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待ち人、ふたり。

作者: 靄霧霞

 

 

 

「私、もう出られないの。――あなたは?」

 囁くようにそう言った彼女は、まるで路端で干からびた自転車のようだった。





  待ち人、ふたり。 ~ Yoinara-san and Who-san.





 昨日はしんしんと雪が降っていた。その細やかなものは、土に塗れた固い雪の上に積もっている。どちらも雪だ。

 俺は柔らかな上の雪を両手で掬い、流氷がゆく下の川へと舞い散らせる。

「あわれね」

「……どこが?」

「風情のない人だこと」

「なに言ってんだ、お前ェ」

 そもそも女が喋っているのは日本語だったのかどうか、いまでもわからない。

 なぜか意思疎通はできて、でも通じ合えているとは言い難い。

 それが、その女との関係で、最後までほとんど変わることもなかった。


 出庭県は灰吹温泉の花降屋。サバ読みで三百年ほどの老舗。雪崩で郷すべてが潰されたこともあったのだが、その前後もきっちり営業を続けた、気合いの入っている宿である。

 ふらふらと二輪車で右往左往していた冬、気が付けばそこに行き着いていた。

 『一晩限り』。そんな考えはあっさりと崩れ、俺は長逗留を決め込んでいる。

「あれまぁ、呪いでもないのに、本日もお泊りでござんす?」

「ええ、そうなんです」

 お喋りな旅館の仲居すら軽く閉口するありさま。それを見てか、くすくすと笑う脇にいた女。

「いいの?」

「よくもわるくも」

「あなたも出られないのかしら」

「俺も?」

 それがそいつとの出会い。

 頑なに、というほどでなくとも、喋るつもりがないという程度の理由で、女は名前を言わない。そのせいで、『あんた』とか『そいつ』とか、どうにもぶっきらぼうな感じになってしまう。

 オフシーズンだからか他の理由か、ともかく客の入りが少なくて、俺は宿の中でも広々とした尾花の間に泊まっている。そうさな、詰めれば九人は寝泊まりできるであろう広さだ。そのうちの最も広い部屋で、その女はくつろいでいる。

