五楽章 耳に残る
5.
幼い頃からスポーツは得意で、走ればクラスで一番、野球では四番バッター、サッカーではフォワード、体育授業は常にクラスメイトにも教師にも褒められていた。
とにかく自分に自信があったし、周りも運動の出来る男の子として知られていて期待されていたし、彼自信もスポーツの世界で生きていくのだと思っていた。
しかし中学生になると取り巻く環境はだんだん変化していく。
同級生がどんどん彼の身長を超えていき、バスケットボールの授業ではスタメンに選ばれなくなっていき、入部していたサッカーでは背の高い生徒にすぐボールを取られてしまう。
小学生時代のイメージが邪魔になりはじめ、先輩達から「あいつ、思ったより使えないな」と陰口を叩かれるようになり、サッカー部での居場所がなくなっていった。
県大会の予選で柄の悪い選手に足をかけられて倒された時、咄嗟についた右手の骨が簡単に折れた。
それから利き手を封じられた生活が始まり、不慣れな左手のみの生活に嫌気がさして、その不満をサッカー部に向けることになってしまった。
「サッカー部に入らなければこんな事にならなかった。手を怪我する事は無かったし、こんなに惨めな思いをすることも無かったはずだ」
不満の元凶を全てサッカー部のせいにして、彼はだんだんと部活に出なくなっていった。
そして二年生になると、退部届を提出した。引き止める人は誰一人居なかった。
左手で文字が書けるようになった頃、右手の骨はくっつき問題なく生活出来るようになったが、問題の無い生活は面白くない日々だった。
人に悪口を言われる事のない、誰かと比べて惨めな思いをしないでいられる、何かを目指さなくて済む、自由で退屈な毎日。
それなりに勉強して、それなりに友達付き合いをして、それなりの進路を決めて、なんとなくやり過ごすして、気付けば高校生になっていた。
多くを望まなければ、高みを目指さなければ、身も心も安全で生きていられるが、足跡に虚しさが残っているのは何故だろう。
どうしてこんなにも毎日がつまらないんだろう。
高校入学後、学校の方針で部活入部が必須だと知った。どこかそれなりにやり過ごせる部は無いかと探してみたが、どこもかしこも真面目で目標を持ってやっているようで、彼の求める部活は存在しなかった。
運動部がジョギングする姿を教室の窓から眺めていると、担任の教師に声をかけられた。
「津下君、入部届がまだ提出されていないんだけど、紙を無くしましたか?」
皺のないツルツルの入部届が机の上に置かれた。
「うちの学校は文武両道が昔からの基本的な方針でね、なるべく部活には入って欲しいんです」
ああ、この手の教師は面倒臭いと瞬時に理解した。やる気の無い生徒なんてそれなりにあしらっていればいいのに、どうしても彼のような他の生徒とは違う方に向いている学生が気になるタイプなのだろう。
教師としては熱意がありしっかりしているのだろうが、生徒としては面倒で煙たい存在だ。
その日から担任の星尾先生は毎日のように入部届を出すようにと声をかけてきた。
自分が引率をしている部活は吹奏楽部で、その素晴らしさについて語るようにもなっていく。
「音楽って凄いんですよ。集まった人が作り出す音楽は知っている曲でも違って聴こえるし、メンバーが変わればまた、違う味がでるのよ」
ただ単に学生の演奏技術が低くて違う曲に聴こえるだけなんだろうと、彼は思った。
「一度見学に来てみてはどうです?」
「楽器をただで学べるってお得ですよ」
「音楽はストレス発散できるし、健康的です」
などなど、ありとあらゆる褒め言葉で彼を吹奏楽部に勧誘し始めるのだった。
毎日声をかけられるのは本当に面倒臭いので、彼は仕方なく入部届に「吹奏楽部」という文字を書いてしまうのだった。
そういえば、最近の彼の頭の中はつまらないという感情ではなく、面倒臭いという感覚に置き換わっている事にこの時気づいた。
何が変わったのだろう?
