哀の剣と愛の盾
瞬時に転移した二人は台座の上にいた。しかしその台座は無数の大型犬に囲まれている。いや通常の犬ではない。口元から炎の息吹が漏れる犬が通常の犬のはずがない。
「これは困りましたね」
呑気な声でイアールは周囲を見回していた。シェラザードは辺りを徘徊する大型犬の群れに気が気でない。
「少し待っていて下さい。掃除します」
彼はそう告げて彼女を台座の上に置いたまま、犬の群れに飛び込んでゆく。
「イアール……!」
止める間もなかった。彼が杖を翳すと犬の群れが見えない手で集められるかのように部屋の片隅に集められ、そのまま圧縮されて消え去る。
「さあ、もう大丈夫ですよ」
優しく微笑みかけて来る彼は、シェラザードの手を取って台座から降ろす。彼女にとっては半日前に訪れた部屋だが、その大きな変貌ぶりに面食らってもいた。
「どうして大型犬が?」
「シェラにとっては少し前でしょうが、城の時間で一年、地上では十年が経過しています」
「十年!」
時の流れる速さが異なるとは彼女の予想外だった。
「十年も放置すれば、こういう事態も予測できました。問題は我々の先祖が残した装置が無事かどうかです」
イアールは呟きつつも、シェラザードの左手を握る。
「さあ、参りましょう」
夫の微笑みに、彼女の鼓動は高鳴る。真剣な表情も魅力的だが、シェラザードにとっては彼の微笑みが向けられる存在でいられるのが至福だった。彼女が皇妹として教育されたのは、臣民の母であり、姉妹であり、伴侶である存在として生きることだった。人が笑えるのは幸せな時だけと言い聞かせられた日々。
「少し、身体を動かしますか?」
廊下に出ると、無数の魔物が徘徊している。魔物というよりも巨大化した野生動物のようだ。思索を打ち切って、彼女は剣を抜く。
「わたくし、剣技には心得がありましたけれど、今は無力感に打ちのめされております」
「シェラの剣技はここでなら存分に発揮できますよ」
イアールは微笑む。その優しさを信じて、彼女は剣を構えた。巨大なネズミが彼女に向けて一直線に走り寄って来る。呼吸を整えて彼女は構えていた剣を突き出した。しかしネズミは跳び上がって避ける。すかさず彼女は肘を曲げて剣を上に振り抜きつつ後退した。
「お見事です」
突き出した切っ先を振り上げるのは、諸刃になっている剣の基本的な技術だ。
「後で私にも教えて下さい」
「あなたの剣技ならば、このような相手、ものの数にも入らないでしょう?」
「私の剣技は何も改良されていなくて、ほとんどの技に対策が存在します。先程の勝利は剣の特性があればこそで、私個人の技量ではシェラを守ることすらできません」
彼の言い分に、シェラザードは目をパチクリさせた。
「それに、魔法の補助も使っているのですよ。できることは全てやって、それであの程度ですから」
「あなたは謙虚過ぎます」
イアールの言い方は他人を傷付けるだけだろう。総合力で勝る彼に、一分野の突出では追い付けそうにないのだから。
「ついて来て下さい」
イアールに促されて、二人は互いに武器を構えると、迫る魔物を斬り伏せる。彼は時折、見えない刃を飛ばして魔物を切り刻むが、それは魔法の力のようだ。暫く進んで、彼は通路の途中にある扉を開いた。慎重に中を確認してから、彼女を伴って入室する。
「ここまで来れば、ひとまず安心です」
室内は広く、部屋の隅に寝台が一つ、中央には食卓と椅子しかない殺風景な部屋だ。彼に促されて、シェラザードは椅子に腰掛けた。
「こちらをどうぞ」
イアールが白い茶碗に赤い液体を満たして差し出す。馥郁とした香りは彼女の気持ちを解した。
「随分と上等なお茶ですわね」
およそ部屋の様相に似つかわしくない代物だ。
「休憩ぐらいは優雅でいたいですからね」
そう言って微笑む彼の手にも、いつの間にか同じように白い茶碗が持たれていた。




