表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

夜明け前



「はぁ…うるさ…」


眠る長男の向こうで、背中を向けた夫がつぶやいた。

そのつぶやきは、次男の泣き声にかき消されることなく、私の脳に直接響いた。

一瞬泣き声が遠ざかり、胸と胃がギュウッと締め付けられる。


ぐずぐずしながら眠りかけたと思ったら、また大きな声で泣き出す…そんな次男をもうどれくらい抱っこし続けているんだろう。

1枚の布団の上を、ゆらゆらと揺れながらぐるぐると歩き回る。

長男が生まれてから、いやお腹に来てから、もうずっと朝までゆっくり眠れていない。

まだお腹も痛む。

腕も脚も目も肩も腰も、全身が疲れたと叫んで、布団に横になりたいと願っている。

腕に抱いた次男を意識して動いていないと、眠ってしまいそうになる。


そんな中で聞こえたそのつぶやきは、脳から全身に駆け巡り、心が震えて視界が滲む。

怒りも哀しみも無駄、と自分に言い聞かせる。

夫の背中を蹴り飛ばしたい気持ちにも、泣き崩れたい気持ちにも、なる。


この頃夜泣きが始まった次男。

たそがれ泣きとか夜泣きとか、成長の過程だということはわかってはいる。

わかっていても、かなりしんどい。


産後から続く睡眠不足と疲労。

そこに産休明けですぐ復帰した仕事の疲れも加わり、常にめまいと眠気と身体の痛みに耐えている。

「満身創痍」ってこういうこと?

私にしか聞こえない私の身体の悲鳴が日に日に大きくなっていく。



(そろそろ長男を起こして、トイレに誘わなきゃ。)

5歳の長男は、週に何度かおねしょをする。

2時頃にトイレに誘えば、素直にトイレへ行く。でも、タイミングがズレて間に合わない時や、2時に行けても、朝の5時頃におねしょをしてしまう時もある。

寒さのせいもあるかもしれないが、この頃は毎日続いている。


うとうとする次男を抱きながら歩き回っている途中で、立ち止まって、そっと長男のお尻近辺に、足を潜り込ませてみる。

(濡れてませんように。)

願い虚しく、ひんやりとした湿り気を感じる。


…間に合わなかった。


布団から足を抜き、またゆらゆらしてぐるぐる歩きながら、これからしなければならないことを、頭の中でシミュレーションする。


まずは次男を寝かしつけて、布団に下ろそう。

そのあと、そっと長男を起こして、その場でパジャマとパンツを脱がせて、ひとまず濡れてない布団に入ってもらい、新しいシーツをひくまで待っててもらおう。

身体もふいてあげて、新しいパジャマを着させなければ。

もしかしたら、防水シーツを越えて布団自体が濡れているかも。その時は隣の部屋に置いてある予備の布団と入れ替えなきゃ。

今眠りかけている次男を起こさないようにやらないと…って、それ無理だなぁ。起きるよなぁ。

せめてパパが、長男か次男のどちらかをみてくれれば…

いや、期待しない。期待はするな。機嫌良く引き受けてくれた事なんて、1度もないじゃんか。いや、引き受けてくれたことが、1度もない。子供2人に追加して、大人のご機嫌までとってる余裕、ない。余計に疲れるだけ。

次男の寝かしつけを先にするか、長男のおねしょ対応を先にするか…


「…ママぁ…つめたい…」

布団の上に座って起きた。

自分で起きたときは、声かければ動いてくれる。パジャマを1人で脱いでくれる。助かった。

「うん、つめたいね。脱ごうか」

小声で長男にそう言ったとたん。


「また漏らしたの!?ったく…!!」


背中を向けたまま顔だけ一瞬長男を睨み、大きな声が静かな寝室に響いた。


抱いてる腕のなかで、次男がビクッとして、

「うわぁあん…!」


長男の顔が、泣きそうに歪んだ。

「…ひぃーーーん…」

座った姿勢のまま、顔を歪めて、泣いた。


そして、何もかもを台無しにした張本人は、くるりと背を向けて、そのまま寝るモードに。


…え。え?

どういうこと。

自分では濡れた布団を片付けもしないのに、文句だけ言ったの?

次男もうとうと寝そうだったのに、泣かせて起こして、あやすこともなく、

抱っこを代わることもなく、寝るの?

長男のことを睨んで責めて、言わなくていいこと言って傷つけて、フォローもせず、新しい着替えを持ってくることもせず、寝るの?


なに?なんなの??ホントに、この人、なんなの???


