ep2 転生からの日常
「転生」――この言葉は、死への恐怖に抗うための人類の知恵だとずっと思っていた。宗教や哲学を持ち出すまでもなく、死を避けたいという本能が生み出した幻想だ、と。そんなことを考えながら、僕は特に宗教とも縁のない人生を送ってきた。
もちろん神様を信じていないわけではない。正月には神社に行くし、腹痛や財布を落としたときには「神様、お願いします!」と心の中で叫んだりもする。けれど、それ以上の信仰心はなかった。
――そんな僕が、転生してしまった。しかも、前世の記憶を持ったままで。
「これはどういうことだ?」と自分でも混乱した。もしかして、転生って全員が経験するものなのか?生まれたときには前世の記憶を持っていて、成長とともに忘れてしまうだけなのか?そんな考えが頭を巡るが、答えは出ない。ただひとつ確かなのは、僕の前世の記憶は失われるどころか、鮮明すぎるほど残っているということだ。それも、自分が死ぬ瞬間まですべて。
――まるで「強くてニューゲーム」だ。
ゲーム好きだった前世の僕は、そう思わずにいられなかった。前世の記憶を持ったまま、人生をやり直せるなんて。誰もが一度は夢見た「人生二周目の勝ち組」――そんなチャンスを掴んだんじゃないか?なんて期待してしまった。
しかし、現実は甘くなかった…
最初の数カ月は、ただただ退屈だった。僕の身体は赤ん坊そのもので、少し指や腕を動かしただけで疲れてしまう。目もほとんど見えず、やたらと眠くなる。空腹が耐えられなくなると、誰かが僕の首を支え、口に何かを押し付けてくる。それが母乳だと理解するのに時間はかからなかった。味なんて気にする余裕もなく、ただ与えられるがまま飲んで眠るだけの毎日…
せっかく転生したのになんて地味な生活だろう。むしろ自由もなく辛い…辛すぎる!
そんな生活がしばらく続き、ようやく視力が安定してきた頃、僕は周囲の様子を観察できるようになった。そして、ここが日本ではないことに気づいた。
まず、僕に母乳を与える女性――恐らく母親だが、彼女の言葉が日本語ではない。それどころか、転生してから一度も日本語を聞いていない。そしてこの家。どうやら僕は病院ではなく、自宅で産まれ、そのまま育てられているらしい。どんな田舎だよ…
家の中は見慣れた日本の家屋とは全く違った。木と土壁がむき出しの古い木造建築で、暖炉や竈がある。冷蔵庫も洗濯機もなく、電気すら通っていない。まるで文明が退化したような環境だ。「超自然派な暮らし」なんてものを想像して嫌な予感がよぎったが、どうやら単なる田舎暮らしではなく、僕は“前世より過去”に転生したのかもしれない。
僕を抱き上げる女性――「アルヴァ・エルリス」彼女はアルヴァと呼ばれている――柔らかな金髪と青緑色の瞳を持つ、穏やかな印象の女性だ。彼女の目は優しさに満ちていて、時折手が冷たくても、不思議と安心感を覚える。彼女が僕の母親だ。
一方で、時々僕のそばに現れる大柄な男性――「アリオ・エルリス」広い肩幅と太い腕、どこか険しい表情だが、目元には優しさがにじんでいる。彼が僕の父だ。
つまり僕は転生し、エルリスさん家の子供になったわけだ。
二人と僕の三人暮らし。アルヴァが作るシチューの香り、アリオが持ち帰るパン。そんな日常の中で、僕は少しずつこの家族の暮らしを理解し始めた。そして、彼らが僕に毎日語りかけてくれる言葉の中から、少しずつ単語の意味を覚えていった。
けれど、言葉を覚えるのは思った以上に骨が折れる作業だ。相手が何を言っているのかは分かるようになっても、発音が難しい、文法もよく理解できない。こちらの意思が伝わるまでには根気がいる。
「パパ」「ママ」「ごはん」――その程度の単語ですら、赤ちゃんにとっては一苦労だ。前世の僕はこの苦労を思い出せないほど楽観的だったが、今なら分かる。世の赤ちゃんたちは本当に大変だ。
