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姫と御曹司

紳士でいたい御曹司の悩み

作者: あやぺん

悩みという名の自問自答と煩悩

やまなしオチなしです

 目を通すべき書類、修正案の考案、それからもう一つするべきことがある。


「ああ、また……」


 悩ましい吐息のような声に、耳がつい反応してしまう。一刻も早く仕事を終わらせて、婚約者である彼女との時間を作りたい。


 ソファに座り、上着のボタンをつけようとしてくれている彼女。しかし、彼女は相当不器用なようで、23分もの間針に糸が通せていない。


 ああ、もう、んっ……というような何とも誘うような声を出して、針糸と遊んでいる。チラチラと見てしまうのは、はっきり言って可愛いから。不器用過ぎて面白いのもあるが、仕草や表情が実に愛くるしい。真正面で眺めたい。お陰で、気になって気になって仕方がなくて仕事の効率が下がっている。


 まだ婚約の身。決して手を出してはならない。しかし、婚約者なので仕事を理由に蔑ろにしてはいけない。自分なりの妥協案は同じ部屋にいること。仕事を早く切り上げて、歓談をしたい。自分の為であるが、のんびり雑談する時間を作れば彼女も喜んでくれるだろう。思ったより仕事が多くて、歓談にまで辿り着けていない。


 仕事にかまけて放置は良くない。一旦休憩して、彼女との時間を作ろう。


 余裕な態度を見せたいので、グッと背伸びをして、ゆっくりと深呼吸。ニヤニヤ笑いではない笑顔を作り、彼女の方へと顔を向けた。


「ひと段落ついたのですが、そちらはどうです?」


「滞りありません」


「そうですか」


 キリッとした表情で、任せて下さいと言わんばかり。おかしくて噴き出しそうになり、唇を結ぶ。目頭に力も入れる。微笑もうにも、そんなことをする余裕はない。


 それにしても、見ていて飽きない可愛い婚約者を放置して仕事なんて、馬鹿か? キラキラと光る触り心地良さそうな金髪を指で弄りたい。瑞々しい肌や唇にも触れたい。引力の強い空色の瞳に、自分の姿だけを映したい。しかし、働かないと地位を失う。彼女と会うまで仕事が生き甲斐で、今も趣味と言えば仕事なので、絶対に疎かにしたくない。婚約期間が終わり婚姻が無事に済めば夫婦。やはり地位を失えば共倒れ。それは却下。彼女に誘惑されている場合ではない。理性を動員して、仕事に励むべき。


 しかし女性は蔑ろにすると逃げる。捨てられる。今まで仕事が最優先だったので、気にしたことが無かったが、彼女は別。仕事と横並びなので、捨てられでもしたら……想像したら気分不快極まりないので止めた。彼女を大事にすれば良いだけの話。よし、5分休憩をしてからまた働こう。


 立ち上がり、手に書類の束を持って彼女に近寄る。


「指摘事項を修正しました。後で確認してもらえます?」


 彼女の国の新法案に関する書類。共に似たような立場で、同じ方向を見ているので惹かれ合った。祖国には兄弟姉妹がいるので、婿入り予定。政治手腕に長け、聡明なのも彼女の良いところ。


「いえ、今すぐ内容を確認します」


 双肩に国を乗せる者。彼女は一気にそういう表情に様変わり。先程までの、不器用で可愛い姿は幻のように消えてしまった。これだと、5分休憩ではなく彼女との仕事が始まってしまう。


 彼女とボタンの格闘は、自分が書類に目を通す間「休んで紅茶でも飲んでいてください」そう話したところから始まった。自信満々でやる気に満ちていたので頼んだが、まさか針糸と戯れる時間がこんなに長いとは思ってもいなかった。


