03.属さない場所で
目を覚ますと、月明かりにぼんやりと照らされた窓が目に入った。
一瞬、ここがどこだか分からず戸惑う。ぼうっとした頭で辺りを見回し、自分の置かれている状況を理解する。急速に頭がはっきりすると共に、刺すような絶望感が襲ってきた。
――なんとなくこうなる気がしてた。
自虐的に一人呟く。
無理に落ち着こうとしても心の焦りは消えない。どうして私はまだこの夢の中にいるの。
――やっぱり、これは夢ではないのかもしれない。
抱いていた不穏な疑惑が、にわかに真実味を帯びていく。信じられない。こんなこと、あって良いはずがない。
でも。どんなに信じがたくても、あり得ない話だと思っていても、私は今、確かに小説の中にいるのだ。
怖い。もしもこのまま、現実の世界に戻れなかったらどうしよう。一緒に来ていたみんなは、今頃どうしているだろう。私が帰らなかったら家族はどう思うかな。
そういえば、実家にはもう一年以上帰っていない。こんなことなら、もっと頻繁に顔を出しておけば良かった。母の顔を思い浮かべると、涙が込み上げてくる。
夜の静寂の中、遠くからは秋の虫の声が聞こえている。こんなに静かな夜を迎えるのは、両親と兄と妹と山梨のコテージに泊まった小学生以来じゃないだろうか。
実家は繁華街の近くだし一人暮らしをしている学生マンションも国道の前にあるから、私は騒音と共に眠りにつくのに慣れていた。それに比べて、ここはあまりに静かすぎる。静かすぎて落ち着かない。
「体調はどう?」
静まり返った部屋の中、顔の左側から突然声がして心臓が大きくバウンドした。
昼間も声をかけてきたメイドの女性が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。そうだ、あの親切な子と同室だったんだっけ。
今はメイド姿ではなく、結んでいた髪をほどいて白色のネグリジェを着ている。こうして見ると、素朴で可愛らしい。まだ十代後半ぐらいだろうか。
くりっとした小動物のような彼女の目は、他人に安心感を与える力があるようだ。なんだか、少しだけ心が落ち着いてきた。
そうだ、こんなところで悲観していても仕方ない。狼狽えるな、梨沙!なんとか元の現実世界に帰る方法を考えるのよ。
現実に帰って、無事に日本に帰国をして、そうしたらその足で実家に帰ろう。
スーツケースをガラガラと引いて「ただいま!」って大きな声で実家のドアを開けるんだ。そんな自分の姿を想像してみる。
「現実になりますように」と心の中で唱えながら。
「実はまだ、体調が良くないの……」
私は、いかにも具合が悪そうな弱々しい声で答えた。仮病は、高校のプールの授業をサボるために何度も経験を積んできた熟練の技だ。クオリティの高さには自信がある。
このまま体調不良を装って、明日もこの部屋にいた方が良いかもしれない。こんな作り物の世界で、呑気に仕事なんかしてる場合じゃない。
それに、なるべくあの悪役公爵の目につかないようにしなければ。目につかなければ、私が彼の餌になる順番を遅らせることができる。
「あまり酷いようなら病院に行った方が良いわ。大事をとって明日もお休みなさいね。家政婦長には私から伝えておくから大丈夫よ。」
彼女はそう言って優しく微笑んだ。会って間もないけれど、なんだか居心地の良い子。彼女は信頼できそう、そんな気がした。
結果的に、彼女と親しくなれたのは本当にありがたかった。主に私のメンタル面で。
だってあれから三週間が経っても、未だに帰る方法なんてこれっぽっちも見つかっていないから。
訳がわからぬままに、理不尽に家族とも友達とも引き離されて、冷酷な化け物の住まう見ず知らずの世界に一人きり。孤独な毎日に、彼女の温かさは大きな救いだった。
とはいえ、この三週間で分かったこともある。
一つは、この豪華な化け物屋敷の間取り。一階には大広間や応接室、書斎、そして公爵の私室が並び、二階に私たちのような、メイドや執事といった使用人専用のスペースが設けられている。
少し慣れてきたとはいえ、この屋敷は相変わらず不気味だ。
