04.邂逅
大きな満月の夜だった。
今日も夜中に目を覚ます。
この世界に来てからというもの、目覚めずに朝を迎えられたことが一度もない。大体何度か目が覚めてしまうのだ。
家政婦長の厳格さを考えると、寝不足で仕事に出たくはないのに。
なんとか早く寝付けないかな。しばらくベッドの中で頑張ってみたけれど、結局無駄に時間が過ぎていくだけだ。
ため息をついて静かに部屋を出る。ガウンを羽織ると、使用人用のキッチンに向かった。
ひっそりと静まり返った真っ暗な深夜のお屋敷は、昼間にも増しておどろおどろしい。湿った空気が肌にまとわりついてなんとも気味が悪く、いつ化け物が飛び出してきても不思議ではない雰囲気だ。
まあ化け物なら、確かにこの屋敷内に潜んでいるんだけれど。
でも、このエリアにレスター公爵が足を踏み入れることはまずない。屋敷の主人と使用人の生活空間は完全に分けられているし、この時間帯、彼は私室にいるだろう。
なぜだか私はそんな風に安心しきっていた。キッチンの奥でグラスに水を注ぐと、部屋に戻ろうと出口に向かう。眠い目を擦りながら。
その瞬間、心臓が凍りついた。
窓から差し込む月明かりの下、扉にもたれてこちらをじっと見つめているのは、紛れもないレスター公爵その人だ。
この吸血鬼とまともに目が合ったのは、これが初めてだった。いつもはなるべく、化け物の視界に入らないように隠れてきたから。
それがこんなタイミングで、彼の目に私が映ってしまうなんて。
怖い。とにかく怖い。
完璧な形のその瞳の中に、人間的な感情は一切見えない。人とは全く違う、私たちには到底理解できない邪悪な何か。
言いようのない本能的な恐怖が襲ってきて、全身に震えが走る。
よく映画や小説では化け物に襲われる人間が悲鳴を上げるシーンがあるけれど、あんなのデタラメだ。だって今の私は恐怖のあまり、全身の筋肉が強張って声を出すことすらできない。
「こんな夜遅くに、一体何をしているのかな?」
吸血鬼は、温度のない目で私を見つめたまま微笑んだ。優雅で美しい微笑み。
私は何も言えずに、よろよろと一歩後ずさる。どんなに息を吸い込んでも肺には何も入ってこない。自分の浅い呼吸の音が聞こえてくる。今にも失神しそうだ。
彼は私から目を離さずに、こちらに向かってゆっくりと歩いてくる。
「ああ、恐怖する人間というのはいつ見ても面白い。」
まるで滑稽なショーでも観ているかのような態度。上品で甘く、どこか侮蔑的な口調が恐怖を掻き立てる。
ガシャーン。
その瞬間、私が持っていたグラスが手から滑り落ち、大きな音を立てて大理石の床に散らばった。
――なんてことだろう。この光景を、私は知っている。
レスター公爵の台詞もグラスが床に散らばる様子も、全く同じ。
吸血鬼が冷たい手で怯えるメイドの頬を優しく撫で、場面が暗転してメイドの断末魔がその場に響き渡る。
これは確かに小説で読んだ場面だ。レスター公爵の不気味さと残忍さを表すシーンとして、確か序盤に挿入されていたはず。
――まさかあの時に殺されたメイドがメアリーだったなんて……。
今やっと分かった。どんなに調べてもメアリーという女性について何の情報もなかったのは、メアリーはこのシーンのためだけに即席で作られたキャラクターだったからだ。吸血鬼に襲われる、ただそれだけのために。
実を言うとこの屋敷にいる以上、万一吸血鬼に襲われた時の作戦については、前から考えてあった。かといって成功する自信なんて全くない。だからこの作戦を実行する機会が最後まで訪れないことを祈りながら、レスター公爵から隠れて暮らしてきた。
残念ながら、この世界では祈りなんて通用しないらしい。