「先にしていた仕事がありますよね? 片付けてからでお願いします。このままだと、みっともなくて部屋から出られません」


 机に置いてある上着を手で示す。彼女からそっと書類を奪った。挑発したので、負けず嫌いの彼女ならボタン付けに取り掛かるだろう。休憩の5分間、彼女を眺めて楽しみたい。


 しかし、と思い至る。ソファに横並びになって隣から彼女を眺めたら、手を出す自信がある。「ああん、もうっ」という誘い声に近い、針に対する文句は心臓に悪い。適切な距離というものは大切。今、近寄っただけで甘い香りに誘われそうになった。ソファという場所も良くない。彼女は小柄。どちらかというと大きなソファなので、トンッと押して寝かせられる。


 あたふたする彼女を想像したら、からかいたくて堪らなくなった。これは危険。遠ざかるべき。しっかりと距離を保つべきだ。


「そうですね。分かりました」


 彼女の張り切った声に背を向けて、座っていた椅子に戻った。鞄から書類を出す。


「自分で申し出たのに、あれなのですが……」


 彼女に声を掛けられて、背筋がピンと伸びた。振り返ると、申し訳なさそうな顔をしている彼女。こう、頼られると嬉しくて仕方がない。大丈夫、が彼女の口癖。


「いつそう言いだすのかと待っていました」


 邪な気持ちを制御しようと思ったのに、つい彼女の横に移動していた。ボタン付けという責務があるので、自制心がきちんと機能する。針と糸を受け取ろうと手を差し出すと、彼女も動きで応えた。


 以心伝心とはまさにこの——……


「っ痛」


「まあ! すみません」


 勢いなのか、タイミングなのか、手の甲に針を刺された。一瞬、先程ソファに押し倒してからかいたいと思ったのを見抜かれたのかと慄いた。


 戸惑う彼女の手が宙を彷徨う。おいおい待ってくれ!


 どういう動きをしたら、いや見ていたけれど分からない。何故か彼女の手は本人の指を針で刺しそうだった。間一髪。彼女の手首を掴んで止められたのでホッとした。


「今度は自分の指を襲うとは、危なっかしい」


 様子を確認して、本当に針が彼女に刺さっていなくて安心した。距離が近いので、目が合った瞬間に思わず距離を縮めたくなる。逆に彼女は、頬を赤らめて視線をずらし、こちらから離れていった。残念だが、この照れているような姿は、良い。とても良い。


「あの、本当にすみませんでした。それに、ありがとうございます」


「こちらの注意不足のせいです。君が怪我をしなくて良かった。気をつけてください」


「はい。次は気をつけます」


 ふわっと、花が咲くみたいに柔らかい邪気のない笑顔を向けられた。そっと彼女の手首を離す。不埒な思考で悶々としていた自分が恥ずかしい。裁縫箱に手を伸ばして、落ち着けと自分に言い聞かせる。


糸通し器(スレダー)があると楽なんですがこの裁縫道具箱には見当たらないですね」


 それなら別の方法か。昔、髪を使って針に糸を通す方法を習ったことがある。正確には姉が教わっているのを、近くで聞いていてが正しい。


 髪か、とつい彼女の髪に手を伸ばしていた。艶やかで香りも良い長いサラサラとした髪。想像通り、触り心地が良い。指でくるくるして遊ぼうか、そう考えた時に彼女の怪訝そうな視線に気がついた。慌てて手を離す。


「昔、教わった方法があります。試してみます?」


 そもそも、彼女の髪を抜く訳にはいかない。とりあえず自分の髪の毛を引っこ抜く。


 彼女から針をそっと奪う。抜いた髪の毛を穴に通し、その髪先をまた針に通す。


「この輪になったところに糸を通して、引っ張るんです。糸より細いから簡単ですよ」


 こんな程度だが、共同作業も楽しいかもしれない。彼女を促して、糸を通してもらう。輪になった髪の毛の所に、彼女が糸を入れるたの髪の毛をゆっくりと引いた。輪が小さくなり、糸ごと針の穴を通っていく。


