(-1)×(-1)=1ってどう証明するの?
本小説に登場するキャラクターは『道徳の解答の作り方 ー文芸部による攻略ー』の主人公の蒼井陸斗と、その妹の蒼井美月です。補足として、この2人は高校1年生と中学3年生です。
「(-1)×(-1)=1ってどう証明するの?」
妹から勉強の質問を受けていると、そんなことを訊かれた。
「そんなの入試に出るか?」
「いや、なんとなく気になったから」
気になったことを考えようとする姿勢はいいのだが、それを他者に丸投げするのはどうなんだろう。まぁ、別にいいけれど。
「その事実自体は中1で習うから、教科書に載ってるんじゃないか? 覚えてないけど」
「中1の教科書? どこやったっけな」
妹は勉強机の下にあった段ボールの中身を引っ掻き回し、中1の教科書を発掘した。
「あった、あった。えっとね」
それから2人して教科書を覗き込む。
『正負の数の掛け算を調べるために、東への移動を正の数で、西への移動を負の数で表すことにする。
東に向かって時速4kmで歩く速さは+4と表せ、現在より2時間後は+2と表せる。
すると、現在から2時間後の位置は、現在の位置から東へ8kmとなる。
これを式で表すと、
(+4)×(+2)=+8
現在より2時間前は-2と表せる。東に向かって時速4kmで歩き続けているとき、
現在より2時間前の位置は、現在の位置から西へ8kmとなる。
これを式で表すと、
(+4)×(-2)=-8
同様に考えると、
(+4)×(+2)=+8
(+4)×(+1)=+4
(+4)× 0 = 0
(+4)×( -1)=-4
(+4)×( -2)=-8
次に、西に向かって時速4kmで歩く速さは-4と表せる。東に向かって時速4kmで歩き続けているとき、
現在より2時間後の位置は、現在の位置から西へ8km、
現在より2時間前の位置は、現在の位置から東へ8kmとなる。
これをそれぞれ式で表すと、
(-4)×(+2)=-8
(-4)×( -2)=+8
同様に考えると、
(-4)×(+2)=-8
(-4)×(+1)=-4
(-4)× 0 =0
(-4)×( -1)=+4
(-4)×( -2)=+8
正負の数の乗法の計算は、次のようにまとめることができる。
1. 同符号の数では、絶対値の積に正の符号をつける。
2. 異符号の数では、絶対値の積に負の符号をつける。 』
これを読み、僕たち兄妹の間に少しばかりの沈黙が降りた。
「えっと、今更だけどさ」
そして沈黙を破った妹の一言は、
「中1のときって、証明をそもそも知らないから、教科書にも証明って形で載ってるわけないよね」
言われてみればその通りのことだった。にしても、これは、なんというか、色々解せない部分があるというか。小学校を卒業してすぐの中1への説明としてはこんな感じにならざるを得ないのかもしれないけれど、これで納得するのか?
「(-1)×(-1)=1を証明せよって問題でこれを書いたら、間違いなくバツだな」
「説明せよなら、ギリギリあり?」
「中1の答案なら、ありなんじゃないか、たぶん」
小学校とか中学校のときの教科書を今読み直したら、「は?」って思う解説も多いんだろうな。特に理系科目は。
「これが証明になってないのは私にもわかるけどさ、ちゃんと証明するなら、どうなるの?」
さて、その質問に対する解答を僕は知らない。一緒に考えてみるか。
「まず、それを証明するとして、使っていいものはなんだ? とりあえず、-1の定義は何か」
「-1の定義?」
「-1ってのがどういう風に特徴付けられるかってことなんだが」
ここで考えているのは、整数をどう構成するかではなく、整数全体があるとして、その中の-1の特徴付けだ。整数全体という集合の持つ性質は認めてやっていい。
「-1の特徴? えっと、1と足したら0?」
「そうだ」
妹が自信なさげに答えたので強く肯定する。
「-1の定義は、1+a=a+1=0となる整数a. これがwell-definedかなんだけど」
「待って、well-definedって何? よく定義されている?」
「この定義で、-1がただ1つに決まるかってこと。この性質を満たす整数が、-1以外にはないことを確認しないといけない」