もう一つは、私と同室のこの天使のようなメイドの女性がポピーという名で、予想に反して実は三歳年上だったということ。
彼女は孤児院育ちで、十八歳で独り立ちをしてここで働き始めたらしい。苦労人なのにそれを感じさせない物腰の柔らかさ。彼女は絶対に吸血鬼の餌食にはさせたくない。
そして最後は、この世界での私の名前がメアリー・エバンズというらしいこと。それとなく探ってみても、私に関することは全く分からない。恐らくモブキャラクターの一人で、元々大した設定なんてないのだろう。
それ以外と言ったら、ただただ私のメイドスキルがアップしていくだけ。元の世界に戻れたら、家事代行バイトとして結構良い値段で働けるんじゃないだろうか。
「私の母は私を育ててくれなかったけれど、私はいつか自分の子供が欲しいのよ。」
感情豊かなポピーの表情は、その名の通りカラフルな花のように可愛らしい。私たちはいつの間にか、寝る前にベッドの上で他愛もないお喋りに花を咲かせるのが日課になっていた。
まあ実際はポピーがほとんど喋っていて、私は合間合間に相槌を打ったり、リアクションを取ったりするだけだけれど。
彼女は情報通でお話し好きだし、私は話し下手で元々聞き役に回ることが多いから、この役割分担に特に不満はない。一人で良くないことばかり考えて暗くなるよりずっとずっと良い。
今のところ、レスター公爵はまだ不穏な動きは見せていない。
幸いなことに、下っ端メイドの私やポピーには彼と関わるような仕事が少ない。
何故か突発的に、パーラーメイドに代わって応接室で客人の対応を任されたりする時ぐらいだろう。だから、あの吸血鬼の視界に私たちの存在が入る機会はほとんどない。そんな機会は最後までないことを祈っているけれど。
屋敷を隅から隅まで磨き上げている最中に時々遠くから見かけるレスター公爵は、相変わらず美しく高貴で、そして背筋の冷えるような恐怖を醸し出していた。
「そういえばこの前、レスター公爵と美しいご令嬢が二人で歩いているところを見たわよ。」
ポピーがクスクス笑いながら唐突に話を切り出した。今朝からずっと、何かを言いたそうにウズウズしているように見えたのはこのことだったのね。
「ランドリーのスザンナから聞いたんだけど……」
全く、ポピーの社交性は天性の才能だ。彼女は交友関係を無限に広げていく。長い巻き毛をくるくると指に巻きつけながら、彼女は話を続けた。ポピーのいつもの癖だ。
「その女性は、今までこの屋敷にいらっしゃったご令嬢の中でも一番位が高いそうなの。なんと、王家の血筋の方だそうよ!近いうちに婚約されるんじゃないかって皆噂しているみたい。」
ポピーのまん丸な目が、新しいゴシップできらきらしている。まるで木の実を見つけたリスのよう。
「まさか!公爵はまだお若いでしょ?」
ポピーの言葉に被せるように、興味津々な口調で私は聞き返した。本当は吸血鬼の恋愛事情になんて全く興味はないけれど、あの男の情報はできる限り知っておかなければいけない。
食いつくような私の反応を見て、ポピーは満足そうだ。
「あら、レスター公爵はもう二十歳よ。あんなに美しくて聡明なお方ですもの。うかうかしていたら誰かに取られてしまうわ。」
実際のところ、あの吸血鬼はそのご令嬢とは婚約しない。どんなに身分が高い絶世の美女であっても、あの男が靡くことは決してない。
だって彼にとっては、例え王女だろうとなんだろうと、皆等しく下等な獲物にすぎないから。
でもあの男は、力のある家族をバックに持つ、名だたるご令嬢に手を出すような無茶は絶対にしないのだ。
実際、彼は言い寄る高貴な女性たちを全て丁寧にお断りしていたはず。あの化け物が狙うのは、いなくなっても誰も気付かない私たちのような人間だけだ。
確か、小説ではこの吸血鬼には婚約者がいた。同じく吸血鬼一族の美しい女性で、高貴で冷酷で残虐。レスター公爵の女版みたいな吸血鬼だった。
名前は何だっけ。当時私はクラウスにばかり注目していたから、レスター公爵のことはよく覚えていない。
そういえば、主人公であるマーサとクラウスは、今何をしているんだろう。物語はどれぐらい進んでいるんだろうか。
