上
上・中・下の3話連載でお送りしたいと思います。
「…おい、そこのネクタイこっちに投げてよこせよ」
化粧台の前で、ワイシャツを着ている男が私に命令する。
ベットに腰掛けながら、私は周りを見回した。
2、3回繰り返す。
「ちゃんとみろよ。そこだよ、そこ!」
「…そこってどこ」
「お前の足元だよ。ちゃんと見ろって」
足元に落ちている、グレーのネクタイをつかむ。
「早くこっちに投げろ。…あ、やっぱりいいや。お前が俺にネクタイつけろよ」
私は内心で、は?と。
「早くネクタイ見つけられなかった罰だよ。こっちにきて、ネクタイつけろ」
「あたし…ネクタイなんてつけたことないもん」
「あ?こんな仕事してるくせに、それくらいもできねぇのかよ。…ったく、やっぱこういう仕事してる奴ってバカなんだよな」
ネクタイを男に投げた。
…でも、本当は投げつけてやりたかったんだ。
「俺さ、帰んなきゃなんねぇんだから、早く着替えろよ。お前だけ置いてくわけにもいかねぇから」
「まだもらってない」
「あ?」
「まだもらってないから、着替えない」
「あー、金のこと?俺、今それどころじゃねぇんだよ。終電間に合わなかったら、またあいつの八つ当たりくらうんだって」
男は手早くネクタイを締めて行った。
これは相当急いでいる様子だ。
「奥さんと仲悪いの?」
「仲ぁ?…悪いんじゃねぇの。外から内からどうみても。この頃あいつ本当にイライラしてて。なんだっけ、ほら……あの、…あれだよ。あれ!」
髪型で若く見せようとしても、頭がついていかないらしい。
「…あ、育児ノイローゼ!あれだ、あれ。2人目産んでからイライラ、イライラって。いい迷惑だよ」
「2人も子ども居るんだぁ。けっこう年取ってから生まれたんだね」
「そーだよ」
「へぇー…」
実際、こんな親父の身内話はどうでもよかった。
わたしはお金をもらえればそれでいいから。
「ほら、やるよ」
男は札を投げてよこした。
カーペットに散乱した札を拾いに、ベットから降りる。
「やべっ。本当に終電いっちまう」
腕時計に目を落とし、急いで部屋から出て行った。
…なんだ。たった7000円か。
1人で1階ロビーへと降りていくと、受付にはぴったりと寄り添いながらコースを決めているカップルの姿があった。
…そう言えば、あの女は昨日も池袋のホテルでみたなぁ。
そのままホテルを出ようとすると、店員に声をかけられた。
「お客様!料金が未払いですっ」
…あの男。金も払わないででていったのか。
「5000円になります」
7000−5000=2000。
『2000円の女』か。
料金を払い、お釣りの2000円をくしゃくしゃにしてポケットに押し込んだ。
外に出ると、どこかの会社の上司と部下。キャバ嬢に誘われている親父。ホストと一夜の夢をともにしている人妻。みんながそれぞれの事情を抱えて、ひしめき合っていた。
こんな世界、やめてやる。なんどそう思っただろう。
金を稼ぐために、少し足を浸しただけだった。
でも、底はそんなに浅くなかった。みるみるうちに呑まれていく。
「酸いも甘いも楽しませてくれる場所なんだよ。ここは」いつか私にそう言った男がいた。
「甘いなんてないじゃん。本当は、酸いばっかじゃん」私はその時そう思った。
でも、現実はあながち嘘じゃなかった。ただ唯一間違っている場所はある。
『酸いも甘いも楽しませる場所』って言うのが本当。
でも、そんな場所とももうお別れ。
やっとお金がたまったんだ。しかも、ちょうど肌寒いこの季節に。
ただ少し悔いが残るのは、最後の相手があんな最低な男だったってこと。
明日の朝、私は旅立つ。憧れのあの場所へ。