そう言うと妹は納得したようで、「なるほど」と返した。
「でも、そんなのないよね。1+a=0なら、1を移行して、a=-1」
いわゆる逆元の一意性ってやつだが、その説明はマズい。
「その説明は説明になってない」
「なんでよ」
少し不満顔の妹に睨まれる。なぜ教えてやっているのにそんな顔をされなくてはならない。
「移行って、つまりは両辺に-1を足して1を消したんだろ? 今考えている状況では、両辺に足す-1なる数が1つに定まるのかがわかってない。a=-1ってなっても、右辺の-1がただ1つかわからない以上、aが1つとはわからない。つまり、お前の説明はなんの説明にもなってない。-1が一意的なら-1は一意的だって言っただけ」
「言われてみればそうかもだけど、じゃあ、どうやるの?」
ある程度は自分で考えさせたい。とは言っても、ヒントは出さないとか。
「同一法って知ってるか? 一意性の証明の定番なんだけど」
「知らない」
定番と言っても、中学で出てくる証明問題なんて、ほぼ自明な整数の性質か三角形の合同と相似くらいのもの。妹が知らないのも、普通か。
「一意性を示したい性質を持つものを2つの文字でおいて、それらが等しいことを示す方法。今の問題で言えば、1+a=0となるaと、1+b=0となるbを取ったとき、a=bを示せばいい」
「えっと、それなら、1+a=1+bになるから、両辺に-1を足し、あれ、それはダメなんだっけ?」
今回の場合ダメとは言わないまでも、混乱を避けるためにやめておこう。それに等号の性質であるところの
a=b⇒a+c=b+c
a=b⇒ac=bc ∧ ca=cb
は認めていいだろう。
「-1の代わりにaを足すとどうなる?」
「あぁ、1+a=0だもんね。というより、aが-1か。両辺にaを足せば、a=b」
「これで-1が一意的に定まることがわかった。つまり、-1の定義は、1と足して0になる整数ってことでいいことが確認できた」
「でもさ、それを定義にするなら、その中に出てくる1とか0についても、ちゃんと定義しないとダメだよね?」
なかなか鋭い。
「確かにその通りで、1と0の定義も考えないといけない」
「なんか、最初の問題からどんどん離れてる感じがするんだけど」
そう言われても、定義は大事だ。蔑ろにはできない。
「well-definedであることを暗黙に認めればいいんだけど、ちゃんと確認した方が勉強になるだろ。さて、1の定義はどうする?」
「1の定義。1の特徴。なんだろ。最小の自然数?」
それは確かに定義になるだろうが、ここでは使いづらい。
「別の何かないか? 演算に直接関係する定義がいい」
「演算? うーん……。あっ、かけ算で変わらない?」
なんかニュアンスが違う気もするが、まぁそれだ。乗法に関する単位元。
「そう。すべての整数nに対して、n×a=a×n=nたるaを1とする」
「またよく定義されてるかを確認するんでしょ? すべての整数nに対して、n×a=a×n=nたるaとn×b=b×n=nたるbを取って、a=bを示すんだよね。えっと、n×a=n×bになるから、両辺をnで割ればOK?」
それはいいのだろうか。今考えているnは整数なのだから、有理数という外部の構造を考えれば割り算もできる。しかし、それを使うのは、いや、間違っていないことを否定するべきではない。
「それでOKだと思う」
そう答えつつも頭では考える。有理数という外部構造を考えないのなら、
a=a×b=b これだけか。大したことでもなかった。
「0の定義も同じようなものだよね。すべての整数nに対して、n+a=a+n=nたるaを0とする。で、定義されてるかの確認は、n+a=n+bになるから、両辺からnを引いて、a=b」
ちょっとテキトーな感じはあるが、それでいいか。
「それでいいと思う。さて、定義の確認が終わったところで、本題に戻ろうか。(-1)×(-1)=1の証明」
ここまで定義を確認したことで、僕には方針が浮かんでいる。さて、妹はどうかと顔をうかがうと、
「もうなんかお腹いっぱい感ある」
既に疲れていらっしゃった。中学生だと、普段定義をしっかりと意識することがあまりないのだろう。
