主にだけは可哀想なことをしてしまった」
金の瞳には、切ない光が沈んでいる。その声は足元の芝に置かれた、鉢の中に向けられていた。
「すまなかった。本当に……謝っても謝りきれない」
そこには私が助けようとして花にしてしまった、かつて少女であったものがいる。根を傷つけないよう掘り出して連れ帰り、この鉢に移されたのだ。
直径はひまわり大、どこかラフレシアに似た毒々しい緋色の花弁。太くて短い茎から肉厚の葉を幾枚も伸べて、白目を失った翠の両目が、花芯からじっとノーチスを凝視しているようだ。
彼女は、私が目覚めた森を挟んで向こう村に暮らしていた子だったらしい。ときおり祖父に薬を売りに来る彼によく懐いていたという。
けれど昨夜、アリーの暮らす村は野盗の一団に襲われた。
幸い、居合わせたノーチスの力で野盗は警吏に引き渡せたが、混乱のさなかアリーの家族は離れ離れになってしまった。彼が父母と共に彼女を探すと、村の者が『襲われたアリーが森に逃げ込むのを見た』と話したという。
――そして彼女を追ううちに、私が調律者と接触しているあの場面に遭遇したと、彼は話した。魂を視る彼には、私の脇に咲いた花が探していた子であることもすぐ判ってしまったという。
「アリーが手傷を負っているのも、匂いで分かっていたのだ。連れ戻しに来た我が、いま少し、辿り着くのが早ければ……」
悼むように呟くノーチスの指が葉の縁に触れると、気のせいか花がふるりと揺れたように見えた。
彼女は、私のせいでこうなったのだ。2人の間にあったらしい絆を前にして、無数の針のような罪悪感が余計に胸に沈み込む。
その間にも、ノーチスは花に語りかけている。
「……だが、な、アリー。こうなってしまっては、もう……。せめて穏やかに生きてくれ」
『生きてくれ』?
私はふと、その言葉に引っかかるものを覚えた。
だってそれは、能動性を求める命令のかたちだ。まるで彼女に、まだ意思と意識と人としての尊厳があるかのような。
……その疑念は瞬く間に、私の背筋へ悍ましい予感を走らせる。
「……ねぇノーチスさん、その……」
「ん?」
「アリー、ちゃんって、もしかしてまだ私達のことがわかる、の……?」
一拍、躊躇うような間があった。
それから確かに、微かに頷く。それがどれだけ残酷なことか、きっと彼も知っていた。
「中身は、何も変わらない……」
「そん、な」
素足で薄氷を踏むような鋭い痛みと冷たさが、私の心に襲い掛かる。
「戻せない、んですか?」
すると彼は、静かな痛みを沈めた顔で私を見つめた。
「なあミナ、洗脳こそ免れたが、お主はあのなりそこないにその力を注がれている。……ゆえに正直なところ、それくらいは『わかる』と思ったのだが……そうではないのだな……」
深みのある声に責める色はなかったけれど、私に刺さった罪悪感を抉るのには十分だった。俯く。声が震える。
助けようと思った。助けられると思った。なのに、こんなことになるなんて、私は……。
「ごめん、なさい」
途端、「んん、すまないっ、そういう意味では。……だが……」とノーチスは慌てた声音で続けた。
「……そうか、どちらもまだ覚醒しきってないのか」
顔を上げると、私の表層よりずっと奥の方を、黄金の瞳が見透していた。
「ミナ、見たところお主の魂の紋自体は癒し手のそれだ。その力を2つ併せれば、或いは……。我の師であった人ならば、お主の力に道を示せるかもしれん」
「それは、本当……?」
「仮定の話だ」
それでも灯されたその希望に、私は目端に残った涙の残渣を拭った。何一つ救えないまま通り過ぎていくのを見送るのは、もう嫌だった。
「ノーチスさん、私、この子を人に戻したいです。だって、私のせいでこうなった、のに」
ハンカチを握りしめ、金の瞳を見つめた。
「会わせて、貰えませんか? ノーチスさんの先生に……」




