人魚の珠と異形の話
「祭に行くよ、狸憑き」
特に用も無いからと、昼過ぎから骨董屋の鳥避け板を鳴らしたネムと篠原に、白色がにこにことそんな事を言い出した。
「……お前らそんなところ行って、札と数珠で追っかけまわされないのか?」
祭の言葉にいち早く反応し、興奮に頬を染めたまま店主の様子を見に行くと二階へ上がったネムを見送り、呆れ顔で口を開いた篠原に白色は糸のように目を細めて鼻を鳴らす。いかにもからかおうというその表情に篠原のこめかみがひくりと引きつった。
「人が人の作った社に願をかけるように、わっちらはお偉方のところにゴアイサツに行くもんなのサ。お前さん、それでも四国狸の守護憑きかえ?」
大げさに腕を組んだ白色がなにやら講釈を語りはじめるが、とりあえずそれを見なかった事にした篠原は、珍しく店主のかわりに卓袱台に向かう黒色に近寄って行く。
古めかしい木の盥の中でせっせと動かしているその手元を、行儀悪く靴を履いたまま小上がりに乗って膝立ちで覗きこめば、中にあるのは年季の入った小さな硯だった。
「随分古そうな……売り物の手入れか?」
「いや。これは俺のもんだよ。最近どうも調子が悪いんで、鋒鋩を立ててやろうと思ってね」
「ほう、ぼうを、たてる?」
可愛らしい羊の水差しを手に取って、黒色は首を傾げた篠原に小さく笑う。ゆったりと水差しが傾けられ、羊の口から滴が落とされた。
「要は墨が磨り易いように、硯を研いでやってるんだよ。つるんとした所じゃあ、上手く墨にならないだろ?」
「へぇ……」
小さな砥石を持ち上げて、しゃりしゃりと優しい音をたてて硯を磨る黒色の顔は随分と穏やかだ。聞いているとなぜか落ち着くその音に、篠原は頬杖をついてその手元を眺め続ける。
無言の中、ほんわかと和んだ空気をしばらく堪能していた篠原だったが、あまりに夢中になっていたせいで後ろからどすんと叩きつけられた重さに、頬杖から外れた頭をしこたま床に打ち付けるはめになった。
「白! なにしやがるこの馬鹿!」
「お前がわっちの話を尾の毛の先より聞かないからだよォ!」
駄々っ子のように篠原の背中に跨ったまま喚く白色に、せっかくの雰囲気を壊された篠原は振り返りざまその頭を引っ掴んで自分から引き剥がす。
どうも相性が悪いのか、はたまた逆に気が合っているのか、仲良く子供のような言い合いを始める白色と篠原に、黒色は呆れた顔で硯の方に目を戻した。
綺麗に研ぎ終わった硯を一旦持ち上げ、ふっと短く息を吐く。元通り盥に硯を戻す頃には、その中にはきんと冷えた水が並々と現れていた。
「こんなこともできるようになっちまうたぁ、思わなんだな」
少し口角を上げたまま、指先が凍えるのも気にせずに優しく硯を漱ぎながら、黒色はぼんやりと遠いものを蘇らせる。
小さな庵、冷えた室内。悴む指先は今より更に紅色に染まり、動くごとにちりちりと痛みが残る。真っ白に結晶が覆う格子の窓から見えるのは一面の雪。
痩せて骨ばかりの肩を震わせて咳き込んだ喉から、水の中に赤色が揺らめいて解けた。
崩れ落ちるその体を微笑んで支えたのは――
「ああもう喧しい! そんなに気に入ったんなら墨でも磨らせてもらやぁいいだろォ!」
突然向けられた白色の言葉に、黒色は飛ばしていた意識を目の前で取っ組み合う大きな子供たちの戻した。店のものを蹴倒さないように気を遣いながらの戦いは、篠原が意外にも粘ったのか、珍しく白色が肩で息をしている。
自慢の長い髪もよれよれのその姿に、黒色は妙な声を上げて吹き出し、これ以上の喧嘩を止めるためにもとその顔のまま篠原を手招いた。
「白いのをあんなんにしちまうとは、狸憑きは案外筋がいいなぁ。ほれ、こっちおいで」
まるきり子供をあやす言い方だったが、間違いなくどんでもない年上だろう黒色に言われると、照れ臭さはあっても反抗しようとは思えない。篠原は素直に靴を脱ぎ、少し脇に寄った黒色の隣に行儀よく腰かけた。
「黒いのの前ではいやに素直だネェ」
「よく見ろ。人徳の差だ」
口だけは白色に嫌味を返しつつ、篠原は手渡されたすべらかな墨を触る方に夢中だ。
きいきい怒る白色もなんのその。上質な墨を研いだばかりの硯に当てて優しく手を動かせば、篠原の知っているものよりずっと滑らかに漆黒の海が出来上がっていく。
「おお……」
「狸、お前さん別に違いなんぞ分かってないだろォ」
「白は黙ってろもう。……確かに俺は書道なんぞ分からないから、小さい頃に使った安い墨と硯しか知らないけど、これとそれは全然別物だってことくらいは分かるぞ」
楽しそうに墨を磨る篠原を見て、黒色は静かに微笑む。どうもどこか遠い所を見ているような顔つきの相方に、白色は何かを思い出したようにひとつ尻尾を振った。
「おっと。忘れるところだったネェ。祭だよ祭!」
「白、こんな真昼間から行く気か? 灰になっても知らないぞ」
ひとしきり柔らかな墨と硯の擦れる音を聞いて満足したのか、濡れて光る墨の先を拭きながら篠原が呆れた声を出す。しかし、的の外れたその言葉に隣の黒色が思い切り吹き出した。
「狸憑き、お前俺たちを吸血鬼かなにかと間違えちゃいないか? 確かに昼はあまり行動しない奴らも多いが、俺たちは別になんともないぞ」
「この高貴なるわっちと黒いのが闇の中で這い回るだけのもんに見えるなんて、狸、お前さん医者にかかった方がいいんじゃないかえ」
いっそ本気で心配されているらしいその声色に、篠原は頬を赤くして口をへの字に曲げる。
真っ赤になった篠原を今こそからかい倒そうと、白色がにたにたと羞恥に震えるその頬をつつきながら大げさに胸を張って見せた。
「これを機にわっちの素晴らしさってぇものをみっちり教えてやろうかえ? 手始めにそうさな……わっちの有難い教えを特別に書いてあげようネェ」
篠原を言い負かせたのが余程嬉しいのか、実に大人気ない白色が袂からさっと和紙を取り出す。
楮の香りも真新しい、繊細で美しいその紙に、白色は先程篠原が磨った墨でさらさらとなにやら奇怪な図形を書き上げた。
どう見ても文字にも絵にも見えない謎の走り書きを、やりきった顔で満足げに篠原に付きだす白色に、黒色は顔を手のひらで覆って首を振る。
「白いの、お前またそんな高い紙を選んで出してきて……。雑ざりに何されても俺は知らんぞ」
「この高尚さが分からないなんて、黒いのもまだまだお子様さねェ。ま、黒いもなかなかの腕だけどサ」
次はお前だと当然のように差し出された美しい和紙に、逆らう気も無いのか、何か言いたげな顔のまま黒色が筆を走らせる。すらすらと書きだされたのは、どうやら和歌のようで。
姿に似合わず細く繊細なその文字は、素人の篠原から見てもそれは見事なものだった。
硯や墨を扱う手つきと言い、黒色は随分と書に長けているらしい。篠原は目を丸くして、流れるようにその手から生み出され、紙に写し取られていく文字たちを見つめた。