そして更に残念なことに、私の体は捕食者を前にして、まるで凍りついたように一ミリも動かなくなってしまった。「早くあの作戦を実行して!」心の中でパニックになった私が叫んでいるのに。
すっと青白い手が伸びてきて、細く長い指が恐怖で目を見開いている私の頬を優しく包み込む。冷たいゴムのような、生き物とは到底思えない感触。全身に鳥肌が立つ。
吸血鬼はまるで恋人を慈しむかのように、丁寧に自分の元に私を引き寄せる。その瞬間、月明かりに照らされて一瞬だけレスター公爵の顔がはっきりと見えた。
まるで空洞みたいな真っ暗な目。その目の周りには、血管のようなものが青白い皮膚に黒く浮き上がっている。口元からは長く鋭い牙がのぞいていて……。
「ギャーーーーーー!!!」
気がついた時には、私はもう悲鳴を上げていた。
化け物だ。殺される。
ここまできたら助かる見込みなんてないのに、なんとか逃げようと全力で抵抗する。
子供の頃によく観ていたサバンナのアニマルドキュメンタリーを思い出す。映像の中では、ヒョウに喉元を噛まれたインパラが最後にバタバタともがいていた。
すると突然、吸血鬼がパッと私を解放した。全身全霊で逃げようとしていた私は、急に手を離されて床に尻餅をつく。
こんな時なのに、先ほど床に落としたグラスから溢れ出た水が、ジワジワと服に染み込んでいくのを妙に鮮明に感じる。
私は尻餅をついた格好のまま、無様に四つん這いになって出口を目指した。
「失礼……驚かせてしまったね。最近少し疲れていて……どうやら私が少し寝ぼけていたようだ。」
突然の声色の変化に驚いて顔を上げると、レスター公爵が私を無表情で見下ろしていた。青白い顔に温度のないグレーの瞳。上品で尊大な口調。今さっき見た化け物ではない、いつも通りの彼だ。
どういうこと?助かったの?
さっきまで私を殺す気満々だったこの吸血鬼の、突然の心変わりが全く分からない。
そうだ、小説で読んだじゃない。この化け物はいつも、面白半分に獲物をいたぶってから殺していた。恐怖させる方が血が美味しくなるとか言って。
つまり、今は小休止ってこと。助かったと私に思わせて、また襲ってくる気だ。まだ彼の狩りは終わっていないのだから。
「気をつけないと、グラスの破片で怪我をしてしまうよ。」
まるで心配しているような口調。控えめで丁寧で、逆に嘲っているようにも聞こえる。
この男にとってこれは食前の余興なのだろう。これから殺す獲物に対しての、悪趣味でグロテスクなお遊び。
――この化け物。とことん人間を馬鹿にして!
恐怖が限界を超えると、今度は怒りが湧き上がってきた。どうして、こんなことができるんだろう。助かるかもしれないという期待を抱かせて、また絶望に突き落とすなんて。
一体私の前に、どれだけの人がこんな思いをさせられたんだろうか。悔しくて涙が出てくる。恐怖で全身がまた激しく震える。こんな姿を吸血鬼に見られているのも、本当に悔しい。あいつの思う壺だから。
目前に迫った自分の死の前で、一番に浮かぶのはやっぱり家族の顔だった。他愛もない会話が妙に懐かしい。
いや、このままこいつに殺されるなんて駄目だ。絶対に駄目。
怯えていないで抵抗するの!ここを乗り切らなければ、もう二度と家族には会えないかもしれない。作戦通りにやろう。何度もシミュレーションした通りに。
三秒間だけ、私は思いっきり怖がる時間を自分にあげた。
その後大きく深呼吸をしてから、こちらを見下ろす化け物に向き直る。どうか、できるだけ毅然とした態度に見えますように。
「レスター公爵。あなたはこのままでは殺されますよ。そう遠くない将来に、必ず。」
この作戦が果たして吉と出るか凶と出るか。
二十二年間の私の人生の全てが、きっとこの後の立ち回りに懸かっている。
レスター公爵は、無表情で私を見つめている。何も言わずに。