絶望よ、こんにちは
本日、2話目の投稿です。
ヴィクトリアは、絶望していた。
彼女は現在十二歳だが、おおむね今までの人生(といえる程のものでもないが)は幸せなものであった。
不幸なことがあったとしたら、生後数カ月で産後の肥立ちが思わしくなかった母が儚くなったことだろうか。
ヴィクトリアの生まれたアルバート家は二代前(ヴィクトリアの曽祖父)までは「ルッツ商会」という、平民ではあるが大のつく商家を営んでおり、その莫大な資産を持参金として、没落していたアルバート男爵家へ養子に入るというかたちで、爵位と領地をまあ有体に言えば、買い取った。
そのため、成り上がりもしくは成金のアルバート男爵家は庶民的で、家族仲が非常に良かった。生母がいなくとも乳母が本当の母のごとくヴィクトリアの面倒をみて、父も祖父母も子育てに手を出し、乳姉妹や従弟とも姉弟のように一緒に育てられたおかげで、ヴィクトリアは寂しい思いをしたことなど、皆無と言ってよかった。
むしろ寂しかったのは父の方だったらしく、ヴィクトリアが七歳の時に、さる伯爵令嬢と再婚をした。
新しい母は、若く楽天的で父に惚れ込んでおり、父以外のことは(良い意味で)全く頓着しなかったので、嫁姑問題が勃発することも、ヴィクトリアをよくある大衆小説のように虐めたりすることもなく、ヴィクトリアの方も反抗するほど母の思い出があるということもなかったので、お互い年の離れた友人のようなとても良い関係が築けていた。
再婚後一年ほどで妹が生まれ、現在四歳のその妹が激烈に愛らしく、ヴィクトリアは溺愛をしている。
そんなヴィクトリアが、何に絶望しているかというと————
一カ月程前に、父から婚約の話をされた。
その話を聞いてから、ずっと心の中で何かがわだかまっていた。ことばでは説明できない暗く淀んだ感情が渦巻いていて、ヴィクトリアにとって落ち込んでいるという程度ではなく、おおげさかもしれないがそれは絶望といってよい感情だった。
こんなふうに鬱々としていると、なにをするにも気が散りぼんやりとしてしまうものだが、いまヴィクトリアが作業している、五歳のときから遊びのように行ってきた糸繰り作業はしっかり体が覚えていて、その動きには少しの淀みもなかった。
いつもは工房の職人たちとのおしゃべりを楽しみながら行っている糸繰り作業であったが、今はむしろ、自分のどうにも消化できない感情を紛らわすために、何も考えず手を動かすことに躍起になっていた。
「まあ、お嬢様、ずいぶん熱心に繰ってますねぇ」
一心不乱に糸繰りをしている脇を、ヴィクトリアの元乳母オレリーが通りかかり、声を掛けた。今は乳母を引退してアルバート家直営の機織工房の職工となっているオレリーが、感心したようにヴィクトリアの繰っていた糸を確かめる。
「うん。さすが小さいころからやっていただけありますねぇ。太さも均一でよく撚れています」
ヴィクトリアはその誉め言葉に何も答えず、糸繰車を動かし続けた。
むっつりと手を動かすヴィクトリアをどうしたのかしらとオレリーは不審に思った。
ヴィクトリアは、小さなころから家業の手伝いや勉強、そして昨年からは領地経営を祖父と父親から教わっているせいか、十二歳という年齢にしてはかなり大人びた子供であったので、こんな拗ねた態度はめずらしいことだった。オレリーは長年の乳母としての習い性で注意深く様子を窺った。
ヴィクトリアはたいていの悩み事は、自分の中で消化して人に話せる段階(その時点でほぼ解決しているのだが)まではだんまりを決め込むことが多かった。オレリーの見たところ、どうやらまだ自分からは話せない段階らしいと判断し、少し探りを入れることにした。
「そういえば、来週婚約者の方と顔合わせなのですよね?」
はっきり言うと、ヴィクトリアにとっていま一番触れてほしくない話題であった。
それこそが、ヴィクトリアを何故か絶望のどん底に落としている原因なのだから。
