邂逅
その頃、地上では一人の女性が目を覚ました。彼女の傍らには愛する男性が未だに眠っている。昨夜の出来事に思いを馳せながら、彼女はこれ以上にはないぐらいの微笑みを浮かべた。
「イアール様、わたくしは、貴方様と共にどこまでも参ります」
そっと彼に抱きつく。程なくして男性が目を覚ました。
「シェラ?」
呼び掛けた彼の唇を自ら塞ぐ。
「……、責任はとって下さいね?」
「ええ、分かっていますよ」
イアールは優しく微笑み、大きく頷いた。それから身体を起こし、身なりを整え始める。
「ところでシェラ、旅の準備をしなければなりません。急に出て来たのですから、必要な物があるでしょう?」
イアールは身一つで連れ出して来た彼女に問い掛けた。振り返った彼に、シェラザードは微笑み掛ける。
「貴方様以外に必要なものなどありません。……と、言いたい所なのですけれども、確かに必要な物も幾つか有ります」
「憚りなく、言って下さい」
優しい瞳で見詰められて、彼女は大きく頷いた。
「部屋に、服などの身の回りの小物を取りに行きたいのです。警備が強化されているかもしれませんけれども、どうしても手元に置きたい品もありますし……」
「分かりました。それでは今宵、一度だけ部屋に戻りましょう」
声のトーンが沈みがちになる彼女を励ますように、イアールは努めて明るく言ってのける。明るい表情になりながら、彼女は頭を下げた。
「イアール様、無理を申し上げて、すみません」
「良いのです。貴女に必要ならば、私にも必要でしょう。さあ、顔を上げて」
彼女の顔を上げさせると、彼は優しく口付けした。そして微笑み掛ける。
「これからは二人で物事に対処しなければなりません。言いたい事柄や、聞きたい事柄は、その都度、尋ねて下さい。よろしいですね?」
「はい、イアール様」
大きく頷いた彼女に、彼は一つだけ注文をつける。
「シェラ、『様』はもう要りません。これからは夫婦として、対等の立場で話さなければならないのですから」
「分かりました。以後、気を付けます」
シェラザードは彼の言葉をもっともだと感じた。口調などは致し方ないとしても、呼び方は変えられる。彼女は彼の気遣いに、感謝した。
「ありがとうございます、イアール」
「それでは、朝食の準備をしましょう」
彼の言葉に、彼女は今更ながらに空腹を覚えた。彼女の見ている前で、イアールは調理を始める。と思いきや、彼はテーブルの上に皿を並べ始めた。その皿には何も盛り付けされていない。彼はその空っぽの皿をテーブル上に並べ終えると、彼女に向けて微笑み掛けた。
「驚かないで下さいよ」
一言彼はそう告げて、指を鳴らした。次の瞬間、皿の上にはサラダやサンドウィッチなどが盛り付けられている。あまりの事態に彼女は目を丸くして言葉を言い出せない。
「さあ、こちらへ」
呆然と寝台の上に座っていた彼女の手を、イアールが取る。それで我に返ったシェラザードは慌てたように立ち上がり、彼にひかれて椅子に腰掛けた。
「これは、どうして……?」
「貴女には、私の正体を明しておきましょう」
彼女の問いに、イアールは神妙な面持ちで語り始めた。
「私は見ての通り、地上では失われた秘法を操ります。最初に申し上げた通り、私は人ではありません」
彼の外見は、どこからどう見ても人以外には見えない。彼女は小首を傾げた。
「貴女方が言うところの、魔物と同列ですよ」
「そのような……!」
シェラザードは驚きのあまり絶句する。自らを魔物と同列に扱うなど、一夜を共にした後で言われても信じ難い。
「貴方様は人です。わたくしは、この心と……身体で、そう感じました。例え、他人と違う行動をとられたとしても、それだけで決めつけられるものでは……」
「シェラ、やはり貴女は純粋な方だ。この地上では珍しい。私も貴女に出会っていなければ、心が荒んでいたでしょう。貴女には感謝しています」
「イアール、冗談は止めて下さい。わたくしは貴方様を、愛してしまっているのですから」
彼女の口調は哀しみを帯びたものになっていた。けれども彼はそのような彼女に対して、思いやりの欠片も感じさせないように言葉を連ねる。
「愛している……。私には、最も遠い言葉です。シェラ、愛とは何でしょうか?」
「それは……!」
あまりの言葉に彼女は絶句した。余りにも、余りにも彼が遠い存在に感じてしまったのだ。
「それを教えてくれませんか? 貴女となら、その答えが導き出せそうです」
「イアール……」
優しい微笑みに、彼女の目尻からは熱い滴が零れ落ちた。止めどなく流れるその滴に、イアールは慌てたように腰を浮かせる。
「どうしました?」
慌てる彼に、彼女は答えた。
「嬉しいのです。貴方様がわたくしと共にこれからを過ごして頂けるのだと思うと……」
目尻を拭いながら、努めて微笑む。その微笑みを受けて、イアールは浮かせた腰を椅子へ戻した。
「これからは、何があろうとも共に過ごしましょう」
「はい、わたくしは全てを貴方様に託します」
頷いた彼女の瞳には、強い意志の光が宿っていた。




