【白蛇】堕華
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湿潤の苔の匂いが胸腔の奥底へ沈みこむ。指先を動かすたび獣毛が擦れ、空気がざらりと滲む。
己が如何な貌をしていようと、確かめる余裕すら赦されていない。
「お願いだキュ。はやく、あの子を助けて!」
その声音は鈴を震わせる如く澄んでいた。だがその清冽さの底には、焦燥に似た甘やかな毒を孕んでいる。
脳髄の奥を撫でるような囁きが理性を静かに解きほぐす。
苔の上を這う血が朝露のように光を返している。
銀糸の髪を散らした少女が横たわり、唇は紫水晶の如く褪せていた。胸の上下すら今にも絶えようとしている。
嗅覚が獣の本能として鋭敏に働く。甘く、鉄を孕んだ気配。恐らくは致死性の矢毒。
人としての記憶が職能の習慣として脳裏に甦る。体温、呼吸、瞳孔の収縮——まだ、間に合う。
「救えるキュ。あなたなら。救済者の手が呪を祓うキュ」
紅玉の額石が淡く燈り、私の全身へ灼けるような熱が注ぎこまれた。
唇が乾き、牙の先が疼く。——解毒の儀。その言葉が忘却の深淵から泡のように浮かび上がった。
少女の頬へと手を伸ばす。冷たい。この命を繋ぐには逡巡すらあまりに罪深い。
私は目を閉じた。チョビ助。カナン。——もう、二度と喪いたくない。
掌を近づけ、傷口に触れる。
その瞬間、胸の奥で何かが共鳴した。光鱗が静かに滲延する。それは呼吸でも吐息でもない、魂震。
少女の体が微かに震える。肩から青黒い紋様が走り、流脱した。淡い靄のような光が胸より立ちのぼる。あまりに穏やかで、美しい。まるで——魂そのものが羽化していくように。
「よかった……これで楽になるキュ」
ステラが微笑んだ。慈悲に似て、しかし底に氷の無表情を宿した微笑。紅の宝石が心腑の如く脈打つ。その小さな影が私と少女の輪郭を包みこんでいった。
「これで世界が少しだけ正されたキュ」
「……え?」
問いかけたときにはステラは既に踵を返していた。
その瞬間、森が——世界という名の呼吸を止めた。
白い尾が闇に揺らめく。残されたのは私の腕の中で微命を保つ少女と、苔の上に揺らめくひとすじの銀煙。
それが何であったのかを知るのは間もなくだった。
少女の血が緩やかに逆流し始める。傷口から細い根のような暗緋糸が幾筋も伸び、苔の深みに吸いこまれていく。
肌は熱を帯びた陶磁のごとく紅く硬化し、ひび割れの隙間から柔らかな芽が滲み出た。
「どういうこと、ステラ!」
「静かに見てるキュ。——命は、形を変えてこそ救われるキュ」
その声は凍った泉の底から響くようだった。
少女の胸が最後の一呼吸を描き、そのまま静止した。
次の瞬間、足元の苔が波打つ如く盛り上がり、巨大な蕾がひとつ、音もなく開いた。
それは私が知るどの花とも異なる。腐肉の匂いと蜜の甘やかさが溶けあい、紅黒の花弁が幾重にも重なって森の光を吸いこんでいく。
その中心には少女の翡翠の瞳がふたつ、朝露のように咲いていた。
「彼女は永遠に、この森を見守れるキュ」
ステラがそう呟いた刹那、紅い額石がゆらりと煌めき、ラフレシアのような花を崇高なものに見せかける。
私は花弁の奥で微かに震える脈を感じた。——彼女は姿を変え、森の血脈へ還ったのだと。
「どう、して……」
喉奥より洩れた声は震えと化した。
救ったはずの命がなぜ花に変わるのか。理が凍み、胸腑が軋む。
ステラの声が風に溶ける。
「花は争わない。咲くときも、散るときも、黙して世界を赦すキュ。
誰かを踏み潰すことも、誰かの血を憎むこともない。だから花は裁かれず、穢れず、永遠にこの森と呼吸できるキュ。
——それが救済。この世界が保たれる、唯一の理キュ。
あなたにも手伝ってほしいキュ」
風が花の匂いを運んでいく。血と祈りの香が混ざりあう、春の薫。