「俺、手形とか、落書きもどきしか見ないから、お前らみたいなのは字が書けないもんだと思ってたよ」
「普通はそうさね。黒いのが特別なんだヨ。もとは狸と同じモノだったのさァ」
黒色に綴り終わった紙を渡された篠原は興奮気味にそれを眺めていたが、白色の言葉にそこから視線を黒色に投げる。何故か誇らしげな白色を、ひとつ瞬きしてからこつんと黒色が小突いた。
「言わなくていい事を言うんじゃない白いの」
ため息混じりの声は普段より少し低い。不満そうな白色に小言を始めた後ろ姿を眺めながら、篠原は静かに手の中の和紙を撫でた。
「お小言は後にして、祭に行かないか? ネムも誘うなら、早くしないとまた店主に持ってかれるぞ」
「ああ。そういやぁそうだな。雑ざりの事だ、放っておくとネムと昼寝でも始めちまうか、また大掃除だな。白いの、ちょっくら呼んできてくれねぇか? 俺はこの広げた店片付けちまうから」
「あいよ。ほれ狸、お前さんも行くよ」
卓袱台の上に広げた道具を指さす黒色にひとつ頷いて応じた白色は、おまけだとでも言うように篠原の腕を取ると二階への急な階段を上がって行く。
急に引っ張られたことに文句を言う篠原の声がなにかをぶつけた鈍い音と一緒に小さくなるのを、困ったような笑顔で見送った黒色は、空から取り出した硯箱に丁寧に道具をしまい始めた。
漆の光沢も美しい年季の入った硯箱には、雲海を優雅に泳ぐ獏が彫られている。手に入れた遠い昔から妙な柄だと笑われた事を思い出して、黒色は閉じた蓋を静かに撫でた。
「今となっちゃあ、お前が繋いでくれたんじゃないかとも思うがね」
眠る獏をなぞる手は、壊れ物を触るようにそっと箱の上を滑る。
白色の言うように、黒色はかつて人だった。
死神の鎌を常に首元に当てているような、弱弱しく何もできない出来そこない。唯一震える腕でも生み出せた文字を売って、細々と暮らしていた遠い昔。
この箱がまだ真新しかった、そんな遠い頃の記憶は既に随分おぼろげだったが、黒色は久々にその頃を思い出して口元を歪める。
浮かぶ端から零れ落ちていく記憶をこれ以上失くしてしまいたくないとでも言うように、黒色は硯箱を静かにどこか奥深くへ仕舞い込んだ。
+++
二階では、階段でしこたま頭を打った篠原が、鬼の形相で布団に寝転んだ店主を起こしにかかっている。
小さすぎる店とは正反対にいくつも襖の並んだ二階は、白色曰く台所から広間に書庫、風呂場に倉庫に果ては茶室まであるらしいのだが、悠長に探検できるのは当分先になりそうだ。
「店主! いい加減駄々っ子の真似してないで出てきやがれ! ネムがこの布団干さないと行かないって聞かないんだよ!」
「じゃあ行かなきゃいいじゃあないか……」
布団をがっちりと握りしめ、簀巻きになってまで抵抗する店主に、篠原はこめかみを引きつらせる。一番祭に行きたがっていた肝心のネムはと言えば、簀巻き店主の後ろでせっせと脱ぎ捨てられた着物を片付けるのに夢中だ。
店と同じように大きく取られた窓と、その前に置かれた文机。異国風の唐草文様の衝立の後ろに、店のものより一回り小さな水煙草が置かれている。どっしりとした和箪笥や、吊るされた灯り一面に施された繊細な彫刻が窓からの光に照らされて揺れる室内は、素人の篠原から見ても良い部屋に違いなかったが、その持ち主がど真ん中で簀巻きではどうしようもない。
なにより大の大人がしても可愛げなどかけらも無い芋虫に、苛つきとともに世話焼きの血が騒いだらしい篠原は、最後の手段とばかりに芋虫の下の敷布団を掴んで思い切り手前に引き抜いた。
「狸……お前さんそんなに仕置きが欲しいかい」
「先生、そんなこと仰らないで起きて下さいよう。お見送りくらいして下さいまし」
無様にごろごろと転がり、半分だけ出した目で射殺せそうな程篠原を睨んだ店主の肩を、ネムが慰めるようにぽんぽんと叩く。
寝付かない子供をあやすような仕草をされた店主は、怒るでもなくしばらくもぞもぞと簀巻きの中で蠢いた後、実に億劫そうにその身体を起こした。
「本当にネムの言う事だけは聞くんだな……」
「いっそ清々しいくらいだよ。まァ、わっちらからしてみりゃ、とんでもなく有難いんだけどネェ。雑ざりの腰はそりゃあ重いから」
跳ねた頭を黙ってネムに梳かせている店主に、篠原が思わず感心した声上げた。その面食らった顔にほんのり苦笑した白色は、尾を振って篠原が引きずり出した布団をたたみにかかる。
ふよふよと何もない空中に浮かびあがり、後をついて歩き出したネムと共に洗い場でもあるのだろう方向に消えていく布団を忌々しそうに睨みつけ、店主は恨みがましげな視線で篠原と白色をねめつけた。
「そう睨むなよ……。そんなに嫌なら一緒に来ればいいじゃねぇか」
「それができりゃあ、こうも苦労しないんだがねェ。異形の世にもいろいろあるんだよォ。雑ざりは特に」
呆れた声の篠原に、白色が肩を竦めてみせる。
不機嫌さに拍車のかかった店主が、引き寄せた水煙草の柄をがりがりと齧るのを見て、篠原はそっと口を噤んだ。
悪い事を聞いたかと少しだけ頭を下げた篠原を視界の端に捕らえ、店主はため息交じりに煙を吐き出す。
「本当は、私だってネムを外になんぞ出したくはないさ」
「……あくまでネム限定なんだな」
拗ねたように横を向く店主に肩の力を抜いた篠原は、日の差し込む窓の方を向いて苦笑気味の声を漏らした。
何とも言えない空気の中、話の真ん中にいる事を分かっているのかいないのか、ひょこりと扉から顔を出したネムが、その名と同じ花が描かれた前掛けを外しながらひょこひょこと店主に寄ってその手を握る。
「お土産、沢山買ってまいりますから、待っていて下さいましね! 先生!」
嬉しそうにはしゃぐネムに、渋い顔のままひとつその頭を撫でた店主を残して、篠原たちは広い二階を後にした。
「なぁ白、そういや異形のやつらの祭って小銭使うのか?」
「おや、狸ったら律儀だこと。使うにゃ使うが、お前さんの雀の涙の財布はしまっときなァ」
相変わらず眠そうな顔に似合わず祭好きのネムが、待っていた黒色を引き連れてうきうきと扉を潜る横で、篠原が小上がりの隅に投げた鞄を取りに戻ろうとするのを白色が止める。
いちいち一言多いが、言われた言葉に篠原は小さく首を傾げた。
不思議そうな篠原の手を引き、口の端に笑いを引っかけた白色が鳥避け板の下をくぐれば、普段は細く暗い一本道に繋がるそこにはいつもより広く明るい砂利道が続いている。
普段からこうだったとでも言うように違和感なく据えられた別の場所に、眉間に皺を寄せていた店主の顔を思い出して篠原は小さく吹き出した。
「あんなに嫌そうな顔してた癖に、こういう仕事はきっちりするんだな。店主」
「当たり前だろォ? ネムが絡めば雑ざりは腰上げるのサ。お前さんが心配してた方も、これで解決解決」
