ep6 魔術解説
僕は部屋の壁を食い入るように見つめていた。そこにあるのはただの壁。何の装飾もない、灰色の無機質な壁だった。
「本当にそんな事が可能なのか?」
半信半疑のまま、僕は頭の中で言葉を思い浮かべ、それをMöbiusへと伝える。
『了解しました。実行します。』
次の瞬間、壁にうっすらと光がともりその表面が変化を始めた。僕の思考が、まるで誰かが筆で描いているかのように、鮮やかに浮かび上がっていく。
「…!!!」
思わず息を呑んだ。まさか本当にできるとは思っていなかった。僕が頭の中で描いた言葉が、壁という形で現実になる。それは奇妙で、不思議で、でもどこか現実味がなかった。
Möbiusが僕の頭の中の妄想ではなく、現実に存在し何かを実行している、ようやく信じた。
『これは情報伝達の一種です。あなたの指示に従い、指定した場所に思考を転写しました。』
Möbiusの冷静な説明が耳に入る。でも、それを頭で理解するよりも先に、僕の視線は壁に釘付けだった。
「すごい…これが魔術…こんな事が本当に存在するんだ…」
『伝達可能な範囲は最大10キロメートルです。ただし、転写できるのは文字や符号などの簡単な情報に限られます。』
10キロメートル――その数字に驚きながらも、制約があることに少しだけ引っかかりを覚えた。
だがMöbiusはあくまで「魔術的な動作を体現」と僕に言った、つまりこれは魔術のようで魔術ではない、ましてや僕は何もしていない、つまりこの世界に存在する魔術のような偽物いわば疑似魔術って事だ。そこまで考えるとMöbiusが反応を返す。
『その通りです。私はあなたの指示に従い、魔術に近い形で体現しています。あなた自身が魔術を使うわけではありません。また私自身も魔術的な動作を体現しています』
なるほど、一瞬魔術を使える事に喜んだがそういうわけではないらしい。
しかし、考えれば考える程に僕の中に不満が募る。魔術が存在するという事、それ自体は素晴らしい、こういう技術が存在する事をこの世界の人々は知っている、つまりここはもう僕がいた前世の世界とは違う、異世界であろう事は確定だ。しかしだ、異世界で魔法が存在するのであれば…そう
「これ…あまりにも地味すぎるだろ!!」
いやいや、異世界に転生するなら神様がギフトで魔法を授けて美少女の幼馴染も美人の先生も獣耳の少女も容易しといてって言ったよね!!
『そのような存在は確認できません』
Möbiusが冷静に僕に返す。
そんな事はわかってる!いや百歩譲ってMöbiusを通じて魔法が与えられたのはまだいい、でも僕が使える訳じゃない!そしてその魔術は文字を送る?地味すぎるだろ!手の平から炎を出したり長々と詠唱を唱える!!!例えば、そう「黄昏よりも暗きもの…」とか言えば山一つ消し飛ばすみたいなのが魔術じゃないのか?!挙句の果てに僕は目の前の壁をみつつ、凄いとは思ったがこれじゃメールと変わらない!
「くそ!左手が!左手が疼く!!」って言って文字を転写する?地味すぎない!?
