僕が彼女の一体どこに惹かれているかということについて
みんな人それぞれに特別なものがあるのではないでしょうか。何気ないものなのだけどそれは僕にとってはすごく特別なのです。本当に何気ないけどまるで場所や風景までがくっきりと見えてくるようなのです。
少し首を左にかたむけ、左手の人差し指で唇を触りながら、紙面を追う。集中しているときの彼女のくせ。
「不思議な話しね」
紙面に目を落としたまま、話しかけるようにつぶやいていた。
「どこが?」
彼女の問いにはすぐに答えることにしている。
「こんなことは普通ありえないよ」彼女は言った。
「そうなんだ」僕も言った。
僕は『この話』がどのような内容なのかはわからない。
彼女が僕に目を向けるまでは何も聞かないことにしていた。
彼女は手にしたタブロイドをそのまま読み続けることもあるし、止めることもある。
その時でないとわからない。それが彼女のペース。
今日は広げていたそれを二つ折りにして、膝の高さほどのテーブルにポンっと置いた。
「ふうっ」と一息ついて私に話しかける。
「それでね、昨日のことなんだけど。車を運転していたら窓からゴミを捨てているんだよね。ねえ、どう思う?」
「まだそんなことをする奴がいるんだな」
「そうなのよ。どう思う?腹が立つわ本当に」
おそらく初めに話しかけた『不思議な話』ではなさそうだ。
だけど二回も聞いてくるということはかなり腹がたったんだろうなということはわかった。
彼女の頭の中では読み取った言葉や文字、目にした光景がグルグルと回転していてたまたま開いた口から一番近くのものが言葉になって出てくるのだろうと思っている。
回転の速さや口を開くタイミングで、その時に出てくる言葉はその前の話とは全くつながらないことがあるのだろうと思っている。
話が完結した訳ではない。ただタイミングによって話が出てくるかこないかということだけなのだ。
たくさんの言葉や景色が頭の中でものすごい速さで動いているから、同じことが続けて出てくることはひょっとしたら、宝くじと同じくらいの確率なのかもしれない。
僕が彼女の話についていけないのはそれはしょうがないことだと思っている。
僕も彼女の英字のタブロイドを読もうと取り上げたことはあるが、小さい文字で印刷されていて、
全く読めないということはないが辞書なしでは難しい。
それからは無理して読もうとは思わなくなった。
彼女と初めて出会ったのは、おそらく僕がそれまでの人生のなかで一番苦しかった時期だった
(一番苦しかったなんて、今ではほんの些細なことだったのだが)
その時も少し首を左にかたむけ、左手の人差し指で唇を触りながら、タブロイドを熱心に読んでいた。
時折「ふうっ」と息をついている。
カフェのテーブルの上で、飲みかけのアイスコーヒーは氷もすっかり溶けていてグラスの水滴もすっかり消えてしまっていた。
ぬるくなった中身を飲む間も目は紙面の文字を追っている。
目の前にいる僕のことにも気づく気配はない。
軽く咳払いをすると、初めて彼女はこちらに気づいてすぐににっこりと笑いかけた。
「どう思う?これ」
そう言いながら僕にタブロイドを差し出した。その時、石畳の道に面したカフェテラスでは彼女の背中を赤いミニが白い煙を吐きながらゆっくりと通り過ぎていった。
彼女に出会ってから変わったかと言えば二人で同じ時間を過ごすことが多くなったぐらいだった(出会いは少し変わっていたけど)食事をすること、本を読むこと、休みの朝のおはようのあいさつ。
年上の彼女は、その年齢とは逆に見た目は恐らくは僕より年下にしか見られない。
でも文字を追う彼女の表情やため息をつくところを見ているときは、なぜだか年上の女性だと思った。
ソファーに座り、じっとタブロイドを読みながら時折「ふうっ」と息をつく。そんな様子の彼女を飽きずに見ていた。
いや僕はそれが好きなんだと思った。
一緒に住みだすまでにはそう時間はかからなかった。
そうなってからは彼女の色々な表情を見ることができた。
でもタブロイドを読みながら、独り言なのかそれとも話しかけているのかよくわからないが、
そんな会話(一方的であることが多いが)をしている彼女の様子や表情は最初に会った時から変わることはなかった。
そこも好きだった。
ようやく梅雨があけ、久しぶりに青空が広がっていた。
ベランダのアサガオも空に映える。
僕たちの家は町の中心からは少し離れていてとても緑が多いところにある。隣の公園に広がる緑の木々がここから見るとまるで森のように見えてここがツリーハウスかのように感じる時がある。
子供が出ていったあとの隙間を埋めるようにソファーとテーブルを買ってリビングに置いた。
彼女のリクエストもあった。
最近彼女は表情が少し変わってきた。
昔の自分に戻ろうとしているのではないかと僕は思った。
すぐにソファーとテーブルを探し始めた。
特に注文はなかったが、僕はなるべくつきあい出した頃住んでいたところと同じようなものを見つけるつもりでいた。
お気に入りだった家具はアパートに備えつけのものだったのでここにはない。
探し続けた末に納得できるものが見つかりリビングに置いた。
リビングは十分に広かったけど、ソファーを窓際の壁にくっつけた。
テーブルとソファーの間はわざと狭くした。麻のカーテンを引いた。
あの狭いアパートの部屋を再現しようとした。
今日、彼女の手元にタブロイドがある。国内で発刊されているものは本国でのものとは少し違うし、なにしろ長い年月が過ぎてデザインや活字の大きさも変わった。
でも受け取った彼女は、何も言わずにソファーに腰をおろし読み始めた。
少し首をに左にかたむけ、左手の人差し指で唇を触りながら。
彼女の様子を見ながら、僕はやっぱりきれいだなと思った。
「ねえ、どう思う?」
彼女が僕に問いかける。
読んでいるときのしぐさが僕はとても好きだ。
そう思いながらいつまでも彼女を眺め続けた。