足取りも軽やかな白色は、少し先で黒色と並ぶネムを指さしてくつくつと笑う。跳ねるような動きに引かれたままの手を振られながら、篠原はほんのり顔を引きつらせた。
「まさか、店主のこと財布にする気か?」
言うが早いか、がつんと脳天に衝撃をくらい、篠原は頭を押さえて蹲る。その姿を見て、振り返った白色がきゃっきゃと子供のように声を上げた。
「お前も大概迂闊だねェ。口は災いの元を体現してどうするんだい。ま、雑ざりがネムには甘いのがよく分かったろォ?」
「頭に響くくらいな……」
「良い音が致しましたねぇ。篠原、頭のてっぺんが潰れてはおりませんか」
脳天に突き刺さるようにどこからか落とされた巾着袋を掴んで、篠原はひいひい笑っている白色を睨んだ。ずっしりと重いそれは、中で金物らしい高い音をたてている。
心配そうに自分に近寄り、覗き込んでくるネムにひらりと片手を振ってみせるが、その目にはじんわりと涙が滲んでいた。
「おうおう。随分とたんまり入れてるらしいなぁ。たんこぶ作って受け止めた甲斐があるじゃねぇか。ま、ネムが楽しけりゃ雑ざりも文句言わねぇからな。安心してしこたま使えばいいさ」
「祭に持って行かせる額じゃないだろうに。店主の感覚だとそうでもないのか?」
「そもそも雑ざりは金にも宝にも興味がないのさァ。動くのも嫌がるズボラには無用の長物なんだろうねェ」
生憎大金に縁の無い篠原が、じゃりじゃりとやたら重い中身を恐々覗き込む。中に入っているのは金物は金物でも、小指の爪程の金の粒だった。
袋一面を照らすその量に、思わず篠原の顔が後ろに引く。ごくりと喉が鳴ったのも、大金持ちでもなんでもない彼からすれば無理のない事だ。一体今自分の掌にはいくら乗っているのか、考えたくも無い。
あまりに怯えた様子の篠原に、緩む口元を押さえたのが黒色で、人の悪い笑顔でにやにやとその顔を覗き込んだのが白色だ。
ついでとばかりに背中を思い切り叩かれ、落としてしまうとあたふたする大きな図体は、見るだけなら実に愉快だと白色が声を上げて笑う。
同じ人間として視線で助けを求めたネムは、友人たちが賑やかなのが嬉しいのか、はたまた祭の事しか頭にないのか。一向に気付いてくれそうにない。
「狸、そんなに怯えなくても誰もお前さんの腕ごと持って行こうなんで思ってないよォ」
「そんな物騒なたとえが出てくる時点で、俺はお前たちを欠片も信用できない」
からかう白色に返す声にもいまいち覇気がなく、意味も無く辺りを見回す怯えた小動物のような仕草を始めた篠原に、白黒が困ったように顔を見合わせる。
久々に見た初々しい反応に、いくらなんでもまずいのでは、と一周回ってようやく冷静になったらしい。
「ネムや、やっぱり雑ざりには一応の常識ってもんを教えた方がいいんじゃねぇか? あんなにどこにため込んでたんだよ」
「先生のお着物のなかに埋まっていましたよう。ですからてっきり先生が持ち歩いているものかと思ったのですが」
「ネム、雑ざりは持ち歩く前に出歩かないだろォ……」
もっともな白色の言葉に思わず深く頷いた篠原だったが、握った指に眩暈がするほどの金色たちよりも大きな物が触れた気がして、今度はなんだと恐る恐る袋を覗き込んだ。
片手で袋の中身を揺り動かせば、徐々にその大きな物が表面に浮かび上がる。つるりと丸く、青みがかった光沢を放つその珠は、しばらくするところりと金色の海の上に転がった。
冷たい色合いのそれが妙に気になって、篠原はひょいとそれを指で挟む。陽に透かしてみた珠の中で、ゆるりとあるはずの無い水が揺れた。
「なんだこ、れ」
「狸!? なにしてるんだい! 今すぐそれ離しな!」
揺れた水と共に、篠原の視界も歪む。吐き出した声がごぼりとおかしな音をたてて気泡になる幻がみえた所で、白色の鋭い声が飛んだ。
それに答えようともがく篠原だったが、既にその身体は自身の意志には従わない。
篠原が動けないと見て取った白色が咄嗟に珠を叩き落とそうとした手は、ほんの一歩だけそこに辿り着かなかった。
ずぶり。足元が沈む。
固い土で出来ていた道は篠原を中心に柔らかく波紋を起こすと、一瞬でその姿を沈めてしまう。目を見張った表情でとぷりと消えた篠原を眺めているしかなかった三人も、次々足をとられて悲鳴を上げた。
「ネム!」
沈みきる前にかすかに聞こえた店主の声には、誰も答えない。
+++
土から沈み込んだ先は、真っ青な水の中だった。
突然冷たいものに全身を包まれ、驚いてもがこうとしたネムを左右から白黒が腕を掴んで受け止める。
「落ち着きなネム。別に溺れりゃあしないよ」
「濡れるわけでもねぇから安心しな。しかし、今時珍しい。こんな凝った夢もどきなんざ久々に見たよ」
「夢もどき、でございますか?」
恐る恐る息を吸い込み、違和感なく声が出る事に驚いたネムに黒色が頷く。
「夢ってのは生きてる人間が見るもんだ。おっ死んじまった奴や、俺たちみたいな異形が見るのはそっちとはちぃとばかし質が違うんだよ。幻から現のものに変わりかけた歪な出来そこない。美しいが危なっかしさもぴか一だ。ネムや、雑ざりのとこに戻りたきゃ、下手にふらふらどこかへ行こうとしなさんな」
黒色の言葉に、ネムは神妙に頷いて上を見上げた。
ごぼりと吐き出した自分の息が確かに泡になって上へのぼっていくのに、地上と変わらず息ができる不思議な感覚。
そのくせ、本当に海に潜っているような波の動きが体にまとわりつく。
普通の夢よりもずっと本物らしく創られた偽物の世界を、受け止められた格好のまま、ネムはしばらく興味深げに眺めていた。
「――篠原はどこに行ったのでしょう?」
夢に出入りする白黒が側にいたために悠長に構えていたが、自分の側にも、揺れる海藻やちらほらと見える魚影の中にも篠原の姿が無い事に、夢中になっていたネムは首を傾げる。
寄ってきた海月にちょっかいをかけていた白色も、その傘をもにゅもにゅと揉みながら眉を寄せた。
「おかしいねぇ……わっちらがいて、見失うなんて事もないだろうに」
「これを見てる本人の力が余程強いのかねぇ」
水に濡れ、青みを増した黒髪を波に揺らし、首を振って言った黒色が唐突にくしゃみを我慢したような不思議な顔をした。
「白いの、ありゃあなんの冗談だ」
「こりゃまた、随分似合わないもんが見えるねェ」
ネムが白黒の視線の先を追えば、俯き、表情の見えない篠原が暗い海底に浮かんでいる。
やっと見つけたと近寄ろうとしたネムはしかし、その姿の違和感にぱちくりと瞬きをして水をかこうとした手を止めた。
ぼんやりと暗い水の底に視線を向け、静かに佇む篠原の腰から下が海に溶けている。
「ごっつい人魚様ですねぇ……」
「狸憑きは特に気が抜けてるわけでもねぇのに、油断するとすぐなんか憑けちまうんだな。ありゃ中の狸も随分苦労してんだろうに……。おい白いの、あれなんとかしてやれよ」
