七楽章 七ヶ条
7.
「今日から午前十一時まで、音出しは禁止になりました」
部員が鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして停止し、数秒後ざわざわと騒ぎ始める。
「近隣住民の方々から苦情があり、学校でそう決まりました。皆さんごめんなさい」
頭を下げる星尾の姿を眺めながら、白葉はポケットから出しかけていた紙を押し戻すのだった。
「先生、それじゃあ練習が出来ません」
生徒達が次々に星尾に詰め寄り、不満をぶつけていく。平日は授業があり、朝から目一杯練習が出来るのは休日だけなのだから、生徒達の気持ちはとてもよく分かる。
「もしかして、平日の朝練もダメなんですか?」
副部長の一言に星尾が頷くと、より一層ガッカリする声が溢れ落胆する生徒達。
「白葉さん、どうしましょう」
部長の心配そうな顔を見て白葉は決心した。考えていた練習案のA案ではなく、没にしようとしたB案をここで発表しようと。
A案は学生向けの比較的楽しい練習メニューだったが、B案は全く楽しくないメニューで不採用だとしていた。しかしB案なら現状に合わせられる。
白葉はホワイトボードに急に文字を書き始める。
「白葉さん、それは?」
「星尾先生、この練習メニューなら問題ありませんか?」
ホワイトボードには朝の九時からのタイムスケジュールが書かれ、そこには朝の十一時まで楽器練習は書かれていない。
「このメニューなら大丈夫ですが、これでは……」
星尾の懸念通り、メニュー表を見て生徒はより一層不満を爆破させる。
「朝から二時間筋トレって何?!」
「しかも筋トレの前にストレッチを三十分って書いてあるし」
「夕方も六時半で練習終了って早くない?」
「平日も朝練禁止で、帰宅完了時間が七時って嘘だろ?」
「平日が二時間半って足りないんだけど」
「あの、自主練メニューって何?」
白葉は休日と平日の練習メニューを書いた横に、自主練メニューというタイトルの練習メニューを書き加えていく。
さまざまな種類の音楽を聴くこと。
チューニングした自分の音を覚えること。
担当楽器のプロ演奏を聴くこと。
担当以外の楽器を知ること。
課題曲を覚えること。
自分の奏でる旋律を歌えるようになること。
筋トレとストレッチを欠かさないこと。
のちに白葉七ヶ条と呼ばれるこの自主練メニューは、どれも楽器を演奏しなくても出来るものばかりで、部員達は戸惑うばかりだった。
「あとは君達が必要と思う練習は積極的に取り入れてほしい」
「白葉さん、いくらなんでもこれでは上手くなりません」
「早勢君、これらはやりたくなければやらなくても構わない。このメニューは強制ではないし、音楽は無理矢理やるもんじゃないからな。ただ学校のルールである音出しの時間だけは守ってほしい」
部長は少し悩んで、部員達に向き直り「まずは各パート毎に練習メニューを検討してみてください」とだけ述べ、それぞれの対応をパートリーダーに委ねた。
白葉は不穏な空気に溢れた部室から出て、階段に腰を下ろし、頭を抱えて深いため息を吐いた。
「他にしてあげられることは無いだろうか」
好きなことをする時一番辛いのは、時間の制約があるということだ。目の前に楽器があるのにそれを奏でられないというのは、どうも歯がゆいだろう。
二度目のため息を吐いた時、パタパタと軽い足音が響いて白葉の隣で止まり、そして座り込む音が聞こえた。
「白葉さん、パーカッションはどこの筋肉を鍛えればいいんですか?」
「津下君」
携帯電話を片手に隣で座っていたのは津下で、彼は真面目に白葉の練習メニューをこなそうと思っているらしい。
「津下君は筋トレとか嫌じゃないのか?」
「俺はもともと運動部なので筋トレとかは特に苦にはならないですよ。それに基礎トレーニングが最短で上手くなる方法という事くらい皆、分かってます」
部室の方に目をやると、扉の前で女子生徒達が「ヨガをしよう」とか「ピラティスがいい」とか楽しげに会話をしている。
その姿を眺めながら白葉は隣に座る男子生徒に「パーカッションに必要な筋肉は知らない」と答えるので、隣から冷たい目で睨まれるのだった。
