05.正体
しんと静まりかえった闇の中、温度のない暗い瞳が私を見つめている。
「私はあなたのことをよく知っています。あなたは本当は人間ではない。吸血鬼ですよね。」
冷たい目で私を捉えたまま、レスター公爵は何も言わない。私は必死で話し続けるしかない。
「あなたのことは、もうずっと前から知っていたんです。そして、あなたの未来も知っています。あなたがどのように死ぬのかも。」
相変わらずレスター公爵は黙ったままだ。心の内を見透かすような視線が私を突き刺す。心臓がバクバクして口から飛び出しそう。
――もう、何とか言ってよ!
「う、嘘だと思うなら、あなたしか知らないはずのことを私が言ってみせましょうか?なんでも良いですよ!」
何か喋っていなければ恐怖でまた喉が凍りついてしまいそうで、とりあえず浮かんできた言葉をそのまま口から出した。
でも今のは余計だったかもしれない。全ての言葉が急に安っぽくなった気がする。
「私に関することが仮に本当だとして、どうして君はそんなことを知っているのかな?」
ようやくレスター公爵が口を開いた。相変わらず冷たい視線は私を射抜いたままだ。
もうここまで来たら後には引けない。私は覚悟を決めた。
「なぜなら私は、この世界の人間ではないからです。私は外の世界から来ました。私が元いた世界で、この世界について色々と読んでいて……ええっと読んだって言うのは……つまり……」
話しながら訳がわからなくなってくる。自分でも、自分が馬鹿げたことを言っているという自覚はあるから。
もういいや、勢いに任せて口にする。
「信じられないかと思いますが、この世界は小説の中なんです!」
言い終わってから、しまったと思った。
こんな突拍子もない話を突然して、一体どうなると言うんだろう。私はこの男に、私のことを「生かしておく価値がある」と思わせなければいけないのに。
でもこれじゃあどう考えても、スピリチュアルにハマったおかしな女にしか見えない。
目の前の吸血鬼はまた黙り込んで私を見つめた。
薄いグレーの瞳が、暗闇の中では暗い穴のように見える。何を考えているのかも全く読めない、感情の見えない穴。
数秒だったか十数秒だったか、永遠にも感じるような沈黙が続く。
そして突然、レスター公爵は笑い始めた。
「え?あのう……」
私は想定していた全ての反応を見事にこの男に裏切られて、訳が分からずにあたふたした。
こんな風に笑うレスター公爵は初めて見る。
いつもの冷たい微笑や、先ほどまでの残酷な薄ら笑いではない。完璧な形の美しい目を逆さまの三日月のようにすぼめて、楽しそうに大きな声で笑っている。
……なんというか、とても彼らしくない。
小説の中にもこういった描写はなかったはずだ。彼はいつだって優雅で冷酷で、周りの全てを蔑んでいるようなそんなキャラクターだった。
こんな風に笑うと、こんな得体の知れない化け物にも少しだけ温かみのようなものを感じてしまう。
「あははごめん!だって突拍子もないからさ。さっきの僕の言い訳もだいぶ苦しいと思ったのに、君はその百倍やばいよ!」
態度に加えて口調までも、全くいつもの彼らしくない。
随分とフランクで、まるでごく普通のこの年頃の青年のよう。楽しそうに笑いながらも、何故かひどく安心したように見えるのは気のせいだろうか。
「じゃあつまり僕たちは小説の中の登場人物で、君はその物語を読んだことがあるっていうこと?でもなんでこの世界に来たの?どうやって?」
まだ笑いながら、レスター公爵が尋ねる。衝撃的に美しく魅力的な笑顔だ。いや、こんなものに惑わされるわけにはいかない。なんとかこの場を乗り切ることに集中しないと。
「申し訳ございませんが、今の段階ではお答えできません。こちらも一度に手の内を晒すわけにはいきませんので。証拠を見せろと仰るなら、話は別ですが。」
極力冷静な態度を心がける。でも内心ではレスター公爵の豹変ぶりにまだ仰天していた。
「なるほど。それはそうだね。」
彼はまだ面白そうにニコニコしながら、そう言った。
一体どうしたんだろう。もしかして、これも獲物を仕留める前の余興の一環とか?そうであれば、随分と手の込んだことをするものだ。
この化け物が何を考えているのか、何をしたいのか、私には全く分からない。分からないなら、ひとまずは相手に話を合わせて探るしかない。
「レスター公爵。私の話を信じるのですか?」
「うん。嘘なの?」
「真実です。でも、これほど簡単に信じてもらえるとは思っておりませんでしたので……どうして信じるのですか?」
「だって、この世界が変なのは前から知っていたからね。」
レスター公爵は、軽い口調で言う。
知っていた……?
