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【白蛇】鳳律

 ——静寂が降りていた。

 洞の奥、岩肌をつたう雫の音だけが時を計るように落ちている。


「……神様の使い? それって、どういう——」


 アリーが振り返る。翡翠の瞳が淡い光を宿して揺れていた。その声は囁くように小さいのに、洞の奥まで沁み透っていく。


「レメルっていう神様がいるんです。

 この世界を調律して、壊れないように見守ってくれている……。

 ステラはそのレメル様の使いなんです。昔からそう言い伝えられてきました」


 その名が放たれた瞬間、空気が変わった。洞の奥に眠る石脈が微かに鳴り、湿った風が肌を撫で、光の粒が舞った。


「レメル……」


 ミナはゆっくりとその音を唇で転がす。心臓の奥に遠い記憶の残響が共鳴した。あの夜、天高くあった満月の冷たい瞳——あの瞳は確かに、私を見つめていた。


「ステラ。……本当なの?」


 問いかけにステラはしばらく黙っていた。氷色の毛並みが微かに揺れ、額の紅玉が淡く脈打つ。

 そして、静かに頷く。

「本当だキュ。ボクは、レメル様の使いキュ。でもレメル様は、この世界を見限ろうとしているキュ。

 それでもボクは、この世界を……皆の命を、本当に救いたいと思ってるキュ……」


 その声は雪解けの水が流れ出すようだった。澄みきって冷たく、それでいてどこまでも優しい。


 ステラの身体から零れる光が霧となって洞を満たしていく。

 ミナの胸の奥が灼けるように熱くなった。呼吸が融けあっていく。


「ボクはミナの魂の律を感じたキュ。

 この世界の欠けた音を埋められるのは、ミナしかいないキュ。

 だから——ボクと、繋がってほしいんだキュ」


 その言葉とともに紅玉の光がゆるやかに伸びた。それは呼吸そのものが形を得たかのように静かで、恐ろしいほど美しい。


 ミナは息を呑む。

 この先に何が待つのか分からない。再び裏切られるかもしれない。けれど、アリーの命を取り戻したあの瞬間の温もりがまだ掌に残っている。

 もしそれが“信じる”ということなら——。


 震える指先でミナは恐る恐る、差し出された光へと手をかざした。光は指先に触れる寸前、まるで意志を待つように宙で揺らめいた。ためらいと決意の狭間で、心臓の鼓動だけが高鳴っている。


 ——そして、指が紅の光に触れた瞬間。


 紅玉の光が脈打つように広がり、ミナの胸元へと吸い込まれていく。そこにあるのは癒しの紋。光と光が触れた刹那、世界の音が一度止まった。


 光は洞の壁を透かして森の外へ流れていく。ミナの身体に青白い律動が走る。それは痛みではなく、むしろ懐かしい感覚。紋の奥から誰かの祈りの残響が立ちのぼる。


「ステラ……これが、繋がるってこと……?」

「そうキュ。ボクたちはもう、ひとつの律になったっキュ」


 ミナは目を閉じた。そこにはもう孤独はなかった。世界のすべての音が遠くの星々までもが、同じ拍で脈打っている。

 白い光の中でステラの小さな姿が溶けていく。


 ——そしてその光の残滓の中、一羽の鳥が生まれた。


 その翼は焔のようでありながら、触れれば凍てつくほど清らかだった。透きとおる薄朱の羽根が光を吸い、吐き出すたび燐光を散らす。羽ばたきのたび洞の空気が震え、灰のような光塵が舞い上がる。