「…っ!何でそんなこと言うの!?」

声が震える。


背中はピクリとも動かない。


呆れと怒りと哀しみで、視界と頭が真っ白になる。

何度も感じては抑え込んできた孤独と絶望が、一気に溢れてくる。

動かない背中が、視界が、ぼやけて歪んで見えてくる。

ひとりだ。私には一緒に子育てするパートナーは、いないんだ。


…いや、あんなのに構ってる場合ではない。

天井を睨み付ける。

そのままギュッと強く目を閉じて、それから大きく1つ深呼吸した。

…子供たちをフォローしないと。

次男を落ち着かせなくては。はやく長男を抱きしめたい。


ゆらゆら抱っこを再開しながら、長男にゆっくりと声をかける。

「自分で気づいて起きれて、えらかったよ。布団はママがきれいにするから心配ないよ。パジャマ濡れてて冷たいでしょ。風邪引くから、着替えようね」

泣き顔のまま、こくん、と頷く。

「自分で脱げるかな?」

チラリと、弟を抱っこしてる私を見て、こくん、と頷く。

「ありがとう。えらいね。まず脱ごうか。」

もそもそと脱ぎ出した。


湿り気で身体にくっついて、うまく脱げなかったので、片手で手伝う。

脱ぎ終わったら、次男のおしりふきを長男にとってもらう。

長男は、布団が濡れていない部分に立って、私の両肩に手をついていた。

片手で次男を抱きながら、片手で足やおしりをふいている様子を、じっと見ていた。

もう涙はとまっている。


「よし、ふけた。お布団入って待ってて。着替え持ってくるね」

「うん」

裸ん坊で、私の布団に潜り込む。


濡れたパジャマとシーツとタオルケットを片手でまとめる。布団は無事だ。よかった。

片手で濡れたものを抱えて、洗濯機に放り込んだ。

それから新しいパジャマと下着を持ってくる。

布団にくるまっていた長男が、着替えを持ってきた私に気づいて、布団からもそっと出てきた。


「ごめんね、ママ抱っこしてて、お着替え手伝えないんだけど、自分で着れるかな?」

「うん」

そういって、パンツを手に取り、どっちが前か探して、着替えはじめた。


いつの間にかうとうとしている次男を抱いて、座ったまま前後に揺れる。揺れながら着替える長男を眺める。

大きくなったな。1人で着替えるのが当たり前にできるんだな。ちょっと前まで、赤ちゃんだったのになぁ。


眺めているうちに、ふと、口からことばが出てきた。

「どうしておねしょしちゃうんだろね…」


5歳って、まだおねしょするものなのかな。赤ちゃん返りってやつなのかな。長男が初めての子育てだから、何が正解とか、よく分かんないなぁ。

ボーッと考えていたら、口に出ていた。

答えは求めていない、独り言みたいなものだった。


「めんどくさいから」


めんどくさいから…えっ、今、質問に答えた?

はっと我に返る。


「え、めんどくさい?の?」

「うん」

「何が?」

「トイレいくのが。」

「…トイレ行くのが?」

「うん。ねむくて、めんどくさくなるの」

「………そっかぁ……。」

「うん」


…めんどくさいのかぁ。


じわじわと、染み込んでくる。

「…ふふ。…っふっ…ははっ!」


急に笑った私のことを、長男が、不思議そうな表情で見てくる。


そうか。そうだよね。

大人の私だって、眠いときにトイレにいきたくなったら、ギリギリまでガマンすること、あるわ。

まだ5才。眠気にまけること、あるよね。


ふっと力が抜けた。

お腹の奥からふつふつとこみ上げてくる笑いを、夜中だからと自分に言い聞かせて、こらえる。


「そっか。めんどくさいか。…眠いもん、ね」声が震える。

うん、と言って、ちょっとはにかみながら私を見る。

「…っふふっ…」

目を合わせ、2人で小さく笑った。


小さな声で、そっと話す。

「ママも眠いとき、トイレに行くのめんどくさいなって思うこと、あるよ。」

「えっママも?」

「うん。眠いもん。」


私と目を合わせながら、こくん、とうなずく長男。


「でも、布団濡れちゃうからさ。えいやっ!て頑張って起きて、トイレ行くんだ。」

「…ふうん…」

そのままじっとなにか考えているようだった。

「…もう寝よう。ママのお布団おいで。」


いつの間にかすやすや寝息を立てている次男を、左腕で腕枕しながら、そっと布団に横たわる。

仰向けになり、右腕を長男に伸ばすと、モゾモゾと布団に入ってきた。

ピッタリと肩に顔を乗せてくっついてくる長男の足先は、まだ私の膝くらい。


「…あのね、ママ」

耳元に口を寄せて、こそっと話しかけてきた。

「ん?」

「えいや!って、おきれるか、まだわかんない…」

「ふふ。うん。ちょっとずつでいいからさ、一緒に練習していこうね」

「うん」


まだ5才。

明日もおねしょするかもしれない。


面倒くさいことは、これからも、きっといっぱいある。

けど、面倒くさいことをそのままにすると、もっと面倒くさくなるからね。

大丈夫。対処できるようになれるよ。大丈夫。


私にぴったりくっついたまま、スウスウと寝息をたてはじめた。

反対側では、次男がスウスウ眠っている。

その2つの寝息に挟まれて、耳を澄ましながら、目を閉じた。

口元が、ゆるゆると、ほころぶ。

カーテンの隙間から、深い夜の空が見える。少しだけ闇がゆるみはじめている。



少し離れたところで、ごごっ、と短いイビキが鳴っている。

けれどその音は、もうわたしには聞こえない。届かない。

今も、きっと、この先も。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