「今日も、雪の降る」

「そりゃあ降るだろうよ。こんな山奥だ」

 電球の光に照らされた女の肌は、なお白い。皮膚の下に雪や雲でも詰まっているのかもしれない。

「あんたも、長逗留か?」

「出られないから」

「よくわからねェな。乗り合いバスだって出てる、タクシーだって呼べるだろう」

 振り向かない女は窓の外をつまらなそうに見ている。あるいは鏡のように映る自分の姿を。

「約束。……約束したの。ここで、男と」

「だったらしっかり待ってろよ」

「いいえ。いいの」

 よかねェだろ、そう言おうとした俺を女の動きが制す。振り向いていた女が俺をじっと見ていた。

 顔を動かして視線を外す。

 女のそれはやけに熱い瞳だった。凍傷でもしそうなほどの。

「灰吹の赤負川はね、東から西に流れてる。川に沿って旅館が並ぶ。だから、この温泉郷には東口と西口がある」

 北と南は山肌と木々だ。この温泉郷に入るには東からか西からか、そのどちらかしかない。

「私ね。東から出たら西口に着くの。西から出たら東口。……おかしいわ。どうしても出られないの」

 そっとした。

 声音も振る舞いもまともなもので、しかも女は微笑んでいたというのに。

 女のそのさまを見た俺の背中は、感冒にでもかかったように粟立っていた。

「……そりゃあ、難儀だな」

「私、出られない」

「そうか」

 恐怖か。狂気か。その匂いを俺は嗅いで、なお言葉もなく。

「そうか……」

 きっと、なにかがおかしくなっているのだろう。この女の世界観か、ここの世界背景か。どちらかが、どうにもならなくなっている。

「寒いわ」

「そうかい」

 嘆息の混じった女の言葉も、なにもかもただ聞き流して。

 心が、冷えた。


「いいお湯でした」

「そうか。……あんた、昼餉はどうするんだ?」

 良ければ、一緒に。そういう誘いだった。

 女はちらりとこちらに視線を向けるが、そのまま障子を開け放った。昼間でも強い寒気が、容赦なく部屋の中に流れ込んでくる。その冷涼さにほてった体を晒しながら女が言う。

「なに食べても氷の味がするの」

「……の割に、良く食うよな、あんた」

「まずいとは言ってないわ」


「温泉郷で雪に入浴、か」

「馬鹿を見るような目はやめてくれない?」

 朝の散歩の時、ふと横を見れば女が雪に埋まっていた。

「わざわざ、どうして」

「道を外れたら……出られるかもって」

「危ねェよ」

 言って、女に手を差し伸べる。それがまずかった。

 女はうまく体重を使い、助けようとした俺を引き込んだ。俺は雪塗れの道連れにされてしまったのだ。からからとした笑い声が響く。

「人間のやることだと思えない」

 そう呟けば、よけい女は笑う。

「クッソ寒いんだけど」

 ちょっと散歩のつもりだったから、本格的に着込んでいるわけではなく、雪の中だと酷く凍えた。

「私だってそうだよ」

「じゃあ出ようぜ」

 立ち上がろうとしたら、女は俺の手を引いて制止してくる。

「もうちょっとで……なにかが……とけるような」

「凍るの間違いじゃねェの」

 諦めて、体を回転させて空を見上げた。日差しの中で雪が降っている。どさどさという音も聞こえる。

「雪下ろしの音」

「ああ。オツカレサマデスって感じだ」

 雪がたくさんある地方だと、天井に載った雪は屋根が崩れる前に降ろさなければならない。死活問題の重労働と聞く。

「人も雪下ろしが必要なのかな」

「だから温泉に来るんじゃねェの」

「たくさん、たくさん、入ったけどね」

 白くならない吐息を漏らして、女が言う。

「家がなくなれば降ろさなくて済むのに」

「住む地方を変えろよ」

 俺は起き上がった。さすがに寒すぎる。

「氷漬けになるまえに帰るぞ。……ほら、今度は引っ張るなよ」

 冷えきった女の手を握って、引き起こす。

 なし崩し的に女は俺の部屋に泊まるようになっていた。もう泊まる金がないのかもしれない。幸い、俺は金には困っていない……。


「えぇ、えぇ」

 耳を隠した花降屋の仲居はこう言った。あの女は気づけばこの郷に居たのだと。

 どれほど前か。……雪のない季節には見ないとも言う。

 だが仲居は語る、それもままあることなのだと。

「わっちの様な者もありんす。迷い込んでしまう、そういう方もいるもので」

「なるほど、説得力がある」

「うふふ」


 酒に酔った女が言う。

「あなたみたいなの、私、すごく好みじゃないのね」

「言ってろ」

「あっちこっちふらふらして……きっとたくさん、いろんな人と会ってる。みんな覚えてる」

 絡み酒というやつだ。無理に止めるか、いっそ潰すか。どちらにしても面倒事になりそうな予感がしていた。

「凄いよね。だいっきらい」