 まるで——死の灰の中から甦った、不死の鳥のようだった。


 焔にも似た光を背に鳥は降りてきた。羽先が洞の壁をなぞり、滴る雫が白く蒸発する。

 地に立つ姿は燃えながらも滅びぬ矛盾——命の循環を体現するようだった。


「これが……レメル様がくれた力だっキュ……?」


 ステラの声は震えていた。紅玉が脈打ち、青白い光が瞳の奥で交錯する。鳥の翼が広がるたび洞窟の壁に淡い紋が浮かび上がり、それらがすべて未来を描くように繋がっていく。


 洞の水溜まりに目を落とした瞬間、ステラの瞳に驚愕と畏敬が走った。

「こんな……まるで、レメル様みたいだキュ……」

 焔の奥で見え隠れする金の光はかつて虚空で見上げたレメルの眼差しと同じ色をしていた。

 ステラが振り返る。その瞳にはミナとアリー、そして世界の輪郭が映っていた。


「ボク……レメル様みたいな姿になってしまったキュ。

 これが“繋がる”ってことなのかキュ……?」

 ステラの喉奥から微かな声が洩れた。それは祈りにも似た旋律だった。——低く、美しく、世界を震わす音。


 冷たくも温かい、相反する気配が洞窟全体を包みこむ。

 ミナは息を呑んだ。自らの胸の奥で、同じ拍動がステラと共に脈打っている。


「ボクたちの調律はきっと始まったばかりキュ。でも、これできっと……世界を救えるっキュ」

 ステラの声が焔の余韻とともに耳朶を震わせる。薄蒼の羽根が一枚、ゆっくりと舞い降り、ミナの掌に落ちる。

 それは触れた瞬間、ひとひらの白い焔へと変わり——淡く光りながら、彼女の心臓の鼓動に同調した。


「ミナ、アリー。ボクに乗って欲しいキュ。

 この世界を、もう一度、見てほしいキュ」


 ステラの声はもはや風の音と区別がつかなかった。


 ミナはアリーの手を取ると、そっとステラの背に手をかける。指先に伝わるのは想像していたような焔の熱ではなく、春の陽だまりのように柔らかく、けれど確かに生きている温度。胸の奥で脈打つ白い焔とステラの体温がひとつに溶け合っていく。


 アリーも身を寄せ、三人の呼吸が重なった瞬間、洞の空気が震えた。


 次の瞬間、天井がひと筋の光で裂け、花弁のような輝きが降り注ぐ。ステラの翼がひとたび打たれると、熱と焔が渦を巻き、空気が爆ぜた。


 ミナの頬を撫でる風は火と光のあいだを通り抜けるように暖かい。それは焼くこともなく、包みこむように優しい。


 ——そして、夜の森が下へと遠ざかっていく。


 ミナはステラの背の上から静まり返った世界を見下ろした。森も川もかつて争いに染まった村も、ひとつの鼓動に合わせて呼吸している。


 アリーが震える声で囁く。

「……綺麗……」

 ミナはその言葉にただ小さく頷いた。胸の奥ではあの白い焔がいまも穏やかに灯っている。


 ——けれど視界の彼方で、世界は穢れていた。


 山裾に広がる黒煙。鉄と油の臭いを孕んだその煙は風に煽られながら夜空を濁らせている。崩れかけた砦の周囲では獣人と人とが交わした戦の跡が赤く地を染めている。燃え落ちた集落の残骸。水を失った川底の亀裂。そのどれもが調律の届かぬ残響のように沈黙している。


 美しいのに、痛い。赦しの光が世界を包んでいるというのに、まだ消えぬ闇が確かに息づいている。


 ミナは胸の奥で白い焔が脈を強めるのを感じた。それは警鐘にも似て、祈りにも似ていた。

「……ステラ。世界は、こんなに……」

「うん、ミナ。ボクたちの調律は、これからだっキュ」

 その声は風に溶け、夜空の奥で静かに鳴った。


 ステラの翼が再び打ち鳴らされる。光の粉が散り、闇と光が交わるように世界が静かに揺れた。そして、ミナの瞳に映る遠い炎の群れがまるでこの星の涙のように瞬いた。


 ミナはその光景を見つめながら、胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。

 ——境界が溶けていく。

 ミナとステラ、アリー、森、そして世界の呼吸がひとつの律として重なっていく。


 ステラが一際大きな羽ばたきを見せ——その尾から散る幾千の光が、流星のように大地へ降り注いだ。

 それは祝福の雨にも似て、新しい世界の夜明けをそっと告げていた。



 ——その夜、森の上空をひとすじの光が渡った。

 焔とも羽音ともつかぬ白い閃光が、闇の帳を裂き、消えゆく瞬間に、誰も知らぬ祈りの歌を残していった。

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