夜明け前
「はぁ…うるさ…」
眠る長男の向こうで、背中を向けた夫がつぶやいた。
そのつぶやきは、次男の泣き声にかき消されることなく、私の脳に直接響いた。
一瞬泣き声が遠ざかり、胸と胃がギュウッと締め付けられる。
ぐずぐずしながら眠りかけたと思ったら、また大きな声で泣き出す…そんな次男をもうどれくらい抱っこし続けているんだろう。
1枚の布団の上を、ゆらゆらと揺れながらぐるぐると歩き回る。
長男が生まれてから、いやお腹に来てから、もうずっと朝までゆっくり眠れていない。
まだお腹も痛む。
腕も脚も目も肩も腰も、全身が疲れたと叫んで、布団に横になりたいと願っている。
腕に抱いた次男を意識して動いていないと、眠ってしまいそうになる。
そんな中で聞こえたそのつぶやきは、脳から全身に駆け巡り、心が震えて視界が滲む。
怒りも哀しみも無駄、と自分に言い聞かせる。
夫の背中を蹴り飛ばしたい気持ちにも、泣き崩れたい気持ちにも、なる。
この頃夜泣きが始まった次男。
たそがれ泣きとか夜泣きとか、成長の過程だということはわかってはいる。
わかっていても、かなりしんどい。
産後から続く睡眠不足と疲労。
そこに産休明けですぐ復帰した仕事の疲れも加わり、常にめまいと眠気と身体の痛みに耐えている。
「満身創痍」ってこういうこと?
私にしか聞こえない私の身体の悲鳴が日に日に大きくなっていく。
(そろそろ長男を起こして、トイレに誘わなきゃ。)
5歳の長男は、週に何度かおねしょをする。
2時頃にトイレに誘えば、素直にトイレへ行く。でも、タイミングがズレて間に合わない時や、2時に行けても、朝の5時頃におねしょをしてしまう時もある。
寒さのせいもあるかもしれないが、この頃は毎日続いている。
うとうとする次男を抱きながら歩き回っている途中で、立ち止まって、そっと長男のお尻近辺に、足を潜り込ませてみる。
(濡れてませんように。)
願い虚しく、ひんやりとした湿り気を感じる。
…間に合わなかった。
布団から足を抜き、またゆらゆらしてぐるぐる歩きながら、これからしなければならないことを、頭の中でシミュレーションする。
まずは次男を寝かしつけて、布団に下ろそう。
そのあと、そっと長男を起こして、その場でパジャマとパンツを脱がせて、ひとまず濡れてない布団に入ってもらい、新しいシーツをひくまで待っててもらおう。
身体もふいてあげて、新しいパジャマを着させなければ。
もしかしたら、防水シーツを越えて布団自体が濡れているかも。その時は隣の部屋に置いてある予備の布団と入れ替えなきゃ。
今眠りかけている次男を起こさないようにやらないと…って、それ無理だなぁ。起きるよなぁ。
せめてパパが、長男か次男のどちらかをみてくれれば…
いや、期待しない。期待はするな。機嫌良く引き受けてくれた事なんて、1度もないじゃんか。いや、引き受けてくれたことが、1度もない。子供2人に追加して、大人のご機嫌までとってる余裕、ない。余計に疲れるだけ。
次男の寝かしつけを先にするか、長男のおねしょ対応を先にするか…
「…ママぁ…つめたい…」
布団の上に座って起きた。
自分で起きたときは、声かければ動いてくれる。パジャマを1人で脱いでくれる。助かった。
「うん、つめたいね。脱ごうか」
小声で長男にそう言ったとたん。
「また漏らしたの!?ったく…!!」
背中を向けたまま顔だけ一瞬長男を睨み、大きな声が静かな寝室に響いた。
抱いてる腕のなかで、次男がビクッとして、
「うわぁあん…!」
長男の顔が、泣きそうに歪んだ。
「…ひぃーーーん…」
座った姿勢のまま、顔を歪めて、泣いた。
そして、何もかもを台無しにした張本人は、くるりと背を向けて、そのまま寝るモードに。
…え。え?
どういうこと。
自分では濡れた布団を片付けもしないのに、文句だけ言ったの?
次男もうとうと寝そうだったのに、泣かせて起こして、あやすこともなく、
抱っこを代わることもなく、寝るの?
長男のことを睨んで責めて、言わなくていいこと言って傷つけて、フォローもせず、新しい着替えを持ってくることもせず、寝るの?
なに?なんなの??ホントに、この人、なんなの???
