手鏡の行方
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「さ、戻りますわよ」
柔らかな手で肩を叩かれて、彼は目蓋を開く。既にイアールの姿はなかった。
「彼は?」
「あの方は後片付けに追われています。わたくしたちは早々に王宮へ戻りましょう」
来た時と同じように、シェラが先頭に立って歩みを進める。王宮に戻った二人は誰にも見咎められずに、それぞれの部屋へと戻って行った。
「イアール様……」
シェラは私室に戻ると、つい今し方逢って来たばかりの男性を思い返した。はっきり言って、彼の正体も知らなければ、その本名さえも知らない。イアールとは彼が最初に名乗ろうとした名前ではなかったし、どこか愛称めいている。それに彼は、イア・ルーセスと名乗っていた。イアールと言うのは、この名の短縮形だったのだろう。
「わたくしも、本名を名乗っておりませんわ……」
彼女自身も本来の名前ではなく、シェラザードと偽名を使った。今でも彼はその名を呼ぶ。あの若い騎士は気付いただろうか、彼女たちが互いの本名も正体も知らずにいることを。
「いいえ、それは大丈夫。それよりも、早い機会に手鏡をそれとなく戻しておかなければなりませんわ」
彼女は先程、イアールから手鏡を返して貰っていた。これを王宮内のどこかに、さり気なく置かなければならない。
「どこが、よろしいかしら?」
少し思案を巡らせてから、彼女は打ってつけの場所を思い付く。
「それがよろしいですわ」
彼女は早速、その場所に手鏡を置きに行った。
一方、騎士の控え室に戻ったオースティンも、イアールについて考えていた。
「一体、何者なのだ?」
皇女を救ったのは紛れもない事実としても、その胡散臭さは拭い切れない。三十人もいた山賊をたったの一人で、しかも無傷で壊滅させるなど、どのような剣士でも無理だ。騎士団ですらも手を焼いていたのだから、尚更その思いは強い。
「もしや、山賊と手を組んで……?」
皇女を騙し、連れ去ろうと目論んでいるのか。それにしては手が込み入り過ぎている。山賊は一旦は彼女を捕える寸前にまで迫っていたのだから、それはないだろう。
「では、何を目的に、奴は殿下に近づいたのだ?」
考えても答えは出ない。そもそも、イアールには彼女に近づく目的があった訳ではなく、偶然に出会っただけなのであるから、その目的を探ろうとしても答えは導かれるはずはない。その事実に彼は気付けなかった。
「それに、どのような方法を使って、殿下を惑わせているのだ?」
彼女がこれまで如何なる男性とも積極的には会おうとしなかった事実と照らし合わせる時、今回のイアールが如何に彼女の心を捕えて離さないかが、彼ならずとも分かった。そのような状態にまで持ち込んだのは、彼の何に彼女が惹かれたのかが問題になる。けれども、どんなに考えても彼には思い当たる節が見つからない。剣技の冴えは確かに超一流だ。しかし、それは剣を持って初めて判明する事実で、外見からは全くそのような印象を抱かせない。
次回更新は5月18日です。