水に溶けた篠原の半身はそこから紫色の鱗に変わり、尾鰭が動くたびにきらきらと光を跳ねてはネムたちを照らした。
優雅に水をかく姿はそこだけ見れば美しい光景だったが、いかんせんくっついているのが華奢とは正反対の長身の男では花がない。
「いっそネムにでも憑きゃあいいもんをさァ」
「そうならないためにあれを傍につけてるんだろうが」
理不尽な八つ当たりも露わに、白色が嫌そうな顔のままふよふよと寄っていってその顔に海月を投げつけた。
ぬめる傘に顔面を覆われた即席人魚は一瞬毛を逆立てるように震えた後、鬼の形相で白色を振り返る。
「白! お前なにしやがる!」
「やかましいよこの変態。こっち側に戻してやったんだから素直に感謝しな」
吠えた篠原は既にいつも通りのようで、ネムはいそいそと近寄って行くと人に戻った足を興味深げに見つめた。
特に変わった箇所もない長い足に、ネムはつまらなそうにため息をつく。
「綺麗でしたのに……」
「ネム、お前少しは狸憑き本人を心配してやれ」
やれやれと呆れ気味にネムを見返した黒色だったが、当の篠原の様子がおかしいことにぎょっと目を見開いた。白色にからかわれて吠えている篠原に、別の何かが重なって見える。
「狸憑き、お前それ」
「ん? うわ、どうも気持ち悪いと思ったら……。白、笑ってないで教えてくれ。なんなんだこいつ」
一度正気に戻ったからなのか、特に引きずられる事もなく篠原はうっとおしそうに首を振った。
その動きにあわせて揺れる長い髪に、美しい尾鰭。篠原に比べると華奢で幼い人魚が、おぼろげな姿で悲しそうにそこに佇んでいる。
それなりに男前な篠原にだぶって見えるせいで、余計にその姿ははかなげだ。
「お前の姿でその可愛らしい顔がちらつくのはちょっと気味が悪いねェ。わっちはそちらさんが可哀想で可哀想で」
「下らないこと言ってないでこれどっかにやってくれ。中から怒られて外から泣かれたら五月蠅くて敵わない」
どうやら過保護な憑き人に内から怒鳴られているらしく、耳をふさいだ篠原の顔色はあまり良くない。ほろほろと真珠の涙を零す人魚の青ざめた表情も相まって、まるで死人のような有様だ。
流石にまずいと思ったのか、着物の袖を捲り上げた白黒が人魚を剥がしにかかろうと手を伸ばす。突然伸びてきた知らない手に、驚いたのは人魚だ。
「ひ、おい、やめろ!」
「篠原!」
怯えで余計に顔を歪めた人魚は、優雅な尾びれをひらめかせてその手から逃れようと泳ぎだす。半分憑かれたような状態の篠原にそれを振りほどけるはずもなく、彼もろともその姿はみるみる海底に沈んで行った。
あまりのことに驚いたのか、めったにない大声を上げたネムの手を取って、白黒も慌ててその後を追う。
速度が上がり、青色の線と化して後ろへ飛んでいく海底の景色を一心不乱に突き進む人魚は、暗い珊瑚の間を通り抜けた所でがくりと急に力を失い、その場で虚ろな視線を彷徨わせる。
つんのめるようにその後ろへ追いついたネム達を尻目に、人魚は急に顔に生気を取り戻すとその身体を海の上へと向けた。
突然篠原の事も背後のネム達のことも忘れてしまったように、その顔は先程とはうって変わってきらきらと輝いている。
「……どうなさったのでしょう? 夢の中で物語がぶつ切りになるのはよくあることですが、傍から見ますとなんだか不思議なものでございますねぇ」
「ネム、お前さんも夢なんてもんみるんだね……。まあ、もどきとはいえ夢は夢だからなぁ。次は一体なんだい」
あれだけ怯えた顔をして見せたというのに、今の人魚には周りの全てが見えていないようだ。ネムや黒色の声にも全く驚く素振りすら見えない。
後を追ってみれば、嬉しそうに頬を染めたまま美しい尾ひれをひらめかせて海上に顔を出すと、人魚は手近な岩を盾にそっと浜の方を覗く。
「どうやら、あれを目指してたらしいねェ」
気を抜くと沈んで行こうとするネムの体を持ち上げて、白色が指を指す先。目を焼くような明るい光に白さを増した砂浜に、一人の男が立っていた。
妙に甘い香りのする空気の中に、ぽつんとひとり。くすんだ色の着物に、白いシャツ。古風な書生のような出で立ちの彼は、海の方に虚ろな目を向けたまま微動だにしない。
酷い顔色と骨と皮だけのやつれきった体が痛々しいその姿を、人魚は一心不乱に見つめ続けるが、彼の顔は一度としてこちらを見ないままだ。
きらめいていた人魚の顔はみるみる沈み、その大きな瞳にいっぱい涙を貯める。
「なにやらお取込み中のようだが……。ほれ狸憑き、戻っておいで」
浜の方ばかり見ている人魚は、黒色が近寄っても視線すら寄越さない。完全に意識の外に追いやられ、もがいている篠原の腕をとれば、その身体はいとも簡単にするりと二つに分かれた。
「ああ、ありがとう、黒」
「大丈夫かえ? よくまァ正気でいられたじゃあないか」
衝撃が抜けないのか、ふらふらと頭を振って篠原が途切れ途切れに言葉を紡ぐ。酷い顔色に、思わず白色が心配そうにその頭をくしゃりと撫でた。
わんわんとその声があちこちから聞こえるような不快感に、口元を押さえる篠原だったが、視線はずっと人魚の方に向けられている。熱に浮かされたようなその表情に、白色は眉を寄せた。
「篠原、何かお見えになられたので?」
「あいつ、ずっとあの浜のやつを待ってるんだ」
おずおずとかけられたネムの声に、視線を外さずに篠原が答える。ほんの少しの間、人魚の心を覗いてしまった彼の顔は暗い。
ふいに、浜の青年が体を折り曲げて激しくせき込んだ。岩陰から飛び出し、焦ったように水かきのついた両手を差し出して泣き出す人魚の目の先で、青年は両手と白い砂をどす黒い液体で染めて苦しげにその場に崩れ落ちる。
「でも、浜の奴はあいつを見てくれないらしくて」
顔を顰めた篠原の言葉通り、うっすらと開いた青年の視線は、目の前で声にならない悲鳴を上げている人魚を通り過ぎて遥か遠くを睨んでいた。
しばらくそうして肩で息をしていた青年は、口元を染めた液体を乱暴に拭うと、よろめく足取りで立ち上がり、またじっと海の向こうを見つめ始める。その間、人魚の声は一向に届かない。
「いっそ清々しい程眼中にないねェ。わざとかえ? ありゃあ」
「それが分からなくて、死にそうな姿をずっと見てんのか。辛いこった」
とうとう顔を覆って泣き始めた人魚を前に、白黒は困ったような顔で視線をかわす。少しずつ頬に血の気が戻り始めた篠原は、隣で心配そうにしているネムにひとつ頷くと、白黒の方へ視線を戻した。
「ああ。それで、せめてその病だけでもと思ったらしくてな」
篠原の声が合図になったように、人魚が顔から手を離す。真っ赤になった目を浜に向け、人魚は決意した表情でその手を胸に当てる。
鎖骨の下あたりに置かれた細く頼りない指は、しばらくその場を彷徨った後、唐突にそこに突き刺さった。
半ばほどまで指を埋めると、人魚は歯を食いしばり、その手を左右に開き始める。