 楽しそうに輝いた空を閉じ込めた瞳。煌めいて揺れるその瞳に目を奪われた。こんな小さなことなのに尊敬してますという視線を向けられて軽い目眩。


「もっと早く助けてもらうべきでした。時間を無駄にしてしまいました。ありがとうございます」


 時間を無駄にした? そうだ、それは自分のせいだ。針糸との格闘が可愛いからと放置し、漏れ出る何だか甘く感じられる声も聞きたくて放置し、向こうから頼られたいなと放置した。


「そうだ。無駄にさせてしまった。針糸と戯れている姿が可愛いので、つい放置してしまった。すまない」


 無意識に彼女の腕を撫でていた。妹に対する仕草がつい出た。滑らかで少ししっとりしていて、モチモチで、ずっと触っていたい。それに彼女が自分が触ったことで微かに赤くなったので、もっと染めたくなる。腕から頬へ手を移した。彼女の白い肌が桃色から紅へと変化する。


「あ、あの……」


「呼んでくれれば助けるのに。やる気を無下にしたくない。手伝うと言ったら機嫌を損ねるか? そんな事を考えていたから、ちっとも仕事が捗らなかった。お互い不利益だったようなので、次から気をつけます」


 体を少し反らした彼女。眉尻を下げて、赤い顔で少し震えられたので、しまったと距離を離した。手も引っ込める。


「すみません。つい。ああ、今度は自分一人で糸を通してみます? 何でもそうですけど、最初から上手く出来る人の方が少ない。君には機会や、教えてくれる人がいなかっただけ。すぐに上達しますよ」


 まだ婚約中なので手を出してはいけない。それは結婚式の後。危ない。下手したら紳士ではないと嫌われる所だった。


 針に手を伸ばしたら、彼女の細くてスラリとした指にシャツを摘まれた。次は引っ張られる。彼女の手が自分の手首をそっと掴んだ。赤い顔に上目遣い。


 これは……破壊力抜群。


「嫌がられた。そう思ったんですが勘違いなようで良かった。続けて欲しいとねだっているように見えるんですが、良いです?」


 返事が無いのに、彼女の頬にまた触れた。指を這わせると身を捩るのが楽しい。可愛い。もっと遊びたくなる。次は何処を触ろう。胸は却下。断固拒否。絶対に理性が破裂する。足も、そのまま手が上に登って行きそうなので駄目。細い腰も怪しい。少し手を下げたくなる。今の位置でいるべきだ。首くらい良いか?


 不意に彼女に頭突きされた。予想外の行動に、一気に我に返る。


「ず、頭突きとは勇ましい……。少々自制心を失っていたので助かった。すみませんでした」


 ここまで強硬策でなくて、言葉で伝えてくれても良いのだがとも思ったが、悪いのは自分。


「ま、まさか! い、今のは事故です。抱きつこうかと思っ……」


 何だって⁉︎ 思わず顔がにやけた。気持ち悪いとか思われたらどうしよう。悩みだした時、彼女が目を瞑った。顔の角度は少し上。これは、つまり、そういうことだ。本当ならキスも御法度だが、以前我慢出来なくてしてしまっている。それからこの国と自分の常識の違いもある。婚約しているので、あまり手を出さないのは、良くないらしい。


「そんな風に誘われると困る。君を大切にしないとならない」


 人のいない庭園で立ってキスとか、そういう理性保てる場所ならいざ知らず、下はソファ。なので、彼女の唇にはそっと触れるだけにした。彼女の手が首に回る。悩ましい表情で、ソファに寝る彼女。それで体を引き寄せられた。これはもう、そういうことだ。


 据え膳食わねば逆に乙女に恥を——……。


 思いっきり抱き竦めて、深くキスしようと思った瞬間に床に突き落とされた。誘われたのではなく、拒否しようとしていたらしい。これは恥ずかしい。おまけに情けない。これでは全くもって紳士ではない。


「すまない。誘うではなく、嫌だったとは……。酷い勘違いをした」


 彼女を起こしてソファに座らせる。仕事放棄に次は発情。婚約破棄されたらどうしよう。一先ず頭を冷やすしかない。おまけに何が据え膳食わねばだ。相手をもっと観察するべき。自分の都合の良いように解釈してはならない。客観性と理性が大切。