「あ、すいません、ゲップさせる時はもう少し優しくお願いします。」
そう言えたらどれほど楽なことか…
そして僕、どうやら僕の名前は「ミカ」と呼ばれている。つまり「ミカ・エルリス」だ。前世では「ミカ」なんて呼称は女性のイメージが強かったせいか最初、それが自分の名前だと思った時はかなり焦った。
だってそうだろ?前世は男だったのに転生したら女でした。これだと色々と問題がある。
僕の性自認は男性だ。身体が女性だとしたら色々と苦労しそうだ。そんな心配をしたが身体もうまく動かず確認ができなかった。だがある日アルヴァが僕のおむつを交換している時だ、その頼りない腹筋を懸命に動かし僕はその答えを知るべく起き上がった。
アルヴァは「今は動いちゃダメよ!」なんて言っていたが今後の人生を決定づける大事な確認作業だ。もちろん譲るつもりもない。
そして僕は起き上がり自分の股間を凝視した。そこには希望の光があった。
「神様ありがとう!僕は男だ!」
もちろんアルヴァに「あうあうあー!」みたいな言葉が聞こえていただろう。しかし心底ホッと胸をなでおろし僕はそれだけの作業に疲れ、また眠りについた。
そんな退屈な乳幼児の時期ではあったが僕は次第にこの世界の言語について理解をしてきた。アルヴァもアリオもことあるごとに話かけてくれたのが大きい。
そして言葉が理解できてくると驚くぐらい世界が広がる。言葉は偉大だ。
両親の会話を聞いていると次第に自分の境遇がわかってきた。
アルヴァは毎日のように家の中で忙しく動き回っている。洗濯をし、料理を作り、畑の世話をしている様子は、どうやら日常的な仕事の一部らしい。もちろん、僕の面倒もちゃんと見てくれるが、その手際は驚くほど効率的で、無駄がない。もしかしたら、彼女がこの家の中心的存在であり、すべてを仕切っているのだろう。
父親、アリオに関しては、何日かに一度、家を出ていき、そして2~3日後に戻ってくることがよくある。なぜそんなに頻繁に出かけるのか、どこに行っているのかは、僕にはよくわからない。ただ、アルヴァと会話をしていると、時々「香辛料の値段がまた上がった」とか、「小麦が足りなくなりそうだ」などの言葉が聞こえてくる。どうやら、アリオは商売を生業としているのかもしれない。
「また、あの商人に頼むのかしら?」アルヴァが時折そう呟くことがあるが、どうやらそれはアリオが関わっている仕事の一端らしい。
「うん、頼まないと次が来るのはずっと先だ。早めに頼んでおけば、余裕を持って次の取引もできるし、今度の小麦の相場もどうやら安定しないようだから。」アリオはあまり言葉にしないが、アルヴァとの会話から、その仕事がかなり重要だということが伝わってくる。
時折、アリオが家を出て行く前にアルヴァと何かをやりとりしているのを聞くことがある。それは、きっと商取引の準備だろう。買い物の計画や、物の仕入れ先を決めるような、そういった内容だ。父親が商人であるならば、この家が一定の経済的な基盤を持っているのも納得できる。
もちろん、僕の理解ではまだ不十分だが、少しずつこの世界での家族の仕事の流れが見えてきている。アリオが留守の間、アルヴァは家の全てを一人でこなすことも多いようだ。時折、険しい顔をしていることもあるが、僕の前ではその表情を見せることは少ない。彼女は、ただひたすらに家を守ることに全力を尽くしているように見える。
前世の頃よりもずっと田舎で電気もないが牧歌的な暮らし、そう悪くない。
色々と不便に感じる事はあるのかもしれないが、それは僕がもう少し大きくなってからの事だろう。
ただ今はそんな事よりこの世界を知る事が何よりも楽しい。
――そうやって一日一日が過ぎていった