たおやかな指の隙間から海面にどっと紅色が混じり、みちみちと音をたてて真珠のような肌に傷が広がって行く。突然の人魚の凶行に、ネムと黒色が目を見開き、白色が口元を袖で覆った。
「これがあれば、きっと助かる。死なないで、って」
一人だけ表情を無くした篠原の声と同時に、人魚は苦痛の表情で自分の胸から丸い珠を取り出す。赤色に塗れ、陽の光に輝く珠にほんの少しだけ笑みを浮かべ、そっとそれを浜に置くと、人魚は満足したように紅色の尾を引きながら海底へ沈んで行った。
その場に残るのは、磯の香りをかき消す腐った果実のような甘ったるい匂いと、目の前で起きた惨状にも、足元に転がる海色の珠にも気付かない青年。
「ああもう、なんて厄介なものに引き摺りこまれたんだよォ」
「あの球、人魚珠か。あの小さい人魚も、とんだ無茶をする」
「人魚珠……?」
むせ返る酷い匂いに鼻を覆った白が腹を立てている横で、黒色が呟いた聞きなれない名前にネムが首を傾げた。きょとんとした視線に気付いてか、黒色は砂浜に転がったままの珠を指して肩を竦める。
「人魚が心臓のかわりに持ってる珠だ。よく人魚は不老不死の妙薬になるなんて言うが、あの珠さえありゃあ本当に死人すら生き返るぞ」
「血肉なんぞ比じゃあない。あんなもん人に渡したら、下手すると化け物になっちまうよォ。あのちび、それを分かって引っこ抜いてるのかえ?」
少しだけ怒ったような声を出す異形二人に、その小さな丸の中に恐ろしい力を秘めた深い紺碧の珠を見つめ、篠原は静かに首を振った。
おそらく、幼く小さなあの人魚は珠の力を分かっていない。人魚はただ、待ち人を救いたい一心でその命を自らの手で差し出しているだけだ。
「あいつ、あの珠さえ受け取って貰えればいいんだと思ってるみたいなんだ。だから――」
暗い顔の篠原の言葉を遮って、凪いだ水面がざわりと揺れる。小さく波紋を起こして現れたのは、長い髪から蝶のような鰭をなびかせる、見覚えのある頭だ。
「受け取ってもらえるまで、何度も、何度でも胸を引き裂いちゃ死ぬのか」
「ああもう、またかえ……。どうしてこう、こういう輩は延々同じことを繰り返すのが好きなのかねェ」
いつの間にか砂浜から消えた蒼い珠と、虚ろな目の青年。それをひたすら懇願するような顔で見ている人魚に、呆れたように白色が天を仰いだ。
「この繰り返しをどうにかしねぇと、いつまでたってもここから出られねぇぞ」
「あの浜の方に、珠を受け取って頂けば良いのでしょうか……。夢の中なら、おかしくなられることも無いのではありませぬか?」
力の入らない篠原の体を掴んだ黒色の声と、おずおずとかけられたネムの提案に、しばらく腕を組んで考えこんでいた白色だったが、その間にもただひたすらに胸を引き裂き、受け取られもしない自分の心臓を差し出し続ける人魚に、いい加減じれたようにばしゃばしゃと水面を叩く。
「同じ事ばかり眺めているのはもう飽き飽きだって言ってるのに、まったくもう! 仕方のない子だねェ」
何をする気かと首を傾げるネムを後ろへ置いて、白色は眉根を寄せてまた顔を出した人魚に近寄ると、その手で人魚の肩を掴んだ。
ぱちんと泡がはじける音とともに、今までこちらを忘れていた人魚が、壁が取り払われたように胸に手をかけた格好で一行の方を向く。
「ああ、別にとって食いやしないから逃げない逃げない。ほら、それお寄越しよ」
途端に顔を歪めて尾鰭をひらめかせようとした人魚を引き止め、白色はずいっとその目の前に手を差し出した。
「黒、あいつなにしでかす気だ」
「このままだと延々海の中でふやけ続ける羽目になるからな……。あの人魚がこの夢もどきの持ち主なら、とっくに死んでんだ。夢から醒めて終わるってぇ事は無い。だから、本人が望むように強引に話を進めて出口をこじ開けるつもりだろう」
ずり落ちそうになる篠原を揺すり上げ、黒色はおろおろと突き出された手と白色の顔を交互に見る人魚に視線を投げる。硝子細工のような耳を忙しなく動かして、人魚は怯えた顔でなかなかその誘いに乗ろうとしない。
「早く帰りませんと、先生に怒られてしまいますよう」
「……このままだとわっちの心の臓まで引っこ抜かれちまう。お前も異形のはしくれなら、わっちらがなにをするか、いくら無知でも分かるだろう?」
ネムの声で店主の存在を思い出したのか、白色が引きつった顔で人魚を急かした。ここに留まり続ける程、自分の命が危うい。
少しきつさを増した白色の声に、人魚は虚ろな顔の青年を一度見上げ、意を決したように胸に手を置いた。
ころり、また辺りに広がる甘い香りを濃くしながら、白色の手に丸い心臓が転がる。
「そんな顔しないでも、きちんと届けてやるから。なんにも心配しないで、よォくお眠りよ」
一際優しく囁かれた声に、幼い人魚は泣きそうな顔で笑うと、ごぼりとひとつ泡を吐き出した。それが懺悔だったのか、青年への睦言だったのか、ネム達には分からない。
暗く濁った海の底へ静かに落ちていく人魚の鱗が放った最期の光を目に焼き付けて、篠原は紺碧の珠をころころと掌で転がす白色に顔を戻した。
一度両手で珠を覆った白色は、すいすいと浜に近寄ると、白い着物を肩までたくし上げる。
露わになった細い腕を焦点の合わない青年の目の前に差し出すと、初めてその顔がはっきりとこちらを向いた。
「さァ、お前さんを待ってた奴の形見だよォ」
白色が珠に気付くように力を込めたのか、はたまた差し出された腕が人魚のそれに見えるように仕向けたのか、青年はわなわなと震える手で珠を掬い上げる。満足げに頷いてこちらに戻ってくる白色に、これでなんとかなるのかと息をついた一行は、突然響いた獣のような悲鳴にびくんと体を震わせた。
そのやつれた体からどうやって絞り出しているのか、珠を抱いて喉も裂けよと泣き叫ぶ青年に、篠原はおろか白黒まで呆然とその場で動きを止める。
「失敗……でございましょうか……」
ぽつりと呟かれた平坦なネムの声を肯定するように、青年はとうとうその場に崩れ落ち、時折激しく咳き込みながら、延々と涙を流し続けた。
事が動いたのは少し後。
しばらく身も世も無く泣きじゃくるばかりだった青年が、口を閉ざして見守るしかない一行を置いて、唐突にその口を閉ざした。
すっぽりと感情をそぎ落とした顔で、青年はぼんやりと海の彼方を見つめると、興味を失ったようにのろのろと浜を離れていく。あれほどかき抱いて泣いていた蒼い珠は、まるで塵だとでも言うようにあっけなくどの手から離れ、無残に砂浜に転がされた。
子供の足より劣る程緩慢な青年の歩みの先には、小さな庵がぽつりと一つだけ建てられている
ぴしゃりとその扉がその身体を飲み込むと、それを境に、血反吐を吐いてまで浜に立ち続けていた彼は、ぱったりと姿を現さなくなった。
