線を引く
「もう十分だよ」
四季が苦笑いを浮かべながらそう言ったのは、オレンジの斜陽が差し込む落日の頃。
病室中に充満したアルコールの臭いが鼻の奥をツンと刺す。
「どういう意味?」
思わず聞き返した僕の目には、白。
皮膚が透き通るぐらいまで白くなった肌の色。
触れれば折れてしまいそうな程細くなった四季の腕は、骨が浮き出ていて、それが彼女の具合を如実に表していた。
「なんて言うかさ、任期満了……みたいな?これ以上は君に悪いかなって」
最初から何を言いたいのか何となく察していたけれど。
気まずそうに言葉を濁す彼女に、僕は案外平然としていた。
心のどこかで、いつかこういう日がくると分かっていたからかもしれない。
「要するに、もうお見舞いに来なくてもいいってことか?」
四季は静かに頷いた。
紅顔可憐、天真爛漫、才色兼備。
かつての四季はこれらの言葉で形容されるに相応しい少女であった。
クラスの人気者で、男女問わずもてはやされて。
それに比べて僕は、地味で人見知りのモブAだった。
彼女と僕の差は歴然で、だから今、この胸を燻るのは失望だろう。
病に伏した四季に、これまでの面影はない。
僕はこれを残念に感じているのだろう。
「はあ……」
ため息が零れた。
夕日のグラデーションはもう遠くの空に消えていて、沈む夜道に自転車を転がす。
黒でバケツ塗りしたみたいな夜空は星一つ見えなくて、ポツポツとまばらにある街灯だけが唯一の光源だ。
四季はもう十分だと言った。
だから、お見舞いには行かないし、行けない。
元々、親密な関係でもないし、僕の柄でもないし、ひょんな事から習慣化してしまっただけのこと。
身の丈に合わないことをもうしなくていいんだ。
そう軽く捉えようにも、言葉にできない感情が棘になって胸を貫く。
「もう十分だよ」
言葉がくぐもった頭を反芻する。
急勾配の坂を愚直に進む足取りが、踏み出す程に一歩一歩と重くなる。
足が止まった。僕の真横には四季がいた。
「やっ」
そこには、昔見た爛漫な笑みがあって、ヒラヒラと紙が風に晒されるみたいにクラスの人気者は軽く手を振る。
病気、ホントは治ってたんだ。
そういじらしく耳打ちする彼女は、手を大きく広げて出鱈目なステップで舞う。
死装束みたいな真っ白の病着じゃなくて、水晶のように青白く透き通るドレスがたなびく。
僕は、その水晶に触れようとして手を伸ばした。
潮の香りがした。
僕の横には四季がいて、海風に吹かれて、ただ呆然と水平線の先を見つめていた。
青い空、生温い空気が頬を撫でる。
足の裏に砂のジャリッとした感触がしてくすぐったい。
その時、大きな波が押し寄せて、波打ち際に立っていた僕らを丸呑みした。
白々しい気泡が全身を包み、冷たい海水が全身を濡らして冷たい。
多分、四季は笑っていた。
花火が上がった。
夜空を染め上げる火薬の花が衝撃と共に咲いた。
黒色のキャンバスの下を僕は、迷子の子みたいに四季に手を引かれていた。
ずんずんと人混みを掻き分けて、
「何か食べたいものある?」
はにかみながら言いつつ、返す暇もくれずに「私の食べたいのはねー」って勝手に話を続ける感じが四季らしい。
旧校舎の屋上で突風が軽快に僕らの間をすり抜ける。
枯れ落ちる木々に囲まれて、四季はもみじを拾い、しゃがんだ姿勢のままにっと笑う。
初詣のおみくじは僕は今年も末吉で、四季はというと中吉で。
そんなありもしない光景の中に僕はいた。
気付けば、四季の背中がずっと遠くにあった。
そこは何もない僕と彼女以外誰もいない殺風景な空間だ。
僕は妙な胸騒ぎから彼女を呼び止めようと声を出した。
「 」
僕には口が付いていなかった。
走馬灯のような景色の移り変わり、そして僕の夢はそこで終わった。
目の前は夜の黒。自転車のタイヤがカラカラと空回りしている。
どうやら僕は、派手に転んだらしく、気を失っている間に出来の悪い夢を見ていたらしい。
背中に固い感触がして、手探りに掴むと、それは僕の携帯だった。
電源を入れ、メールを開くと、四季との今までの、といっても事務的な連絡の履歴が残っている。
この更新も今日を限りに止まるのだろうか。
「もう十分だよ」
四季はそう言ったけど、本当に?と疑問に思う。
病気で死に、そんな悲痛な運命を簡単に受け入れるなんて、到底信じ難い。
かと言って、ただ外野から眺めていただけの僕では彼女の気持ちは分からない。
そして、それ以上に僕は僕の気持ちも分からない。
この胸のモヤは、クラスメイトを一人失った単純な喪失感なのか、それとも四季だから特別なのか当の僕でも分からない。
もう一度彼女に会うなんてダサいことはしたくない。
だってそうだろう。彼女は既に気持ちの整理がついているかもしれないし。不安定な僕が、軽卒に会うなんて迷惑だ。
平然としていたくせに、今苦悩に明け暮れている僕。
なんてみっともないのだろうか。
夢の中で隣に居た四季とAの間。
そこに指でなぞって線を引いた。