「勉強しておくから、まずは携帯電話で調べてみてくれ」
「分かりました。そうだ、トレーニング中に音楽を聴いてもいいですか?」
「もちろんだ」
「白葉さん、おすすめとか教えてください。俺、音楽は何にも知らないんで」
「分かった。家から何種類か持ってくる」
津下が携帯電話を見つめながら嬉しそうに微笑んだ。
「津下君、まずは楽譜を読めるようになろうか」
「あ!」
楽しい事ばかりではないという現実を思い出したのか、急に顔色が曇り「何とかします」と小さく答えた。
「それでは今日の午前中は各教室に行ってもらって、練習メニューを考えてみてください。疑問、相談があればいつでも白葉さんを呼んでくれて構わないので」
早勢部長が大声でそう呼びかけると、学生達は「はい。」と返事をした後、急いで白葉の元に駆け寄ってくるのだった。
音楽に必要な筋肉とは?やチューニングした音を覚えるってどういう事?やおすすめのプロの演奏家は誰?など、七ヶ条の内容についての質問が殺到した。
次から次に声をかけられるので返答にあたふたしていると、副部長がその場を仕切り始める。
「階段で集まらないで。まずは教室に入ってください。一年生に楽器の扱い方の説明も忘れずにしてください。白葉さんには順番に教室を回ってもらいますから」
「この人、筋肉とか詳しくないらしいですよ」
津下がそうコメントを付け足すと、一気に人だかりは解散になり、部員は大人しく練習に使っている教室に向かうのだった。
白葉は急に虚しくなって、携帯電話を取り出して検索を始める。
「高校生、吹奏楽、筋トレで検索しておこう」
生徒に聞かれる前に勉強が必要なようだ。
若者は柔軟で、動き出せば前向きで、未来が明るいと感じさせる。
音楽という振動は必ず、環境を人生を確実に動かしてくれるし、日常を彩っていく。
白葉の平凡な日常は、吹奏楽という音と振動でみずみずしく色づいている。
エピローグ
音楽から離れて暮らしていた。毎日歩く練習していると、幼い子どもに戻ったようで、ピアノに出会う前の自分を取り戻したような心地になる。
もしピアノに出会っていなければ、自分はこんな穏やかな気持ちで生きていられただろうか、と彼の胸の奥は不思議と静かだった。
穏やかではあるが何も無い。あったはずのものが無くなったような、自分の一部が死んだような、そんな虚無感を聴いている日々。
ある日とある小さな楽団が病院にやってきた。戦いで傷ついた兵士を癒しに来たのだと、声高らかに現れた。
楽団はクラシックを演奏するかと思いきや、奏でたのは異国のリズムで、それはジャズと呼ばれる新しい音楽だった。
団員達は傷ついた兵士達にトライアングルやマラカスなどの小ぶりな楽器を配ってまわり、彼にはドラムのスティックを手渡した。
楽団の演奏にあわせて兵士達は下手なりにも即興演奏に楽しそうにしていたが、彼だけはスティックを持ったまま音は奏でなかった。
「叩いてみてよ。楽しいから」
二十代の女性楽団員が彼に笑顔を向けるが、彼は下を向いたまま返事もしない。
「ドラムもだけど、打楽器は楽しいよ。空気を振動させると、世界も動かせるような気がするの」
「……振動なんて、破滅の音だ」
彼の卑屈な発言に女性楽団員は悲しげな顔を見せたが、すぐに笑顔を作り直して、彼の手を握った。
そしてスティックを掴んでいる手を動かせて、ドラムをバンと一叩きする。
すると目の前の空気がパンと軽く弾けるのが分かった。それと同時に彼の耳元が震えて、何か滞っていたものが動いたような気がした。
「私は環境が変わらない時は、自分でこうやって手とか足とかを動かして、周りを振動させてみるの。だからお兄さんもやってみて」
彼は無言でスティックを振り下ろしてみた。手に伝わる振動は心地よく、ピアノとは違った空気の変化だと感じた。
彼の生み出したリズムに楽団員がメロディーを付け加え、兵士達もそれに続いていく。一つの弾けた音が、震えた空気が環境を変える。
誰もが楽しそうで、つい先日まで戦場にいたとは思えない穏やか時間の中で漂った。
彼の手の中には今もなお、音楽が溢れている。