道化師と少女の話
店主が昼寝に勤しんでいる間、骨董屋は恐ろしいまでに暇だ。
こんな路地の奥深く。まして置いてあるのはいわく付きかガラクタばかりのこの店に、普通のお客が来るはずもない。
「なあネム、この掃除に意味はあるのか」
「特にございませんよ」
ざりざりと竹箒で土をかき回し始めて、一体どれほど経ったのだろう。
いっそ店の玄関までなくなるのでは、というほどえぐり続けたというのに、ネムの言葉は酷くあっさりとその苦労を無駄にしてくれた。
「他にやることなかったのか、ネム」
「部屋の中はもう三度も掃除してしまいましたし、八つ時にはもう遅うございますよ?」
「そういう事じゃなくて……」
特に疑問もない様子で首を傾げるネムに、篠原の胃の方が痛くなってきた。どうやらこの閑古鳥の大合唱は、特に珍しい事でもないらしい。
今まで自分が連日延々と白黒に追いかけ回されていたのが、どれほど珍しい状況だったか。いや、むしろこの状況だからこそあそこまでしつこくからかわれたのか。
ネムの言葉から気付きたくも無かった事実に行きついた篠原は、竹箒を支えにしてその場にうずくまった。
「篠原、掃除、お嫌でした?」
「いや、うん。良いんだ。気にしないでくれ」
心配そうに少しだけ眉を寄せたネムに、中に入れば入ったで、よく見える目を持った自分は厄介な古物たちにまとわりつかれるしかない。自分の苦労ぶりに、篠原の喉が乾いた笑いを漏らす。
そんな彼に、一応友人たるネムが重ねて声を掛けようとした。
「あー! ほんとにあったあ!」
「ウソじゃなかったんだ。やだぁ気味悪い!」
路地に似合わない、甲高い声がネムを遮る。
しゃがみこんでいた篠原も、あまりにも場違いなその声に、何事かと顔を上げた。薄暗く、更に宵の闇に沈み始めた路地に、ひらひらと紺の布が揺らめいている。
白い太股を晒して、少女が数人、媚びるような顔でこちらを見ていた。
「お客……か?」
「さて、ねぇ」
首を傾げた篠原に、ネムがほんのり笑って答える。
ジト目の篠原が口を開こうとする前に、少女たちの目が獲物を狙う猛禽のように輝いた。
「あの、お店の人ですかぁ?」
「アドレスとかって貰ってくれますか?」
それなりに整った顔立ちで、それなりに異性に評判の篠原に、甲高い声の少女達が群がる。胸の辺りできゃいきゃいと騒ぐ、小さな頭におろつく篠原を横目に、少女たちの眼中にないネムがすたすたと歩き出した。
店から離れようとするその背中に、篠原が慌てて手を伸ばす。
「おい、ネム」
「ご依頼主様は、貴女でございますね?」
周りの喧騒をまるっきり黙殺したネムが、小首を傾げて呟いた言葉に、少し離れた影で小さく縮こまって俯いていた少女の肩が跳ねた。
騒がしい取り巻きを表の篠原に押し付け、ネムは俯く彼女だけを連れて鳥避け板の下をくぐる。
珍しく異形の連中もいない静かな店内を横切り、いつも通り二階へ声をかけようとしたネムだったが、後ろからおずおずとついて来ていた少女が、小さく悲鳴を上げた事でその頭を後ろへ向けた。
「どうかなさいましたか?」
「あ、あ、嫌!」
首を傾げたネムに答える事もせず、少女は両手で首を覆って顔を歪めている。
今にも泣きだしそうな切羽詰った顔に、ネムは少女の視線の先をその目で追った。
「道化師の人形が、お嫌なのでございますか?」
震えながら少女が見ているのは、涙と星を頬に浮かべた、小さな道化師の操り人形。
派手な衣装と赤い鼻がどことなく笑いを誘う愛嬌のあるそれを見て、こうも震えあがる理由が分からないネムはきょとんと首を傾げた。
「あ、やだ、やだぁ……!」
「こらネム。あんまりお客をいじめちゃあ駄目だろう」
怪訝な顔のネムの目を手のひらで覆って、いつの間にか二階から降りてきた店主がおかしそうに喉を鳴らした。
珍しく自分が何も言わずとも、急に現れた長身にネムは上を向いて瞬きをする。
「呆けていないで、布でも被せておやりよ」
人の悪い笑みで、店主はネムから手を離した。
開けた視界には、青ざめ震えながらとうとう泣き出してしまった少女。ネムは慌ててそこいらにかけてあった派手な羽織を笑う人形の上に被せ、泣きじゃくる少女を宥めにかかった。
「道化師が怖い、ねぇ」
ぷかりと水煙草をふかし、店主は目を細めて未だ赤い目の少女を見やる。人形を布で覆い、それが視界から消えた事で落ち着きを取り戻したのか、少女は店主の言葉にきちんと頷いてみせた。
「ピエロはみんな怖くて……その原因だと思うものを、引き取って欲しいんです。ここはなんでも引き取ってくれるんでしょう?」
少しだけ鼻を鳴らすような涙声でも、はきはきと話す意志の強そうな顔。本来の性格が見て取れるその様子に、ネムは口元だけで微笑んだ。
「その通りでございます。して、なにをお引き取りすれば宜しいのでしょう」
一瞬だけ何かを迷うように目を伏せた少女は、それを振り切るようにネムを見つめて言葉を吐く。涙を拭い、生気を取り戻したその瞳は、ランプの灯りに照らされて爛々と光っている。