僕は思った不満を次々とぶちまける。
Möbiusは沈黙した挙句
『ご期待に添えず申し訳ありません』と返答する。
…でもまぁ仕方ない、魔術が使えるってだけでもありがたい、そしてこの世界の文明は僕のいた前世よりだいぶ遅れている、魔術師が重宝されるのは間違いない。
「…Möbius次の魔術、術者の周りの情報を解析」
僕は不満を募らせながらも次の魔術の仕様をMöbiusに命じる。
『了解しました』
次の瞬間、まず見えたのは、僕のいる部屋だ。壁の位置、窓の枠、机の形――台所にいるアルヴァの動きまで普段から慣れ親しんだものが、まるで空間全体を俯瞰して見ているかのように脳内に展開されていく。視界がさらに広がると、建物の外、通りの様子、揺れる木々の葉までが淡い光の輪郭で浮かび上がった。
僕は思わず「うわっ…これは…すごい…!!!」と呟く。
『これは範囲索敵です。周囲の情報を集め、判断するための基礎的な魔術の再現です。』
情報伝達はともかく、この魔術は本当に驚いた。自分に第三の視野が存在する感覚、それは今までにない感覚で観測できるもの全てが新鮮に感じた。そして脳内に展開されたビジョンを存分に楽しんだ…
僕は壮絶に乗り物酔いのような気分を味わった…
「ぎもちわるい…」
そりゃそうだ、こんな視点と自分の視点の両方をずっと見ていたら慣れるまではそうなる。
気分を落ち着けMöbiusとの問答は続く
「…じゃあ具体的に、魔術の再現と言うがこれは通常の魔術とは違うのか?」
『その通りです。通常、この世界における魔術は4つのプロセスを通じて再現されます。私が行っているのは結果として魔術と近似の結果を示すのみです。』
「今一つ言っている事がわかりづらい。4つのプロセスとは?」
『通常の魔術では、詠唱、入力、演算、そして実行という4つのプロセスを経ます。詠唱は魔力を流す回路を作成する役割を担い、それにより魔力が適切に入力され、術式内での演算、実行が可能になります。しかし私はAIであり、魔力を使うことなく、あなたの五感をデータとして入力、それを演算処理し、疑似的な魔術を再現することができます。』
「なるほど、普通は詠唱をしないと魔術は行使されないのか…詠唱は大事なんだな…」
『その通りです。私の観測した限り、魔術師の詠唱は、魔力を流すための道筋を作り、魔力が適切に作用するための手順を確立する役目を果たします。そのため、詠唱は魔術行使において不可欠な部分です。』
「じゃあ…その詠唱を必要としないっていうのはどういう事?」
『私は貴方の五感を通じて得た情報をデータとして処理し、即座に結果を出力するため、詠唱は必要ありません。あなたが指示を出した瞬間、その情報を基に魔術のような動作を再現することができます。』
「あー…なんか魔術のありがたみに欠けちゃうなぁ…そんな無機質な…」
『その点についても理解できます。私の方法は、あくまで効率性と正確さを重視しています。しかし、伝統的な魔術が持つ儀式的な魅力や精神的な意味は、確かに失われている部分かもしれません。』
「いや、でもそうだな、唯一無詠唱って言うのは僕だけの利点かもしれない…そしてなにより無詠唱ってかっこいいし…ちなみに入力に五感を使うっていうのはどういう意味?」
『入力に関して、私はあなたの五感を使用しています。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚。これら全てを基に情報を入力し、それを演算し、結果として出力することができます。この時、私の入力データは入力者の知覚範囲外も入力範囲と設定されています。』
僕はその言葉を聞いて一瞬考えた、つまりは普通の人間が認識できない音や物、それらがすべて情報として処理され、瞬時に解析される。これがMöbiusの力だ。
「つまり僕には認識できない匂いや音も入力データとして伝達される?高性能のソナーを内蔵している状態って事?」
『その通りです。例えば、聴覚で遠くの心音を、触覚で温度を、嗅覚や視覚で周囲の情報を解析し、対象の位置や状態を即座に把握することができます。』
なるほど、これは凄い、あくまでMöbius頼りではあるけど、無詠唱かつ高精度な魔術が使用可能、それに魔力も不要という事か…実際に魔術師の魔術がどれほどの物かはわからないけど…
そこまで考え改めてMöbiusの凄さを実感した。
僕にはMöbiusが使える、この知識量や前世の経験、更に魔術を知れば僕も何か、この世界で残せるかもしれない!かつて憧れた0から1を想像するように、何かを生み出せる可能性がある!今はそれだけで十分だ!
壁に浮かぶ文字を見つめながら、僕は小さく頷いた。
壁には控えめに小さく「Hello, world!」の文字が刻まれていた。