「……そろそろやめとけ。過ぎてる」

 そっと女の手から茶碗を奪い取った。恨みがましく女が罵ってくる。

「うっさいハゲ」

「ねーよ」

「私のためにハゲなさいよー」

「ねーよ」

 無表情で女が言う。

「お話してよ。旅の。面白いやつ。テッパン」

「ねーよ」

「つまらない人ね。約束してた男みたいに、つまらない」

「はいはい」

 茶碗に残っていた冷や酒を飲み干す。まったく、酔うにはもったいない酒だ。

「……してよ」

 少し考えて、俺は言った。

「嫌だろ、そういう話」

「すごく嫌。けど、して。だって、私、出られないのに。なんにもないから」

 俺は頭をかく。面白い話はそうあるものでもなかったからだ。

「わかった。……ありゃ夏だった。黒潮の岬、蝉と波が騒がしい昼だったが、ある親子連れが」

「無理心中?」

「黙って聞け。寝ろ。寝たら運んでやるから」


「信じるかい?」

 そう語りかけてきたのは、神社の前に居座るやくざな老爺だった。

「遊女の呪いさ。雪崩だって起きる」

「まぁ、どっちでも」

「だろうね。だから、君、こんなところに勝手に来た」

 そう言って熱つ酒をがぶりと飲み、小さな箱を老爺は投げ渡してくる。

 やけに凝った装飾が施された木の箱である。銀細工だろうか、渋く錆びたその色合いは歳月を経たからこその味を醸し出していた。

「箱を開けるただひとつの鍵は、その箱の中に」

「……どうやって閉めたんです?」

「オートロック!」

「急に安物に思えてきたんですが」

 箱は開かない。閉じられている。

「で、君。その箱を開けてくれないか?」

「箱の中に、箱を開ける唯一の鍵が入っている。なぞなぞみたいですね」

「閉めたままだと、困る。でも、開くのも困るから、鍵が中にある。……それを抱えていることがどうしようもない、困った彼女は手詰まりさ」

「あなたも困ってるんです?」

「何度も収集日は来てるのに、分別できてないからさ」

 そう言って爺さんのような者は薄ら笑う。怒りが煮えて、黙って俺は唾を吐いた。


「どおして……どうしてェ!」

 郷の入り口で泣く女の横で立ち尽くし、言う。

「出たくねェからだろ」

 雪崩でも起こしそうな大声が、ぴたりと止まる。

「……知ったような口を」

「すまねェ。出たくもあるんだろ。だから、辛い」

 女からの返事は、腰の入ったビンタだった。

 このまま言葉を続ければ、握り拳になるのだろう。

「俺は、行く」

 冷えた頬を撫でながら言う。

「……部屋で待ってる」

 想像は外れて、笑っている女から殴られることはなかった。


 その尾すら隠してない仲居が言う。

 いいさ。あちこち彷徨ってりゃ、多少の不思議に出くわすものだ。

「お悩みでござんす?」

「ござんす」

 女のあの顔を思い出しながら、俺は言う。

「笑ってりゃ、笑わないよりは楽だっていう話、あるでしょ」

「はいはい」

「それって、泥雪を啜るような話なんですかね、やっぱり」

 少しだけ居住まいを正して、仲居は言い切る。

「好きで啜るなら止めようなぞ」

 その表情にはゆるく影が差している。努めて明るい表情ではあったとしても。

「可哀想番付、ご存知?」

「……ランキング、ですか」

「そう。順番がありんす。上位には手を尽くす、下位は見過ごす。世間様と私視を混ぜたその格付けこそ、絶対の機構」

「あー、……なるほど」

 優先順位。雑巾は下、手編みの帽子は上。当然の話で、ろくでもない話で、どうしようもない話。だが。

「それがど」

 仲居は言葉で畳み掛けてくる。

「お客様にとっては――あの方は上位なんで?」

 話が繋がって得心し。俺は少しだけ考えてから声を発した。

「わからない。泣かせたくはねェが」

 嫌味を感じさせない仕草で、仲居はゆるりと頷いてくる。納得したらしい。

「わっちはね、西のとっても明るい方に、お聞きしたいことがござんして。救済とやらのことで。まずは最も近い者が先に、あるいは遠い者? 救い難き者、それとも救い易き者から? ……そもそもすべて平等に、あるべきか、ないべきか」

 勢い良くそこまで語り切り、ひと呼吸。続けて仲居は静かながらも強い口調で言葉を放つ。

「そして、自ら救い難くある者でござんせば、永遠にそのままが、至極の当然?」

「当然……なのか」

 死にたがりは死ぬ。生きたがりは生きる。そういう話ではある。

 やはりそれは、当然のことだ。だがそれをそのままにしておくことに、俺はなぜか引っ掛かりを覚えている。

「本当にそうだろうか?」

 悩む言葉を吐露すると、仲居はにっこりと笑った。

「さぁ」


 笑顔にだって種類がある。

 あれは、きっと。

 ぎりぎりのところでしがみつく――だから? それに、何の意味が?