スティックをドラムの上に置いて、転がり落ちる落ちる音など気にせず、彼は部室を後にした。
呼び止められたくなくて走って駅まで向かい、取り敢えず目についた電車に飛び乗る。その電車が自宅とは逆方向に進んでいると気づいたのは二つ目の駅に到着したときだった。
電車を降りてホームを移動している時、耳の奥でずっと鳴り止まないスネアドラムとピアノが繰り返し再生されている。
「イヤホンもしてないのに、耳に音楽が残ってる」
誰もいない田舎のプラットホームで男の名前をケータイで検索してみた。
シラハというあの男らしきピアニストは見つけられたが、有名とい訳では無さそうだ。
「ウィキペディアもないし、普通の人か」
主に作曲、編曲などをしているらしい。昔の地方での小さなコンサートでピアノを弾いてたという記事は見つけたが、それ以外の検索は出てこなかった。
「そういえば、アメリカがヨーロッパで戦争したのはいつだったっけ」
なんでも教えてくれる電話は、第二次世界大戦と答えた。
「揶揄われた」
見た目30代か40代前半の男性が第二次世界大戦を体験している訳がない。あの話は嘘で作り話だった。
落胆した気持ちと少しの怒りを抱えて、再び電車に乗り込んだ。
「明日からゴールデンウィーク、暇だな」
いつもより遅い帰宅に母は心配そうな顔をしていたが何も言ってこなかった。
テレビを聞き流しながら携帯電話を触っていても、家庭用ゲームをしていても、耳に入ってくるいろんな音楽が気になってしまう。
ドラムやピアノを聞き分けようとしたり、刻まれているリズムを追いかけてみたりと、何故かゲームが昨日より面白くなくなった。
夕食前に父が帰ってきて、彼が座っているソファの前で立ち止まると急に頭を抱えて悩み始める。
「お父さん、急に何?」
「ええっと、今思い出しそうなんだ。ほらアレだアレ。母さん何ていう題名だったかな?」
調理中の母の背中も確かに何かを考えているような雰囲気で、「あと少しでタイトルが出てきそうなの」とどこか楽しそうだ。
「二人とも何の話をしてるんだよ」
「お前のさっきの鼻歌の名前だよ」
「鼻歌?」
「あんた、帰ってきてからずっとその鼻歌を歌ってるの、気づいていなかったの?」
彼は帰宅してから鼻歌を歌っていたらしく、彼自信その事には全く気付いていなかった。
もしかして電車の中でも歌っていたらと思うと、急に冷や汗が噴き出てきてしまう。ソファにじっと座っていられなくなって自室に逃げ込もうした時、父が大きな声を出した。
「What a wonderful worldだ!」
そして何かをまた思い出したらしく、今度は階段下の収納庫を漁り始めるのだ。
母は散らかさないでと文句を言っているが、父はそんな声も笑って誤魔化してドンドンと収納品を廊下に放り出していく。
「あった!捨ててなくて良かった」
父が髪をボサボサにしながら発掘したのは、レコードの入った段ボール箱だった。
「お父さんね、明日翔が生まれる前からレコードが趣味だったのよ。懐かしいわ」
母も一緒になって段ボールを開けてレコードを取り出して懐かしそうに中身を取り出している。
「レコードって結構大きいんだな」
「ほら、あったわよ。サッチモのレコード」
「サッチモってなに?」
彼のこの発言は父をガッカリさせるものだったようで、「最近の子は知らないのか」と肩を落とし声のトーンも少し低くなる。
そして落ち込んでいた父が再びテンションを上げたのは、レコードを再生させる機械が見つかった時だった。
「そういえば、明日翔はレコードが好きだったわ」
母がそう言った時、彼はあのピアニストが弾いた音楽が懐かしいと感じた理由が分かったような気がした。
「お父さん、レコード貸して」
「いいぞ。よし、針の落とし方教えてやるよ」
「針って何?」
彼の部屋にレコードを持ち込み、夕食など忘れてレコードをかけ、父の昔話や音楽の話に耳を傾けた。
懐かしいと思える音楽が家中に流れて、変わり映えしない日常のはずが、今日だけは不思議といつもと違う時間が動いていた。