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そんな話し合いの翌日、予想外の事が直巳の身に起きた。
その日直巳は竜一と真莉亜が取っていない講義を午前に受けたので、昼食の時間に珍しく三人集まらなかった。何故か初回の授業がとんだので、この日が初めての授業。なかなか面白かったが、何だかんだで一緒にいる二人は午後から来るので、直巳は食堂やテラス席ではないもっと静かな場所で昼食を取ろうと穴場を探していた。ぶらぶらと人のいない方へと歩いて行く。結構歩いたなと思った時、見つけてしまった。
そこはどうやら専門棟という、そもそもが限られた人間しか立ち入らない校舎と校舎の間にぽっかり空いたスペース。人気のない場所にぽつんと置かれたひとつだけのベンチに、真莉亜がうるさく求めて止まない、あの少女がいた。
丁度よく木陰になっているベンチで静かに弁当を食べている。そう言えば真莉亜が、いつも誘う前に何処かに消えてしまうと言っていたと思い出す。どうやらここが、彼女の昼食スポットだったらしい。
しかしいきなりの遭遇に直巳困ってしまい、その場から動けずにいた。というのも、直巳は自分が第一印象でどう思われる事が多いかある程度知っていたのだ。竜一や真莉亜の様な例外もいるが、ほとんどの場合が怖がらせてしまう。身長にか雰囲気にか、顔のせいだったら少々ショックだが威圧感を与えてしまうらしい。内面を知った人達からは「意外と苦労性だね…」なんて言われるが、おそらく兄の所為だろう。
とにかく、目の前にいるのは同級生とは言えど、どう見ても小さな女の子。怯えさせてしまう可能性が極めて高い。よって迂闊には近づけず、さりとて立ち去ってこのチャンスを逃してしまうのは惜しい。何故なら何もしなかったと知れば、真莉亜が余計にうるさそうだし、さらに面倒な計画を立てそうだ。それは避けたい、と直巳は無言で悩んでいた。
風に吹かれて揺れる長い黒髪を眺めていると、ふいに彼女――三枝蓮が直巳を振り返った。
「「ッ!」」
それは野生の小動物、例えば野うさぎやりすなんかが何かの気配を感じてふいに振り返る行動によく似ていると思った。
二人の視線がぶつかる。互いに突然の遭遇に驚き、しばし動きが停止する。
どうしようかと直巳が考えていると、先に動き出したのは蓮だった。静かに弁当を片づけ、そろりと後ろに下がって行く。その様子にまずい、逃げられると焦ってしまった直巳は、なんと咄嗟に距離を詰めてしまうという悪手を取った。
身長に見合った長い脚の大きな歩幅で迫り、たった四歩で辿りつくと木陰を造っていた桜の木に追い詰める。退路を断たれた蓮は、一連の出来事に目を見開いてぽかんと直巳を見上げた。しかしやがて視線は伏せられ、俯いてしまう。
近くで見ると、余計に彼女の小ささが直巳には実感できる。胸ほどもない身長の所為で、黒々とした髪とつむじまでもがよく見えた。
(しまったー!)
直巳も内心大いに慌てていた。顔にははっきりとは出ていないが、表情は強張りいつもより怖い。初対面でのマイナス要素が増していたので最悪だ。
何故直巳は自分がこんな行動に出たのかわからなかった。一目見ただけで慎重に慎重に近づかなければならない人種だとわかるのに、こんな逃げられないように強引に追い詰めるなんてもっての外だ。わかっているのに、今のこの状況…直巳は現実逃避がしたくなったが、そういう訳にもいかない。彼女は予想通り怯えているのだろう、その場で俯き震えて、直巳の方は見ようとしない。
「あー…これはその…すまない…」
うろたえ何と言っていいのかわからず、直巳の言葉は続かなかった。大柄な男が小さな女の子の逃げ道を塞ぎ追い詰めている図…とてもまずい。防犯ブザーを鳴らされ、大声で叫ばれ、警察を呼ばれても反論できないような気がして直巳は冷や汗をかく。
「怪しい者ではないんだ。俺は…三枝、さんと同じ学部の佐原っていうんだが…見覚えないかな…?」
どうか知っていますようにと思いながら、ゆっくりと蓮を木に縫いとめるように囲っていた手を引きはがし、一歩二歩と後ろに下がって距離をとる。彼女が肩の力を抜いたのがわかり、改めて罪悪感が湧いてきた。
「その、本当に悪い。いきなり…」
「…大丈夫」
小さな声だが初めて蓮が答えてくれた事に、直巳は驚きつつも安堵した。
「改めて、佐原直巳、です」
「…三枝蓮です」
直巳も口が達者なわけではない。むしろ口下手だ。
(どうする、どう話を続ける…。くそっ、森田や辻なら何かしら話続けられるだろうに。そうだ、辻だ。これだけは伝えねえと。そもそもの目的は…)
「あー、他に森田と辻って知ってるか?二人とも学科の奴らなんだが」
蓮はこくんと小さく頷いた。反応があった事に再び安堵し、直巳は滑らかにとは言い難いが、何とか本題を切りだす。
「その二人の、特に辻の方が三枝、さんと話してみたいらしい」
「辻さんが、私と…?」
「ああ。それでよかったら明日の昼を一緒にとらないか?確かその前の時間の同じ講義を四人ともとっていたと思うんだが」
もちろん真莉亜からの情報だった。時間割はしっかり把握済みらしい。
「……」
(だめか?やはり強引過ぎたか?いや、怪しまれたか…)
慣れない事をしようとした所為か悪手ばかり打ってしまい、直巳は頭を抱えたくなった。しかし努力は実を結ぶ。
「わかった」
「え?良いってことか?」
「うん、いいよ」
やり遂げた、大げさだがそんな感想が真っ先に浮かんだ。
「じゃあ明日、講義が終わってから残っててくれ」
「うん」
約束を取り付け、直巳はその場を立ち去る事にする。長居をしても口下手な直巳ひとりではイメージアップは図れないだろうし、これ以上怯えさせるような事態も招きたくなかった。
それじゃあ、と短く告げていつもよりも大きな歩幅で歩いて行く。
そんな様子を、彼の姿が見えなくなるまで蓮は見送っていた。建物の角を曲がり完全にその姿が見えなくなると、ふうと物憂げに溜息をつく。掌には薄っすらと汗をかいていた。思ったよりも緊張していたようだと、蓮はもう一度溜息をついた。