「ここから出られない」

 その言葉を聞いた者はどれくらいだろう。

「あなたは?」

 きっと、これも、袖すり合うのも――だから。

 俺は。

 あんたに。


「待ってた」

 女は、深い夜、吹雪きが宿を揺らす頃に帰ってきた。

「……うそつき」

 雪に塗れた女からは、夜風と氷の匂いしか香ってこない。

「行ってしまうくせに。私を、……置いて」

 茶碗に注がれた冷水を飲み干し、恨みを込めて女が言う。

「私だけ出られない」

「なにもないから、破れ約束に縋るしかなかったって、あんた、言いてェんだろ」

 踏み込んだ一言だったが、女は俺を叩こうとはしなかった。もう怒ってれば今更この程度では、ということなのだろう。

「でも誰も。誰も待ってなかったから、私は、こうなるしかなかった……ッ!」

 建物が地震のように揺れる。家鳴りが響き、寒さが増す。女の怒りが、冬の闇をより強くしているのかもしれない。

「こんな場所! 滅んで! 雪に、闇に、なにもかもが沈んでしまえばッ……それで良かったのに……!」

「雪崩があったんだってな」

 女が笑う。

「……今はもう、なにもできない。ここにいるしかない」

 涙さえ凍らせて、女は俺に微笑みかける。

「ずっと、……これからも……ずっとずっと。だか」

 『ここにいてほしい』って言葉だったのかもしれない。

 それでも俺は首を振った。

「誰かがいる。俺もいる。……南の端でだって出遭いと別れ、離別と出立があるもので。だったら、この郷にだってそれがあるさ」

 裏切られたような表情でなお笑い、女が毒づく。

「安っぽい台詞」

「茶化すな、あんたを口説いてるんだ」

「…………」

「春の山を、夏の海を、秋の街を。……時には冬の郷も。きっと、あんたとなら」

「……馬鹿に、するなッ!」

 女が投げつけようとした茶碗を先に掴むと、手が触れ合った。

 火傷でもしたかのように、女の手が跳ねる。

「楽しいだろ。一緒に、見てェんだ」

 両手をゆるく広げ、雪女を誘った。

「置いていくんじゃない。先で、あんたを待つんだよ、俺は」

「そんなの……できるわけ……できな」

 笑おうとして、できなくて女がぽろぽろとしゃくりあげはじめて。

「好きだ」

 女の肌に赤みが走る。

「だから行く。……来いよ。来なくたっていいけど、待ってる」

 首を横に振る女が、脆く叫ぶ。

「うそつき」

「待ってる」

 再び言えば、腹へ女の拳が何度もぶつかってくる。痛い。

「うそつき!」

 そのまま抱き寄せれば、人の肌の匂いがした。


「ご出立で?」

「ええ」

「うふふ」

 上下を揃えて隠した仲居は、空を示して快活に笑う。

「激しい夜でござんしたが、いやぁ日本晴れ! いい日和でありんす」

「まったくで」

 楽しげに口笛を吹く仲居に問いかける。

「あいつは、起きたらいなくて。見かけませんでしたか?」

「おやま。先に発ちなすってござ……んす?」

 玄関先に、餅子神社前で酒を飲んでいた老爺がいた。話しかけてくる。

「迷いが晴れれば、そりゃぁ元の場所に戻るさ。いつの時代、どこの場所やら」

「……なるほど」

 嬉しさ、悲しさ、半々。旅の出発というものは、きっとそういうもの。

「うん。困る箱なら、そもそも箱で困らなくなればいい。それが君の説破か」

「大層な考えなんてないですよ。場当たり。うまくいったとすれば、いいけど」

「……使わなかった箱だけど、あれは胡桃だ。殻はね、無理に割らなくてもそのうち自然と砕け、芽吹く。いつか。うん、いつかきっと」

 長口上の老爺に向かって、俺は肩をすくめた。

「だから、箱は君が貰ってやってくれ。ありがとう」

「そうするよ」

 この爺さんに感謝される謂れはなかったが、箱は貰っておこう。

「まったく。ようやく、……晴れた」









 スパイクタイヤのホンダをキックして始動。雪道は怖いがまぁ慣れれば走れる。

 結局、この原付自転車があちこちをふらふらするには最適で、ずいぶん前から乗り回している。愛しきかな、相棒。

 雪は止んでいる。晴れ上がった青空は目に痛いほど蒼い。

 俺は今日、この灰吹温泉から出る。

 また彼女に逢えるだろうか。

 二輪車のエンジンの音が閑静な郷に響いてゆく。軽快、軽快。出立の時。

 バイクにまたがって、ふと、言いたくて、どうしても言えずじまいだったひとことを思い出して。嘆息ひとつ。

 まったく、恨むぜ。

「あんたの名前。畜生め。――教えてくれよ」

 

 

 

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