「ちょっと休憩するか?」
「うん。チョコ食べよ」
そういうと妹は台所へと向かっていった。僕は腕を大きく上げて伸びをした。
*
「さて、再開するか」
「はーい」
チョコ食べてご満悦の妹に再開を促す。板チョコ1枚をペロッと食べたな、こいつ。
「目標は(-1)×(-1)=1. さて、どうする?」
「私ね、チョコ食べたら閃いたよ。1+(-1)=0の両辺に(-1)を掛けるの。そしたら、(-1)+(-1)×(-1)=0になって、両辺に1を足せば、(-1)×(-1)=1になる!」
妹はどうだと言わんばかりのドヤ顔。まぁ、その説明で大まかにはいいのだが、その顔を見るとなんとなく部長を思い出して茶々を入れたくなる。
「0×(-1)=0になるのはなんでだ?」
そう訊くと妹はポカンとした顔をした。
「え? そんなの当たり前、だって、0を掛けたらなんでも0」
「だから、それはなんでだ?」
「……なんでだろ?」
妹はフリーズしてしまった。さて、どう動かしたものか。
「証明すべきは、すべての整数nに対して、n×0=0×n=0. さて、どう示す?」
妹は「うー」と唸りながらノートを見つめる。
「……もう1枚チョコ食べよっかな」
「さすがにやめとけ」
勉強する時、僕は飴を舐め、妹はチョコを食べる。僕も糖分を過剰摂取しがちだし、妹の気持ちもわかるのだが、さすがに短時間に板チョコ2枚は食べ過ぎだ。
「ヒント、0=0+0」
そう言うと妹はすぐに閃いたようで手を動かす。
「n×0=n×(0+0)=n×0+n×0で、両辺からn×0を引いて、n×0=0」
「OK」
「これで晴れて(-1)×(-1)=1が証明できたわけだ。まとめて書くとこんな感じ?」
そう言って、妹はノートをこちらに見せた。
『(-1)×(-1)=1の証明
定義の確認
-1: 1+a=a+1=0となるa
1: すべての整数nに対して、n×b=b×n=nとなるb
0: すべての整数nに対して、n+c=c+n=nとなるc
証明)
1+(-1)=0 の両辺に(-1)を掛けて、
(-1)×1+(-1)×(-1)=(-1)×0
ここで(-1)×0=0である
∵)(-1)×0=(-1)×(0+0)=(-1)×0+(-1)×0
両辺から(-1)×0を引いて、
0=(-1)×0 /
よって、
(-1)+(-1)×(-1)=0
両辺に1を加えて、
(-1)×(-1)=1 //』
読んで、一応の納得をしてノートを妹へと返す。
「いいんじゃないか。証明終了。これで、後は結合法則から、-1以外でもマイナス掛けるマイナスがプラスになるのもわかる」
妹は頷いてから、ふと思い出しかのように口を開く。
「でさ、これが中学1年の教科書に載ってたら、1年生わかるかな?」
妹は先程の教科書を開いてそう訊いた。中3の妹ですらチョコを2枚も欲したこの話を、中1が理解するのはなかなか難しいかもしれない。
「たぶん、難しい」
「私たちさ、さっき教科書読んで、これはどうなのって思ったでしょ。でもさ」
「ああ。中1向けの解説なら、あれでいい気がしてきた」
小学校や中学校、高校の教科書だって、厳密な議論をすれば間違いだらけだろう。だが、児童や生徒の理解を考えると、それはある意味で仕方がないのかもしれない。極端な言い方をしてしまえば、嘘を教えるのも仕方がない、か。
「なんかさ、こういうの結構あるよね。習ったときにはちゃんとした説明はわからなくて、後になってわかるやつ。分数の割り算とか、三角形の内角の和とか。私、未だに円の面積の公式はわかんない」
「高校に入ってもそういうのは結構ある。暗黙の了解のうちに認めるみたいなの」
そう言いつつも、今回の話だって暗黙に認めたことも多い。厳密に厳密にを繰り返すと、公理まで戻って話をしなくてはならない。それは少なくとも高校では無理だ。
「仕方ないって思うんだけど、なんか釈然としないよね」
「確かに。できることなら、全部ちゃんと理解したいけど、難しいんだよな」
「ねー」
まぁ、僕たち兄妹が数学の教科書のあり方なんて考えても仕方がないわけで、この話はなんとなく頷き合うことで終わるのだった。
教科書って、正確さとわかりやすさの絶妙なバランスを取っていると思います。