動きの無くなった夢の中、成り行きを見守るしかなかった一行は、白色が珠を拾い上げたのを合図に気まずい沈黙のまま誰ともなく前を向くと、重い足取りで浜に上がる。何事もなかったかのように白く輝く砂に足を置いた瞬間、言い知れない違和感に襲われ、彼らはお互いに顔を見合わせた。
なにかの境を通り過ぎたように、海の中とは違う空気に全身を包まれ、ネムと黒色に支えられた篠原が呻く。
「嫌な予感がする……」
「篠原、お顔の色が死人に戻ってますよう」
「敏感になるのは番犬としていいことかもしれないが、過敏すぎるのも困りものだねェ。ほら、そこの木の所で二人で待っておいで」
苦笑した白色に背中を摩られ、蒼い顔に朱を登らせるという器用な表情をした篠原をネムに任せ、異形二人は粗末な庵に近寄った。
閉ざされたまましんと静まり返る庵の扉を前に立った白色は、躊躇なくその粗末な木戸を開け放つ。
太陽の光に曝け出された薄暗い室内は、人の出入りのない場所独特の淀んだ空気に満たされている。ほとんど欠片しか残っていない蝋燭の芯、小さな火鉢の中に炭は無く、隣に敷かれた布団には、長く誰も寝ていないのかうっすらと埃が見えた。
静まり返った部屋の主はその一番奥、こちらに背を向けて大きな窓の前に座っている。
「害のあるものはなさそうだけど、いっそ見事に辛気臭いねェ」
「随分と黴くせぇな。まるで何年もほったらかしの部屋みてぇだ」
口元を着物の裾で覆い、どこか楽しげに白色は部屋の中を歩いていく。その後ろ姿を見ながら、黒色は酷く胸をかき乱す記憶にその顔を小さく歪めた。
「黒いの、こりゃあ駄目だねェ」
駆けられた声に慌てて顔を上げる。ひらひらと振られる白色の細い手の先を辿ると、微動だにしない青年の背中とぶつかった。
乾いた音をたてる紙を避けて近寄れば、そのやせ細った顔が目に入る。
片手で頬杖をつき、緩く瞳を閉じた思案顔で、窓の外、海の方を見つめる彼。今にも動き出しそうな姿のまま、彼は既に事切れていた。
不気味な程整然と整えられた机の上には、使いかけのインク壺と万年筆、小さな升目の紙。そして、とろりと溶けるような乳白色の珠が乗せられていた。
暖かな色合いの小さな珠は、その大きさに似合わない異様な存在感を放っている。
その珠のすぐそばには青年の片腕が添えられていたが、肘から下が何故か、ぺたりとふくらみの無い着物の布だけになっていた。
淀み、なにも映さない青年の目の先を辿れば、窓の外にはつい先ほどまで延々と通い続けていたあの浜が見える。静かに机から視線を上げ、しばらくそちらを見ていた黒色は、にたにたと笑っている白色を振り返って小さく肩を竦めた。
「こりゃあ、この兄さんの夢の中かい」
黒色の背後、誰ひとりいなくなったはずの浜に、目の前にいる青年が立っている。その姿は海の中から見た時と同じように微動だにせず沖の方を向いているが、ひとつ違うのは、その視線の先にほんの微かに紫色の輝きがあることか。
遠くに少しだけちらつく、太陽に照らされた鱗が揺れるのを、浜の青年は静かに見つめ続ける。悲しげに眉を寄せ、それでも酷く穏やかなその表情に、白色が頭の後ろで腕を組んで天井を向いた。
「そのようだねェ。おおかた最初に人魚に死なれたのが信じられなくて、正気を失っちまったんだろォ。そんで夢の中に勝手に理想を創り上げちまったんだろうよ。この中なら、人魚は永遠に自分に逢いに来てくれるもの。顔まで見える程強くは願えなかったようだけどサ」
「どうしても、お互い相手がいなくなるのが我慢ならなかったのか……。本当に、恋に溺れた輩は同じようなことばかりする。俺は頭が痛くなってきたぞ」
こめかみをぐりぐりと指で摩りながら、黒色は眠るように蹲った青年を眺める。夢を行き来する白黒には、この夢が出来た時の事がおぼろげながら見えていた。
+++
不治の病に侵され、死を待つばかりの青年が、幼い人魚と出会ったのは随分と昔。
互いに誰も寄り添う人のいなかった二人が、唯一無二の存在になるにはそう時間はかからなかった。
青年の死の病に怯え、寄りつく人などほとんど無かったこの浜に、二人の逢瀬を邪魔するものなどひとつも無い。言葉どころか種の垣根すら超えて育んだ想いは、しかし。
真っ白い砂を黒く汚した青年の血によって、いとも簡単に崩れてしまった。
「自分を助けるためだってェ、珠を胸から引きずり出して、可愛い人魚が死んだことを認められなくて、この兄さん、その事実を記憶から消しちまったんだろうねェ。想いあってた相手が急に手のひらを返したみたいに自分のことを見なくなって、その悲しみであの人魚はその最期の記憶に囚われちまったんだ。兄さんご本人はそんな事忘れておっ死んだ後も頭ン中の人魚と遊んでたようだけどサ」
青年を生かしたい一心で差し出した心臓を目の当たりにした時、青年に上げられた悲鳴に人魚は怯え、けれどその意味が分からずに、死んでなお夢の中で自分を見ない青年に珠を受け取って貰おうと延々その胸を引き裂き続ける。
青年は人魚が死んだ事実を受け入れられずに、幻覚の海に人魚を作り出して、その幻に沈んだままここで静かに息絶えたのだろう。
普通なら死に際に見た儚い夢で終わるはずだった青年の幻は、人魚の夢もどきに引き摺られ、その裏側に張り付くように今までこうして繰り返されてきた。
「そりゃあ……兄さんにしてみれば、誰にも邪魔されなくて、この上なく幸せだろうなぁ」
ぼそりと呟かれた黒色の言葉に白色が返事を返すより早く、その黒い頭は木戸を振り返り、外で様子を伺っていた篠原とネムを呼ぶ。
随分顔色を普段通りに戻した篠原は、部屋に入るなり青年の違和感に気付いたのか、嫌そうな顔で扉の横に立ちどまった。
その隣を通り過ぎ、ひょこひょこと窓際まで近寄ったネムが、外に見える影と青年を見比べて瞬きをする。
「先程の方……でございますよね?」
取り乱し、浜から消えたはずの青年がまたそこにいることに、ネムが混乱して異形二人をふり仰いだ。ほんのり苦笑した黒色は、子供に言い聞かせるようにその視線を下げる。
「要はな、浜と海、そこで夢の持ち主が変わったんだ。海から上がった時、妙なもんに包まれたろ? あそこで人魚の夢からあの兄さんの夢に、世界が切り替わったのさ」
「海の中から見た泣き喚く兄さんは、あのおちびさんが最初に珠を引き摺りだした時の記憶だよォ。あの姿が、本来現実に起きたことなんだろうさ。今窓から見えてる兄さんは、本人が勝手に作り出した幻」
ゆるりと空中に胡坐をかき、ネムの手ぬぐいを弄びながら、白色は目を細めた。袂から海を固めたあの珠を取り出し、窓の光に透かしてみせる。
「人魚は兄さんが生きてくれるのを、兄さんは人魚が生きてくれるのを、それぞれ願って夢に見てるのサ」
「起きちまえば現実を見なきゃならないから、か。そんなことになってでも、逢いたいものなのかね」
「現にそうだからこそ、こうしてこんなでかい夢もどきなんぞ創り上げちまったんだろうな。しかし、これで出口が見つかった」