この男は、この世界が小説だと前から知っていたというの。私の驚いた表情を見て、レスター公爵はまた楽しそうに笑った。
「さすがに小説だとは思っていなかったよ。ただ、この世界が普通じゃないっていうのはずっと前から気付いていたんだ。」
「『普通じゃない』とは……?」
「自分の行動を自分で説明できない時がある。何か大きな力が、僕たちの行動や未来までも支配しているような。その力に反したことをしても、すぐに修正されてしまうんだよ。」
困惑する私をよそに、彼は続ける。
「もしかして君も経験したんじゃない?例えば、吸血鬼がこの屋敷に潜んでいると知っているのに、なぜ君は夜中に一人で出歩いているの?危険すぎると思わない?」
「……あ。」
衝撃を受けた。本当に彼の言う通りだ。どうして私は、レスター公爵はこのエリアに立ち入らないと信じ込んでいたんだろう。何の確証もないのに。ましてや、私はレスター公爵がメイドを襲うシーンを小説で読んでいたはずなのに。
思い当たる節があるような私の表情を見て、レスター公爵はふっと微笑んだ。いつもの氷のような微笑ではない、どこか自虐的な微笑み。
「まあ僕は間抜けなことに、それを神の仕業かと思っていたんだけどね。でも確かに……誰かに書かれた小説だと言われてみれば納得するなあ。」
神。確かにそう考えるのも無理はない。人類はこれまでも、自分たちの理解を超えた事象を神に関連づけてきたのだ。
でもまさか小説の登場人物が、自分の住む世界に違和感を持っていたなんて……。随分と不気味な話だ。そんなことあるんだろうか。
現実の世界から小説の中に入ることだってできるんだから、もう何でもありなのかもしれない。
「ではこの世界の他の人たちも同様に、何か気付いているのでしょうか?」
レスター公爵は首を横に振る。
「大半の人たちは何も知らないんじゃない?もしかしたら、僕みたいに何か変だと思っている人も少しはいるかもしれないけれど。でも僕は出会ったことはないな。」
「どうしてレスター公爵は変だと感じたんですか?きっかけは?」
笑っていたレスター公爵の顔がふと陰る。今度は心底辟易したような表情だ。
「だって僕は……つまり僕の『キャラクター』って言うの?どう考えてもさ、頭がおかしいでしょ。」
アタマガオカシイ?
この人は一体何を言い出すんだ。瞬間的に恐怖も緊張も忘れて、思わず吹き出しそうになってしまった。
確かにレスター公爵は残酷で恐ろしい悪役だ。でも、「レスター公爵は頭がおかしい」なんていう言葉を、レスター公爵本人の口から聞くことになるとは全くの予想外だった。
「つまり……あなたのキャラクターが悪役だから、この世界の違和感に気付くことができたということですか?」
「ああ、僕は悪役なのか。まあそうだよね。普通の人たちはキャラクターがまともだから、自分の性格とのギャップが少なくて気付かないんじゃないかな。」
「ではつまり、本当のあなたは悪役ではないということですか?」
「僕は聖人ではないかもしれないけれど、少なくとも善悪の区別ぐらいはつけられるよ。」
なんだか本当に訳が分からなくなってきた。話の展開に頭が追いつかない。小説だとかキャラクターだとか、この話を彼に始めたのは私の方なのに。
「ま、待ってください。ええと……でもレスター公爵のキャラクターは人間を下等な生き物と蔑んでいて、人間のことは餌としか思っていなくて、殺す前にわざと恐怖を感じさせて血の香りを高めるとか、そういう残酷な吸血鬼で……」
言葉にしながら、なんとか話を整理しようとする。
するとレスター公爵は眉間に皺を寄せて、美しい瞳を憤りでキラッと光らせた。
「薄々気付いてはいたけど、僕ってやばいぐらいにステレオタイプで退屈な吸血鬼だよね。小説や映画で使い古された設定じゃない?悪役ならせめてオリジナリティやストーリー性を持たせてほしいな……」
信じられないという様に溜め息をつくと、不満そうな声でペラペラと喋り続ける。
「そもそも僕たちと人間なんて、亜種みたいなものじゃないの?お互いに同じ社会で生きているわけだし……まあ吸血鬼にもシリアルキラーみたいな奴はいるけれど、でも大半はまともだよ。未だにこんな古典的な悪役の吸血鬼を登場させるなんて、本当は作者が千年前から生きている吸血鬼なんじゃないのかな。」
開いた口が塞がらない。目の前の彼は一体何者なんだろうか?
私が長年抱いてきた、悪役吸血鬼のイメージがガラガラと崩れていく。私は彼を信じて良いのだろうか。
「ところで、最後に僕は殺されるって言った?」
レスター公爵の急な問いかけに、私はフリーズした。そうだ、私は彼の死の運命を知っているという強みをネタに、取引を持ちかけるつもりだったんだ。
「……あ……ええっと……それは……」
「ああ、気を遣わなくていいよ。悪役は最後に倒されるって決まっているから。時々主人公が倒される作品もあるけれど、僕はバッドエンドは嫌いだなあ。ただでさえ世知辛い世の中なんだから、エンターテイメントぐらいはハッピーエンドにしてほしいものだよね。」
「はあ……。」
耽美な見た目とは裏腹に、本当にこの人はペラペラとよく喋る。
それにしても、どうしてこんなに他人事なんだろう。自分の死に関することなのに。
この世界が小説の中だと、彼があっさり信じる理由も分からない。いくら違和感を持っていたとしても、小説だなんて突拍子もない話をそんなにすぐに受け入れられるものだろうか。自分自身もこの世界も、全て誰かに作られたものだなんて。
私には到底無理だ。
やっぱり、レスター公爵は怪しすぎる。
そもそもこの男は悪役なのだ。易々と信じるわけにはいかない。当初の作戦通りに進めるのが無難だろう。彼が私を殺すことができなくなるように。
「レスター公爵。」
わざとらしいまでに、重々しく切り出した。
「私は小説の展開を知っております。運命を変えたいのなら、私は必ずあなたの役に立つと思いますよ。」
レスター公爵、あなたは私を殺してはいけない。
私だけが、この先の展開を知っているのだから。誰だって自分の死は恐ろしいはず。あなただってそうでしょう?
適当に協力するフリをしながら、なんとか私は最後まで生き延びてみせる。どうせ少し協力したところで、小説の展開なんて変わるわけがない。最後に悪役が燃え尽きて、「アマリリス」はハッピーエンド。晴れて御役御免の私は、現実の世界に帰るのだ。
顔を上げてレスター公爵を見る。
彼も私を見ていた。
青白い顔、いつもと同じ温度のないグレーの瞳。
でも今は、どこか淋しそうに見えた。