「……………………そうね」
自分でも思っていたより低い声で答えてしまい、ヴィクトリアは、はっとした。
「お嬢様? なにか……」
さすがにちょっと様子がおかしいと感じたオレリーが聞き返したが、すぐににっこりとした笑顔で「どんなドレスを着ていけばいいと思う?」と逆に問われれば、これ以上聞いてくれるなという意思を強く感じて、オレリーは何も言うことはできなかったのである。
そして次の週、ヴィクトリアは父親と共に男爵領の隣にあるルキア侯爵領の屋敷を訪れた。
————ルキア侯爵領は、アルバート男爵領の北隣にある。どちらの領地も皇都シャイリーンを中心とするサスキア皇国の中では北西に位置している。
アルバート男爵領の数倍ある広大なルキア侯爵領は、その領地の北側に鉱山を要する山脈があり、ルキア侯爵領の主要輸出品はこの鉱山から豊かに採掘される貴金属と貴石、そしてそれらを使った宝飾品だ。
ルキア侯爵領の鉱山から産出される宝石は質もよく、それらを加工する技術もルキア侯爵家が手厚く支援した為、鉱山の近くには職人街ともいえる大きな町があって大層賑わっており、ルキア侯爵領は皇国有数の裕福な領地であった。
対して、元々のアルバート男爵領は皇都に隣接しているとはいえ、寒冷地ゆえに目立った特産品のない貧しい領地であった。
しかし曽祖父が男爵の爵位と領地を継いだ(買い取った)のをきっかけに、手つかずの土地に牧場を作ったり、農村の農閑期に養蚕業の推進をさせるなど、新たな産業を興して瞬く間にそれらを軌道に乗せてしまうと、曽祖父と祖父のたった二代のうちに、アルバート男爵領を毛織物と絹織物の生産地としてサスキア中に認知させる程にしてしまった。
それと同時に、織物の生産・販売を営んでいたルッツ商会の拠点をアルバート男爵領に移転し、その際各地に散らばっていたお抱えの工房や有望な職人を呼び寄せて町を作った。その町は皇都から近いこともあって、質の良い織物を求めて各領地の商人が立ち寄る賑やかな交易の街となった。交易が盛んになると、さまざまな領地のさまざまな商品が街には集まるようになり、夏には避暑と買い物の為に観光客が訪れるようになった。こうして、街——領都アシェラ——とアルバート男爵領は急激にめざましい発展を遂げた。
そしてヴィクトリアの父の代となり、新しくアルバート男爵家直営の事業——織生地から自分好みの染色まで注文できる贅沢なオートクチュールの工房——を立ち上げた。
その工房のドレスは、時間は掛かるが満足できるお気に入りの一枚が手に入ると、貴族女性のうちでじわじわと人気が高まり、最近ではこの工房で婚礼衣装を作ってもらうというのがちょっとしたステータスになっている。
そこにルキア侯爵は目を付けた。
お隣さんで、自領の特産である宝飾品と相性の良い、目新しい事業が軌道に乗り始めている。さらに言うと、自らではなかなか開拓できない平民向けの宝飾品の販売ルート——貴族向けの宝飾品には向かない半貴石や粒が小さい屑石等を使った宝飾品を売るルート——が、ルキア侯爵は以前から喉から手が出るほど欲しかった。
望むものがこんなに近くにあったとなれば、これは提携しない手はないのではないか?ということで、ルキア侯爵はアルバート男爵に相談を持ち掛け、会ってみたらどちらも手を組むことに否やはない。
そのうえ、お互いに年齢の釣り合う子供がいるとなれば——両家が親戚になったら、もっといろんなこと出来るよね!(というノリであったかどうかはさておき)——婚約という話になるのはごく自然な成り行きであった。
……と、こんな感じの話を事前にヴィクトリアは父から聞かされており、この婚約は完全に家同士の政略で、男爵家からは断れない話なのだと理解していたのだったが————
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