【白蛇】逢祈
叫びながら名を呼ぶノーチスの頬をリーリエの指がそっと撫でた。その指先はもう温もりというよりも光そのものだった。
微笑を浮かべながら彼女は囁く。
「……ノーチス。もう、いいのです。あなたの憎しみの奥に、どれほど深い優しさがあったか、私は知っています」
「黙れ……そんな言葉、いらぬ……! 置いていかないでくれ、リーリエ!」
ノーチスが抱きしめる腕に焦燥が滲む。だが、彼女の身体は静かに、音もなく崩れていく。皮膚も骨も血も、ひとひらずつ花弁の如く透白に淡み、やがて空気へと融けはじめていた。
「……リーリエ……」
私は震える手を伸ばしかけて、ためらった。
もう、知ってしまったから。私の癒しの力では、救いは変化と同義。——ひとを花にするという行為に、どうしても抗えない痛みがあった。
「……ミナ」
ステラの声がそっと背後から響く。
「リーリエの魂は、まだ迷ってるキュ。
このままじゃ、この世界と一緒に散ってしまうキュ。だから——」
「やめろ、ミナ!」
ノーチスが咆哮する。
「また奪う気か!? この手から、これ以上奪うつもりか!」
唇を噛む。救いとは何か。癒すとは何か。
隣でステラの瞳が潤んで揺れた。それでも、小さな声で呟く。
「違うキュ……そんなつもり、ないキュ。
奪うつもりなんてない。……ただ、紡ぎたいだけなんだキュ。——ミナ、お願いキュ……」
ノーチスの叫びが胸を裂いた。けれど、彼女をこのまま闇に溶かすことは、もっと耐え難かった。
「……わかった。せめて、あなたの痛みが、優しい光になりますように」
私は静かに手をかざした。掌から零れた光がリーリエの胸に触れた瞬間、空気がやわらかく震えた。
癒しの律が彼女の体を包み、淡金の髪がほどけ、微光の粒が地へと降りていく。リーリエの肌を包む淡光が次第に輪郭を失い、まるで花弁を編むように大地へと流れはじめた。
足元の土が微かに呼吸し、彼女の髪が風にほどけていく。金の糸のような光が一条、静かに大地へと沈み、その場所に——黄色いガーベラが芽吹いた。
それはアリーの時のような暗緋ではなく、血の穢れを孕まず、黎明の陽を宿したかのような柔光の花。
リーリエの指先がまるで花弁を撫でるように震え、次の瞬間、光の粒となって風に溶けた。
彼女の貌が完全に光へと溶けるとき、ひとつの花が静かに咲き満ちた。花弁は朝露の如く微かに戦ぎ、幽香を漂わせながら、まるで彼女の終息そのもののように開いていく。
風が吹くたび、リーリエの声が森の奥へ静かに滲んでいった。
——「ノーチス。あなたの闇が、いつか誰かの光となりますように」
花芯の奥から微光が零れ落ちる。ノーチスは咄嗟に手を伸ばす。しかし掬おうとするたび、それは掌をすり抜け、静かに土脈へと還っていった。
「リーリエ……我は……っ!」
掠れた声はもはや獣の咆哮でも人の嘆声でもなかった。それはただ、世界の縁に取り残された一つの魂の慟哭だった。
地に膝をついたノーチスの周囲で燐光の粒が揺蕩っていた。その中心に咲く花は微かに揺曳し、露珠のような光を滴らせている。
誰もそれに触れようとはしなかった。ステラも、アリーも、ただ息を殺してその光景を見つめていた。
風が森を渡る。ささやかな葉擦れの音が祈りの言葉のように響く。木漏れ日がガーベラを照らし出す。
ノーチスはその光の中で動かない。かつて世界を呪い、燃やそうとしたその両手で、いまはただ一輪の花を包み込んでいる。
指の隙間から零れる光が彼の頬を濡らした。
私はそっと歩み寄り、低く息を吸った。言葉を探しても、何も出てこない。この静寂こそがきっとリーリエの望んだものなのだと思った。
隣で、ステラが小さく囁く。
「……ボク、わからないキュ。
救うって、なんなのか、まだ全部は……」
私はその頭を撫で、静かに答えた。
「たぶん、誰かを想うことを、やめない——。
それがきっと——救いなのよ」
ステラの瞳が淡く瞬き、風の音に紛れて小さく鳴いた。
「リーリエ、笑ってくれてるキュ……?」
森の奥から鳥の声がした。夜露が解け、草の葉が光を返す。
灰と金のあわいで揺らめく空がノーチスの足もとに咲く、一輪の黄色いガーベラを映していた。
その花は朝の光を抱き、地に宿る小さな太陽のように、静かに息づいていた。
——その光の下で、誰もがしばし、呼吸を忘れていた。




