【睦永猫乃】変移
けれどその間も、動物たちはずっと苦しんでいた。
会社側は簡単な投薬で予防できる病気にすら対策を講じない。腹に水を溜め、苦しそうな喘鳴を立てながら皆じわじわと死んでいく。
ある日、弱った身体で出産に耐え切れなかった母犬が死ぬと、会社は遺された仔犬を処分しろと、私に指示してきた。
もう、許せなかった。その瞬間、殺していた筈の心がめらめらと燃え上がるのを感じた。
私は、職場が動物愛護法に違反していると保健所に内部告発をした。
……そして、会社を首になったのだ。
不当な解雇だった。
なのにそれから3日も経たないうちに、私は家で飼っていた犬たちをも不注意で殺してしまう。
チョビ助にカナン。
大学を卒業する直前に両親を亡くし天涯孤独となった私にとって、大事な灯火のような2匹のはずだった。
なのに私はあの日、玄関の戸を開け放したままにしていたのだ。
2匹は、きっとはしゃいだに違いない。連れ立って外に出て、そして車に轢かれた無惨な姿で見つかった。獣医という道を選んでおきながら、私は職場でも家でも、結局この手で何も護ってやることが出来なかったのである。
極めつけに、高校の頃から付き合ってきた恋人にまで裏切られれば、私の器からは希望なんてものは残さず零れ落ちていた。
だからそれは頬を裂く程に凍えた風の吹く、静かな夜のことだ。家の裏手の崖地の端に、私は幽鬼のように立っていた。
満月は天高くつめたい瞳で、白んだ吐息と共に立ち尽くす私を見つめる。下の街並みは生きて瞬き、人の温もりと気配を伝えてくる。
なのにここにはもう、私と繋がる絆を手繰ってくれる光は一つもない。私の心はアルコールと自分のかなしみが作り出した泥濘の奥へ沈む。
その、息継ぎすら諦めた夜闇に誘われるまま足を踏み出して、そこからは宙へ真っ逆さまだった。
走馬灯は走らなかった。
代わりに、来世は護りたいものを護りきれるものになりたいと強く想って――頭蓋骨に感じた一瞬の痛みを最後に、私の思考は砕け散った。
~*✣*✣*~
――その、筈だったんだけど。
辺りを見回す。
ピチョン、ピチョン……と、遠くから水の滴る音が岩壁に反響してくる。洞窟の中のようだった。
崩れた天井から射してくる金の陽差しと、洞床を這う澄んだ湿気が、私が伏していたこの場所に柔らかい苔のマットを敷いている。よく見れば苔の隙から、小指の先程の小さな白い蕾も頭をもたげて、あちこちで花弁を広げていた。
自分を殺したものがたどり着くにしては、あまりに綺麗な場所に身を置いている。
「ここは、天国……?」
「きゅうん、あの世じゃないキュ!」
唐突に返事があったことには、驚きより怯えが勝っていた。見開いた目で咄嗟に首を巡らせると、声の主は真後ろにいた。
額に透き通った赤い石を埋め込んだ、アイスブルーの毛並みの不思議な生き物が、首を傾げてこっちを見ている。
え、なにこれ? そんな、動物が喋るはずが……。
訳が分からなくなる。思わず両手で顔を覆うも、その瞬間に新しい違和感に気づいてしまった。
私が触れたのは滑らかな毛並み。そこにいつもあった『素肌』の手触りを感じ取れなかった。更に目の下にある鼻筋が、私の知る私の顔とはかけ離れて異様に突き出ている。
そして極めつけはその感触に驚いて離した両手を、改めて視界に捉えた瞬間。
「はっ、なに」
毛むくじゃら、だった。手のひらに毛はないものの、露わになっている地肌は真っ黒。あとは青みがかった灰の毛に覆われている。
「そのワーウルフの器、気に入ってくれるキュイ? ね、ねえ救済者、もう動けるなら、あの子を助けて欲しいキュ……」
その声が、急に泣きそうな色を帯びながら焦りだしたことに気付き、私は顔を上げた。