「…っ!何でそんなこと言うの!?」
声が震える。
背中はピクリとも動かない。
呆れと怒りと哀しみで、視界と頭が真っ白になる。
何度も感じては抑え込んできた孤独と絶望が、一気に溢れてくる。
動かない背中が、視界が、ぼやけて歪んで見えてくる。
ひとりだ。私には一緒に子育てするパートナーは、いないんだ。
…いや、あんなのに構ってる場合ではない。
天井を睨み付ける。
そのままギュッと強く目を閉じて、それから大きく1つ深呼吸した。
…子供たちをフォローしないと。
次男を落ち着かせなくては。はやく長男を抱きしめたい。
ゆらゆら抱っこを再開しながら、長男にゆっくりと声をかける。
「自分で気づいて起きれて、えらかったよ。布団はママがきれいにするから心配ないよ。パジャマ濡れてて冷たいでしょ。風邪引くから、着替えようね」
泣き顔のまま、こくん、と頷く。
「自分で脱げるかな?」
チラリと、弟を抱っこしてる私を見て、こくん、と頷く。
「ありがとう。えらいね。まず脱ごうか。」
もそもそと脱ぎ出した。
湿り気で身体にくっついて、うまく脱げなかったので、片手で手伝う。
脱ぎ終わったら、次男のおしりふきを長男にとってもらう。
長男は、布団が濡れていない部分に立って、私の両肩に手をついていた。
片手で次男を抱きながら、片手で足やおしりをふいている様子を、じっと見ていた。
もう涙はとまっている。
「よし、ふけた。お布団入って待ってて。着替え持ってくるね」
「うん」
裸ん坊で、私の布団に潜り込む。
濡れたパジャマとシーツとタオルケットを片手でまとめる。布団は無事だ。よかった。
片手で濡れたものを抱えて、洗濯機に放り込んだ。
それから新しいパジャマと下着を持ってくる。
布団にくるまっていた長男が、着替えを持ってきた私に気づいて、布団からもそっと出てきた。
「ごめんね、ママ抱っこしてて、お着替え手伝えないんだけど、自分で着れるかな?」
「うん」
そういって、パンツを手に取り、どっちが前か探して、着替えはじめた。
いつの間にかうとうとしている次男を抱いて、座ったまま前後に揺れる。揺れながら着替える長男を眺める。
大きくなったな。1人で着替えるのが当たり前にできるんだな。ちょっと前まで、赤ちゃんだったのになぁ。
眺めているうちに、ふと、口からことばが出てきた。
「どうしておねしょしちゃうんだろね…」
5歳って、まだおねしょするものなのかな。赤ちゃん返りってやつなのかな。長男が初めての子育てだから、何が正解とか、よく分かんないなぁ。
ボーッと考えていたら、口に出ていた。
答えは求めていない、独り言みたいなものだった。
「めんどくさいから」
めんどくさいから…えっ、今、質問に答えた?
はっと我に返る。
「え、めんどくさい?の?」
「うん」
「何が?」
「トイレいくのが。」
「…トイレ行くのが?」
「うん。ねむくて、めんどくさくなるの」
「………そっかぁ……。」
「うん」
…めんどくさいのかぁ。
じわじわと、染み込んでくる。
「…ふふ。…っふっ…ははっ!」
急に笑った私のことを、長男が、不思議そうな表情で見てくる。
そうか。そうだよね。
大人の私だって、眠いときにトイレにいきたくなったら、ギリギリまでガマンすること、あるわ。
まだ5才。眠気にまけること、あるよね。
ふっと力が抜けた。
お腹の奥からふつふつとこみ上げてくる笑いを、夜中だからと自分に言い聞かせて、こらえる。
「そっか。めんどくさいか。…眠いもん、ね」声が震える。
うん、と言って、ちょっとはにかみながら私を見る。
「…っふふっ…」
目を合わせ、2人で小さく笑った。
小さな声で、そっと話す。
「ママも眠いとき、トイレに行くのめんどくさいなって思うこと、あるよ。」
「えっママも?」
「うん。眠いもん。」
私と目を合わせながら、こくん、とうなずく長男。
「でも、布団濡れちゃうからさ。えいやっ!て頑張って起きて、トイレ行くんだ。」
「…ふうん…」
そのままじっとなにか考えているようだった。
「…もう寝よう。ママのお布団おいで。」
いつの間にかすやすや寝息を立てている次男を、左腕で腕枕しながら、そっと布団に横たわる。
仰向けになり、右腕を長男に伸ばすと、モゾモゾと布団に入ってきた。
ピッタリと肩に顔を乗せてくっついてくる長男の足先は、まだ私の膝くらい。
「…あのね、ママ」
耳元に口を寄せて、こそっと話しかけてきた。
「ん?」
「えいや!って、おきれるか、まだわかんない…」
「ふふ。うん。ちょっとずつでいいからさ、一緒に練習していこうね」
「うん」
まだ5才。
明日もおねしょするかもしれない。
面倒くさいことは、これからも、きっといっぱいある。
けど、面倒くさいことをそのままにすると、もっと面倒くさくなるからね。
大丈夫。対処できるようになれるよ。大丈夫。
私にぴったりくっついたまま、スウスウと寝息をたてはじめた。
反対側では、次男がスウスウ眠っている。
その2つの寝息に挟まれて、耳を澄ましながら、目を閉じた。
口元が、ゆるゆると、ほころぶ。
カーテンの隙間から、深い夜の空が見える。少しだけ闇がゆるみはじめている。
少し離れたところで、ごごっ、と短いイビキが鳴っている。
けれどその音は、もうわたしには聞こえない。届かない。
今も、きっと、この先も。