あなた色に染まって
「君を俺色に染めたい」
勘弁してください、嫌に決まってます。逃げても良いですか?
私は全ての言葉を飲み込んで、彼に向かって微笑んだ。
苦笑いになってしまったのは、もう仕方ないと思う。
「なあ、萌葱。駄目だろうか?」
ぐいっと迫られて、顔が赤くなってしまったのは、やっぱり仕方ないと思う。
この人、変態ではあるが、顔だけはいいんだもん。癖のない黒髪も、少し細い瞳も、とても綺麗で、顔の凹凸なんて整いすぎていて彫刻みたいだ。
そんな彼をぼうっと見ていると、後ろから声がかかった。
「部長。とりあえず、もうすぐ文化祭なので、さっさと作品を提出なさい」
「その作品を作っている。ちょっと待ってろ、若野」
「若野先輩。す、すみません」
この美術部の副部長である、若野先輩がやってきて、救いの声をくれた。
このままでは、本当に染められてしまう。
「騒いでしまって、すみません」
「いいの、あなたのせいじゃないでしょ?」
「そうだそうだ。若野に謝る必要はないぞ、萌葱」
「あんたは謝んなさい」
不服そうな顔をしているのも、俺様系が好きな女子には涎ものなんじゃないかと思う。まあ、この人は完全な天然さんだから、俺様とはちょっと違うのかもしれないけど。
「萌葱。で、いいのか?」
「無理に決まってるでしょ! ヌードなんて学生がするもんじゃないでしょ!」
「……まあ、そうかもしれないが」
ここで納得してくれればいいんだけど。
無理よね。
うん、経験上、分かってる。
「でも、萌葱を全て俺の色に染めたいんだ」
早良先輩は、自分の世界を持っている。
自分の色彩感覚で、ちょっと抽象的な絵を描くことが多い。
よく言えば天才。悪く言えば、理解しがたい。
そんな彼の絵は、賛否両論。好き嫌いがしっかり分かれるような絵である。
特徴を挙げれば、まず、大体が彼の色に染められる。
たとえば、卵。普通だったら、白のイメージが多いが、彼は紫の少し毒々しい色でそれを描き上げ、可愛らしい雛を真っ赤に色づけた。少し、地獄を連想される誕生の瞬間に、私は度肝を抜かれると同時に――
「そうか。そうだな」
「何、納得してんのよ!? あんた、変なことを言い出すから、恐いのよ……」
若野先輩は、早良先輩のお母さんみたいな役の人だ。
付き合ってるのかもしれないけど、後輩の私が聞けるような話ではなかった。
二人とも、ちょっと変わってるから……。
「よく考えれば分かる」
「だから、何を!?」
「萌葱を、俺のものにしてしまえば、普通に全部見れ」
「こんの馬鹿やろうう!!!!!!」
私の頭からは湯気が、早良先輩の頭には鉄拳が飛んでいる。
「このっ、存在がセクハラ馬鹿め!」
「ひどい悪口だな。そうは思わないか? 萌葱」
「……知りません」
同意を求められても、セクハラされているのは私なんですけど。
私には困った表情しかできなかった。
「なあ、萌葱。来い!」
あんだけ強く打たれたのに、ぴんぴんしているこの人は超人なんじゃないだろうか。もう走り回っても平気らしい。っていうか、来いってことは、美術室を出て、これから二人っきりになるの!?
思考がぐるぐるしているうちに、私は手を引かれ、いつのまにか美術室を後にしていた。先輩はどこかに向かっているみたいだ。
「先輩、どこに行くんですか?」
「付いてくれば分かるだろう」
いや、だから着く前に知りたいんですって。
さすがにいきなり服を脱がされたりはしない……と思いたいが、早良先輩は本当に何をしでかすのか分からないところがあるので、なんとも言えず。
「よし、そろそろいいか」
特にどこかに向かっていたわけではなかったらしい先輩は、美術室からちょっと距離のある空き教室をみつけると、そこに入っていった。もちろん、手を繋がれている私も、そのまま中へ。
「先輩。ヌードは嫌なんですけど」
私はイスに座って、先輩の様子を窺っていた。
机をイスにしている行儀の悪い早良先輩は、私の言葉に唸った。
「……まあ、そうだよな。でも、ほら。俺と付き合えば、自然と脱いでも平気にな」
「だから、勘弁してくださいって! 私、そのことについて全く了承してないんですけど」
真っ赤になった私に、先輩は首を傾げて、眉間に皺を寄せた。
「嫌なのか?」
そう聞かれてしまうと、首を縦に振ることはできなかった。
私は、あの絵を見た瞬間に、全身を電撃が走ったようになり、言わば恋に堕ちたような衝撃を受けたのだ。いや、多分恋だと思う。私こそ変態みたいだけど、やっぱりあれはそうだ。
そして、今もきっとそうなんだろう。
「で、うん。そうだな……。服を着たままでも、全身を絵の具で……いや、それじゃあ、すべて俺の色になっているわけじゃないから、嫌だな」
軽く苛立っているのは、どうしてか。
「やっぱり他の色に邪魔されないように、全身を塗りたくりたいんだよな」
でも、そんな必要はないと思う。
「先輩、あの……私……」
「うん?」
最初は、絵がきっかけだったけど、会ってみて、このちょっと天然だけど、邪気のない笑顔に惚れたんだと思う。
彼の世界は彼の中で完結しているのを知っていたから、余計にその場所に入りたくなって。仲間に入れて欲しくて。
だから、羨ましくって。
「私に染まって欲しいって言うんだったら、先輩が先に染まってください」
先輩は、私の言葉に呆然として、あっけにとられているみたいだった。
そして、その後、これでもかというほど、鮮やかな赤色に染まった。
やっと、自分が言っている内容の重大さに気が付いてくれたんだと思う。
もう、私は先輩の色に染まりきってしまっているんだ。それなのに、こんなことを求めてくる。だったら、私だって、欲しい。
「先輩。萌葱は、赤じゃないんですけど」
「わ、分かってる」
「でも、これで私色に染まってくれたってことですよね?」
ちょっと、傲慢かとも思ったけれど、先輩はやはり無邪気な笑顔で返してくれた。
胸が痛むのは、嬉しすぎるせいなんだろう。
「やっぱり俺も、萌葱を染めたいよ」
その笑顔か眩し過ぎて、眩暈がした。
どこか危険な気分になるのは、この人を好きになってしまったからなんだろうか。
それとも、この人の作品に惚れこんでしまったせいなんだろうか。
これから、きっと分かるんだろう。
「染めて、くださいね」
全部、あなた色に染まれ。