木戸の横で腕を組んだ篠原に、黒色がほんのり眉を下げて頷き、今度はネムに髪を結わせて遊んでいる白色を振り返った。
驚きに目を丸くした篠原にいつもの笑顔を見せた白色は、ちょいちょいと指で彼を呼ぶ。
「逢えないのなんのと明後日向いて言ってるのが悪いんだ。逢わせてやりゃあ、万事解決ってェ事だろ?」
「おい、白! やめろ首が……!」
警戒気味に近寄ってきた篠原の服を掴み、白色の手がその胸に伸びた。細い身体からは信じられないような怪力に、篠原は何をされるのかと顔を青くする。
悲鳴を上げるよりほんの少し早く、欠片の躊躇も無い白色の手が篠原の胸に埋まった。
「わあ、手品のようですねぇ」
「種も仕掛けも無いがなぁ」
のほほんと並んでいる真っ黒と合歓柄の二人に、篠原は紙より白い顔で必死の視線を送るが、誰も答えてはくれない。
痛みが無いかわりに身体の中をかき混ぜられるような言い知れない違和感に苛まれ、息も絶え絶えの篠原にけたけたと笑って白色がそこから腕を抜いた。
「ほらほら泣かない泣かない。男だろォ? ほれ、お目当ては見つけたから、もうしないよォ」
「お前、絶対、わざと長く、やったな……?」
息を切らせ、涙を貯めた目で自分を睨む篠原に、白色はやりすぎたかと頭を掻く。そんな白色の手に持たれているのが、あの紺碧の珠だったことに、とうとう篠原の怒りが火を噴いた。
「お前それ、元から持ってただろうが! 持ってただろうが!」
「ちが、たぬき、ちょっと」
鬼の形相の篠原に襟首を掴まれ、渾身の力で前後に頭を振られる白色。押され気味の珍しい姿に、ネムは楽しそうに声を上げて笑っている。
その場にそぐわない明るい声に、黒色は苦笑して一歩後ろ、窓際の青年にちらりと顔を向けた。
「お前さんも、ひとりぼっちから抜け出させてやらにゃあ、な」
一人だけ重い空気の中に取り残されている青年に、黒色は過去の自身が重なって見えるような気がして小さく息をつく。
遠い昔、黒色がまだかろうじて人として生き、無名の字書きと呼ばれていた頃。病の熱に浮かされる中で見た悪夢に、いつの間にかちらちらと混じる真っ白い影があった。
次々と現れる得体の知れないものに怯え、悲鳴を上げて逃げ惑う自分をにたにたと見ているその影が、この悪夢の作り手なのだと気付くまでに、そう時間はかからなかった。
最初のうちはその影を恨み、嫌悪していたはずの黒色が、その心を塗り替えたのは、とある夜。
その日の夢の舞台は、珍しく黒色の自室だった。隔離されるように小さく粗末な庵、その文机の前に、あの白い影が立っている。
あちこち痛み、日に日に動かなくなっていく身体を叱咤して逃げようとした黒色に、初めて影が声をかけた。
「獏の硯箱なんて、随分妙な絵柄だねェ」
「お前には、関係ない」
「余り物で創られた、邪気を祓う獣。そんなに身体は辛いのかえ? まァ、わっちに効きはしないから、どうともならないがサ」
毛を逆立てて声をきつくする黒色に、白は肩を竦めて硯箱を撫でる。その言葉に含まれたこちらを気遣うような素振りに、黒色はぽかんとその顔を見つめた。
どことなくやり辛そうに眉を寄せた白は、そのまま何をするでもなくふっと消えてしまう。随分と久しぶりに穏やかに起きた後も、黒色はその表情の意味が分からずに首を捻った。
「また血を吐いたのかえ? いい加減、もっと良い寝床を誂えたらどうだい」
「今際の際に寝心地がいいのも、悪かないかもしれねぇな」
あの夜から先、白い影は時折黒色に話しかけるようになっていた。その癖悪夢はきちんと見せて来る律義さに、一周回っておかしさがこみ上げる。
愉快犯のように何をするにも唐突な白い影の、意図の分からない優しさ。その気紛れに差し出された手に、生まれてからというもの、独りきりで生きるしかなかった黒色は、自分でも抑えきれない執着を持つようになっていた。
「嫌だねェ。お前さん、見てればなァんも楽しくなさそうな生き様だけどサ、それでいいのかえ?」
「さてなぁ。……未練は、なくもないが」
腕を組んで不機嫌そうにこちらを覗き込む白い影がどうしてか同じように自分を気に入り、同じ側に引き摺りこもうとしている事に、黒色はとっくに気付いていた。
「言えば、お前さんが連れて行ってくれるのかい? 白」
にこ、と黒色の顔が歪む。その言葉を待っていたとでも言うように、目の前の白色は蕩けるような表情で躊躇なく黒色の首に手を伸ばした。
全てはお互いの離れがたい思い故。ひとりぼっち同士が、ずっとずっと一緒にいるために。
「ほらほら、いい加減帰らねぇと、本気で雑ざりの特大雷が落ちるぞ」
遠い過去の記憶から意識を戻して、黒色はいつも通り、困ったような笑顔で騒がしい三人を振り返った。とりあえず気が済んだのか、渋々と襟首から手を離した篠原の前に、ぐったりと白色が伸びる。
珍しくまだ笑っているネムの頭をひとつ小突いてから、黒色は伸びた白色の手を取って、その中に握られていた蒼い珠を拾い上げた。
「狸憑き、白いのが持ってたのは、夢の中でできた幻。お前さんが骨董屋の前で触った、こっちの方が本物だ。だからお前さんから貰わないと意味が無かったんだよ」
「本物の珠があれば、ここから出られるのか?」
ころころと手の上で珠を転がし、不満そうに白色を睨む篠原を宥める。あえてその胸をこねくり回したのは意味の無い嫌がらせだっただろうとは言わず、黒色は首を縦に振った。
「互いを探して彷徨ってるなら、引き合わせて繋げてやればいい。人魚のはこの珠。兄さんのは……」
「ま、これってとこだろうねェ」
篠原の針のような視線と、頭を振られて回転する世界から逃げ出すように、白色がひょいと青年の机から丸い物を取り上げる。
それは、青年の手の先に置かれていたあの乳白色の珠だった。
初めて見る溶け落ちそうな色合いのそれに、ネムが小さく歓声を上げる。篠原も、白色を睨むのを止めて転がすたびにゆるりと揺れる珠を見つめた。
全員の視線がそこに集まったところで、勿体ぶった調子で白色がひとつ咳払いをすると、珠の乗った白黒の手がゆっくりと重なる。
「さ、もうこれで、離れ離れにならないよ」
どこまでも優しい黒色の声と共に、二つの珠から淡い光が放たれた。
さらさらと小さな音をたてて、庵が床から崩れていく。驚いて足を上げた篠原とネムは、そこが木の床から白い砂浜に姿を変えていくのを息を飲んで見守った。
さらさら。白く輝く砂浜から、深い青へ。
濁りの無い白浜の先。誰もいない凪いだ海に、きらりと紫色の鱗が翻る。嬉しそうに水面から顔を出し、こちらに向かって手を差し出す幼い人魚の細い指を、きらきらと瞳を輝かせて浜に立つ青年の掌が柔らかく包んだ。
海水に着物が濡れるのも、日の光に体が渇くのも、今の彼らには欠片の障害にもなりはしない。