 急いで部屋から出た。兎に角、冷静にならないといけない。


 城の廊下をとぼとぼ歩く。明日には婚約破棄か。下手したら今日にでも、かもしれない。短い幸せだった。浮かれていたが、そもそも彼女の気持ちを聞いたことはない。婚約も少々強引に、こちらから取り付けた。いいや、この間キスをした。はにかみ笑いをしていたので婚約破棄にはならない。先程のは「早いですよ」という意味だ。


 彼女に名前を呼ばれて振り返った。


 追いかけてくれたのか?


 瞬間、彼女はベタンッというように転んだ。まるで喜劇のワンシーンみたいに、勢い良く顔から床へ突っ込んでいった。


「もうっ! こんなことばかり! 上手く動けないなんてどうなっているの? 誤解されるし、みっともない姿も見られて……。甘えるはずが正反対……。折角、大好きな……」


 助け起こそうとしたら、ブスリと理性を突き刺す言葉が飛んできた。


 甘えたかったのかあ……。


 大好きなのかあ……。


 グラグラ揺れる理性と本能。何せもうこれ以上赤くならないだろうというくらい、彼女は真っ赤。恥ずかしそうにモジモジして、瞳はウルウル。そろそろと手を伸ばして、彼女を助け起こした。ニヤけるので反対側の手で口元を隠す。


「そ、その……嫌ではなく……むしろ逆で緊張やらで……」


 ブスリと追撃。これは特に理性を過剰に刺激するような内容ではない。形の良い唇から、また理性を攻撃されたら困る。彼女の唇に話すなというように、人差し指を沿わせた。ほら、騎士がいると目配せもする。まあ、建前。


 単に触りたかっただけである。


 それを隠すのに首を横に振り「喋らないで下さい」風にした。廊下の向こうに護衛の騎士がいるので、この可愛い彼女を隠したい。部屋に戻ろう。彼女と手を繋いで、さあ行きましょうとエスコートするべきだ。


 単に手を繋ぎたかっただけである。


「た、大切にしてくださるなら……離れるよりも、その、触れていただける方がとても嬉しいです……」


 強力な追撃。これは、つまり、あれだ。触らない方が乙女に恥をかかせるという意味。


 なら、部屋に帰ろう。


 よし、ソファで元の体勢に戻ろう。


 いや、いっそ先程の部屋から続いている寝室か?


 最後までは却下。婚姻前にそこまでするなんて、常識に反する。よって寝室は禁止。ならソファも禁止しないとならない。仕事の続きもある。5分休憩は過ぎた。5分追加しよう。そうだ、その時間ならやたらに彼女に触れなくて済む。


 その時間で彼女に触るならどこまでだ? 優しいと、大切にされていると思われたい。あと、今後の為に彼女の要求と自分の常識の違いを確認しないとならない。そんな無粋な質問をするのはどうかと思うな。しかし、文化が違うので歩み寄るべき。そういえば、そもそもこの人は男女の事をどこまで知っているんだ?


 触れていただける方が、の意味はキスだな。多分、そうだ。彼女は淑女なので真昼間から自分が考えているような事まで想像していない。それか、知らない。いや、身分や立場的に教養として教わっているか。自分もそうだ。


 待て、キスにも色々ある——……。


 5分だ5分。仕事がある。働いて彼女に楽をさせる。何なら彼女ごとこの国を背負う。しかし彼女も愛でないとならない。違った、大切にしないとならないだ。愛でたい、は自分の願望。


 理性、理性を呼び覚まさねば!


「あの? どうされました?」


 部屋に戻った時、彼女はキョトンとしていた。こちらの葛藤など何にも気がついていないというような、割と子供っぽい表情。


 お陰でかなり冷静になれた。



★☆


 彼はキッチリ5分、彼女との時間を楽しんで仕事に戻りました。


★☆


 

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