この世界に来てからずっと屋敷の中にいるせいで、外の様子が全く分からない。近いうちに外出許可をもらって主人公たちを偵察しに行こう。彼らの動きを観察すれば、今が小説の起承転結のうち、どこに該当するのか大体分かるはずだ。
外に出るのは不安だけれど、悪役吸血鬼が潜むこの屋敷より危険な場所はないだろう。寧ろ、正義の主人公の近くにいた方が安全だ。
――早くマーサとクラウスが、レスター公爵を倒してくれれば良いのに。
深いため息をつく。そう、遅かれ早かれレスター公爵は倒される。最後には必ず倒されるのだ。
この世界には、吸血鬼にとって抗いがたい魅力を放つ、特別な血を持った人間がごく稀にいるらしい。口にしたら最後、吸血鬼は薬物中毒者のようにその血を求めてしまう。
実はマーサがその血を持つ一人だ。甘い蜜のような彼女の血に惑わされ、クラウスも何度も理性を失いかけていたっけ。
マーサの血を口にしたレスター公爵も例外ではなく、以降彼女を執拗に狙い始めた。
最終的にマーサはこの吸血鬼屋敷に捕らえられてしまうけれど、ギリギリのところでクラウスが助けに駆けつける。
クラウスとレスター公爵の激しい戦いが始まり、半吸血鬼のクラウスは、圧倒的な力を持つレスター公爵に容易く追い詰められてしまう。
もう駄目かというところで、マーサが自らの血を差し出すフリをして、吸血鬼にとっては猛毒となる死人の血をレスター公爵に飲ませるのだ。確かその血はレスター公爵の犠牲になった人々の血で……
彼自身が踏み躙ってきた人間たちによってついに力を失った化け物は、太陽の下で燃え尽き、灰となり消え失せる。
そして、死闘の中でお互いの愛を確かめ合ったマーサとクラウスは永遠の愛を誓い合い、この小説は終わりを迎えるのだ。
そうだ。この瞬間まで耐え抜けば、少なくとも私の命の心配はなくなる。というよりこの小説が終わったその時に、私はこのメアリーというモブキャラクターから解放されて現実の世界に帰れるんじゃないだろうか。
どんなに端役であってもこの小説の登場人物である以上、役割がある中でこの物語を抜け出すことはできないような気がする。
そうなると、タイミングは限られているはずだ。
それはつまり、この物語が終わった時。もしくは、私の役割が終わった時。
役割が終わるというのは、メアリーが田舎に引っ越すとか体調を崩すとか、とにかくメインキャラクターであるレスター公爵のもとを離れて、それ以上小説の進行には関与しなくなるということだ。
でもメアリーは、吸血鬼の屋敷で働く大勢の悲運のメイドのうちの単なる一人。一つの駒にすぎない。
冷静に考えて、作者がわざわざこのキャラクターに引っ越しや病気のような目立つ動きを与えるとは思えない。
つまり、途中退場の線は考えにくい。
……メアリーが死ぬという場合を除いて。
考えるのも恐ろしいけれど、役柄が役柄である以上、メアリーが途中でレスター公爵の餌食になる可能性も十分あり得る。この場合、元の世界には戻れるのだろうか?小説内での役割が消えたということに変わりはないはずだけれど。
――でも、戻れなかったら?
ブルっと身震いする。
この小説の中で死んで、本当に元の世界に戻れるという保証はどこにもない。死んで脱出の案はひとまず却下だ。
まずは無事に、物語の最後まで生き延びることを目標にしよう。
隣からすやすやと寝息が聞こえてくる。
適当に相槌を打ちながら自分の考えに没頭していた私の反応に退屈して、ポピーは眠ってしまったようだ。
開け放った窓から流れ込む風が、彼女の長い髪をフワフワと靡かせている。
明日も無事に、一日を終えられるだろうか。家族はどうしているだろう。元の世界に帰れる日はいつになるのかな。
この世界で一日が終わるごとに、鳩尾のあたりをチリチリと焼いている焦燥感がどんどん大きくなっていく。
途方もないブラックホールの中に落ち続けているようで、気を抜けば全て飲み込まれてしまいそうだ。
大きく深呼吸をして心を落ち着けると、ベッドに横になった。
遠くから梟の鳴き声が聞こえてきた。