ようやく巡り合えた片割れに、彼らは全身で喜びを叫んでいた。
「夢と現実、二手に別れてるなんざ、たとえ同じ場所でも鏡の表と裏で待つようなもんだ。そりゃあ、いっくらやっても会えないよ」
「まったく、不憫で滑稽な子達だよ。すぐ隣をきちんと見てやりゃ、もっと早くに会えたろうにネェ」
この世のものではない美しい光景に、思わずため息をついた篠原の耳に、小さな白黒の声が飛びこむ。多くの夢を渡り歩く二人だからこそ、余計にこの歪な世界が哀れに見えていたのか、皮肉を漏らす口元には小さく微笑みが浮かんでいた。
「さ、これで夢はおしまい。ここはもうあの二人だけの世界だ。俺たちはお暇するとしよう」
こちらを見ている篠原の頭を緩く撫で、黒色はその手をとって歩き出す。隣には同じように白色に手をひかれて歩くネムが並び、名残惜しげに後ろを振り返っていた。
ちらりと篠原がネムの視線を追えば、幸せそうに微笑む二人が遠く幻の浜に立つのが見える。
「お二人とも、ひとりぼっちでなくなって、ようございました」
「ああ。そうだな」
にこにこと嬉しそうなネムにひとつ頷き、篠原も前を向いた。真っ白の世界の先に、細い路地が見えている。
何も無い空間から踏み出したそこは、見覚えのある扉の前だった。
随分と見慣れた薄暗い場所に、今日は酷く安心するとほっと息をついた篠原のあからさまに安堵した顔を見て、手を引いていた黒色が笑う。
「無事戻って来れて良かったなぁ。狸憑き」
「貴重な体験だったのかもしれないが、もう二度とごめんだぞ……。どうしてあんな珠がここにあったんだよ」
げっそりとやつれた篠原に心配そうにネムが歩み寄り、後をついてきた白色がこれ見よがしに腕を組んで口元を歪めてみせた。
「本物の珠は、あの兄さんに拾われないまま浜に取り残されて、巡り巡って雑ざりのもとに辿り着いたんだろ。引き込まれやすい奴はこうやって出口の無い夢の中で彷徨い続けるなんて、いかにもあの店に届けられそうだろォ?」
「曰くが強ければ強い程、どうも先生の元に集まって参りますからねぇ」
「この上なく嫌な情報をありがとう、ネム」
実に嫌そうな顔で、篠原はネムの額を八つ当たり気味につつく。じゃれ合う二人を微笑ましげに見つめていた黒色が、慰めるように篠原の肩を叩いた。
「なんにせよ、二人一緒になれて良かったじゃねぇか。ほれ、もう中に入るぞ」
すっかり日が落ち、真っ暗に沈んだ道からぞろぞろと連れ立って鳥避け板を鳴らした篠原は、暖かい光が溢れる店内にゆるりと肩の力を抜く。
へたりと近寄ってきた椅子に身体を預けた所で、白色が懐から取り出した二つの珠が目に入り、思い切りその身体を飛び上がらせた。夢の中にあったはずのそれが、何故ここにあると言うのだろう。
「ああ、これかえ? あの夢は、この珠が二つ揃ってさえいれば、夢の中だろうと現世だろうと、どちらにあっても変わらないんだよ。だったら、ここにこうして飾っておいた方が、見栄えもいいだろォ?」
白色の手の上で、二つの珠がランプの光に包まれて輝くのは確かに息を忘れる程美しいが、篠原はどうもその珠が放つ妙な気配が気になって仕方ない。
「……なあ、結局、この白い方の珠はなんなんだ? 綺麗だけど、なんとなく見てると寒気がするんだが」
「おやま、最近勘が良くなってきたねェ狸。ご明察。そりゃ兄さんの骨だよ。あの庵に座ってたの、片腕の肘から下が無かったのに気付かなかったかえ? 人魚が死んだってことを認められなくても、奥底では分かっちゃあいたんだろ。片腕無くした不自由な体でせっせと磨いたんだろうさ。せめて人魚と同じ形になりたいってネェ。美しい話じゃないか」
うっとりと見つめられた乳白色の珠が、とろりとその色を濃くし、そんな珠を見つめて感動しているらしい白色に篠原の顔がみるみる青くなった。それが出来上がるまでが一体どれほど壮絶だったか想像してしまった彼は、無意識に二、三歩後ずさる。
美談と信じて疑わない白色は、そんな篠原に口をへの字に曲げると、珠を持ったままずいずいと近寄って文句を言った。
「なんだい、そんな気味の悪い物を見る目で。良い話じゃないかえ?」
「いや、そもそも始まりが恐ろしくてそれどころじゃねぇし! 白! こっちにそれ近づけないでくれ!」
いくら美しくても、悲しい恋の物話があっても、それだけで恐ろしい生み出され方をした人骨を愛でられる程篠原は異形たちに感化されていない。顔を引きつらせて逃げようとした彼の肩を、慰めるようにぽんと後ろから黒色が叩いた。
「狸憑き、そう喚いてやりなさんな。この二人には、きっとこれで充分なんだよ」
「黒!? お前までそういう事言うのか!」
宥めるような黒色の呟きに篠原が目をむく横で、白色はひょいと眉を上げた。珍しく黒色と話が合ったのが嬉しいのか、その尾はゆらゆらと機嫌よさげに振られている。
嬉しそうな白色から人魚の珠を受け取った黒色は、それを手のひらに包み込み、ふっと短く息を吐く。細い指がどかされたそこには、紫色の鱗を煌めかせた作り物の人魚が座っていた。
昼になると、一番日の差し込む場所に据えられた棚の上へ、黒色がそっとそれを置く。隣に並んだ白色が、乳白色の珠を人魚に抱かせ、にい、と器用に片方の口角を上げて見せた。
「珍しい事もあったもんだねェ。黒いのはいつもわっちのいう事にはしぶーい顔しかしないのに」
「そりゃ、周り諸共巻き込んで、どん底まで堕ちようとする輩には顔も渋くなるってもんだろうが。ただ、なぁ」
ちらり、投げられた視線の先には、愛おしげに乳白色の珠を撫でる人魚の微笑み。光の具合か、それとも黒色の望みなのか、その顔が幸福で泣きそうに見えた気がして、すっと視線を片割れの白に戻す。
「ずうっと求めたものに巡り合って、もう一人で泣かなくて済むなら、さ。あの二人にとってはそれだけで幸せなんだろうよ。それに――」
「ひゃあ! 男前な良いこと言うじゃないか、黒いの!」
黒色の言葉を遮って、喜色満面、白色が嬉しそうに手を叩く。跳ねるような足取りでまだ唸っている篠原に突撃し、きゃっきゃとからかい始めた白色を視線で追いながら、黒色はゆるりと笑みを浮かべた。
最後に飲み込んだ言葉は、やはりじっと自分の胸に秘めておこうと思う。
「一人ぼっちじゃねぇのなら、もうそれでいいんだよ。白」
たとえそれが、人として死んだ後だったとしても。
遠い過去を思い出して、苦笑ひとつ。雁字搦めに互いを結んだ鎖の先を握っているのは、果たして白か黒か。
今度は何で張り合っているのか、余計に騒がしくなった二人の間に乗り込む黒色を、後ろから人魚の瞳が笑って見ていた。
人魚 群れからはぐれた幼い人魚。妖の常識も人の生き死にもよく分からないけれど、字書きと二度と離れたくない。
字書き 春彦という名の病弱な青年。人魚のことを心から愛している。自分の死よりも彼女を失うことだけは耐えられない。