「私の夢を、引き取って下さい」
はっきりと告げられた言葉に、後ろに控えていた店主の口角が上がった。
「夢の中の道化師?」
「ええ。ここ何週か、ひっきりなしに夢に出て来てはご依頼主様の首を跳ね飛ばすのだそうで。痛みは無くても怖くて仕方ないから無くしてほしいんだとか。ひとまず打てる手があるのか、白様と黒様にお聞きしようと思いまして、ご依頼主様にはお引き取り頂きましたよう」
「そりゃまあ、確かに随分嫌な夢だな」
しばらく後。すっかり日が落ち、手元も見えなくなりかけた室内を照らすために、ランプの火を強くするネムを手伝いながら、篠原はその言葉にひょいと眉を上げる。
倍も年の違う少女達に圧倒されたのか、すっかり疲れ切って店内に戻ってきた篠原は、ちらりと窺った少女の横顔を思い出してひとつ頷いた。
「妙な奴にでも憑かれてるのか? 目の下の隈、酷かったからなぁ」
自分に構いつつも、ちらちらと店の中を気にしていた他の少女たちを見るに、彼女は随分と慕われているようだった。しかも、幼さすら残す少女がこんな胡散臭い場所に縋るほどだ。さぞその夢は恐ろしいのだろう。
そんな少女の恐怖や悲しみを取り払ってやれるのかと、篠原はわざわざ呼び出されたらしい白黒を振り返る。
何が楽しいのか、にやにやと笑って話を聞いていた白色が、ぽんと一つ膝を叩いた。
「こりゃ面白いもん引き当てたネェ、雑ざりや?」
「さて。中身は見てみないと分からないがね。お前らの専門だ。好きにするといい」
「専門……って、白黒は夢に出入りする類なのか?」
「そうだよォ。夢の世の事ならわっちらに聞けばいい。お望みの幻を見せてやることだってできるよォ。今度とびきりの悪夢でも見せてやろうかえ?」
店主からの言葉にはしゃぐ白色に絡まれ、篠原は冷や汗をかきながら後ろに下がる。ぽこんと黒色に頭を叩かれてもにやにやと自分を見ている白色に、おそらくそのうちとんでもない悪夢にうなされるだろう事を予想して彼はそっと目尻を拭った。
「そうだネム、お前さんも一緒に来てみるかい?」
そんな篠原の悲しみも知らぬ顔で、良い事を思い付いたとばかりに煙草をふかしていた店主が言った。その提案にそわそわと話を聞いていたらしいネムの顔が、ランプに照らされてぱっと綻ぶ。嬉しそうに頷くその姿を見て、少しだけ渋い顔で黒色が腕を組んだ。
「雑ざり、ちっと危なくはないかい? ネムはなんにもできないってぇのに」
「大概の事は私がなんとかするさ。それにこれはあれだよ。狸の訓練さ」
「俺も行くのか!?」
明日の天気でも呟くより軽く、こともなげに不吉な事を言った店主にランプのつまみを握っていた篠原の手元が狂う。吊るした紐まで焼き切りそうな勢いになった炎を慌てて小さくしているその姿に、店主は喉の奥で笑って紫煙を吐いた。
「狸にも荷が重いってぇか、そもそもお前のそれはネムに甘いだけだろうに……」
ぼそりと呟かれた黒色の言葉は飄々と黙殺される。こうなっては梃子でも動かないだろう店主の澄まし顔に、篠原と黒色は同時に吐けるだけの息を胸から吐き出した。
+++
「さてと。黒いのとわっちだけならどうってことも無いが、その他三人様にはちょいと小細工を仕掛けさせてもらうよ。手ぇだしな」
小さな卓袱台を囲んで五人。ぐるりと輪になった面々は、両手をすり合わせてにんまりと言う白色にそれぞれの反応を見せた。
一番初めに素直に手を出したネムの小指に、黒色が懐から取り出した紐を括り付ける。
白黒に分かれた細い紐は、不思議な光沢を放ってネムの指に絡まり、すべすべとした感触を伝えていた。
「ほれ、狸も。お前とネムは特にはぐれでもしたら事だ」
「出来れば行く事そのものを遠慮したいんだがな……」
ひらひらと振られた黒色の手に紐を巻かれつつ、げっそりとした顔で篠原がどこか遠い所を見つめる。容赦なく巻き込まれていくしかない可哀想な彼の手を、慰めるように黒色が叩いた。
「これ、そんな嫌そうな顔しても、雑ざりにだけ結ばないわけにもいかないんだよ。お前さんだけほっぽり出したら御嬢さんの夢そのものが壊れちまう」
隣で最後まで手をひっこめていた店主にもなんとか紐を巻いた白色が、全員を見渡してこくりとひとつ頷くが、その表情はいつもより少し硬い。
「多分狸憑きしか真面目に聞かないんだろうが、一応言っておくよ。その紐はわっちと黒いのの毛で出来た、有体に言やあ道標だ。それが引かれるまで、けして目は開けちゃあいけないよ」
「下手な事して酷い目に合いたくなかったら、ちゃんとついて来い」
――死にたくなければね
わざと声を落とし、怪談話のような雰囲気を醸し出す白黒に篠原はほんのり青くなって首を縦に振ったが、いつも通りの無表情の頬を少しだけ染めてこくこくと頷くネムと、早くも興味を失ったのか欠伸を噛み殺す店主にどっとその身体から力が抜ける。安堵したと言うよりは、完全に脱力しただけのようだ。
「お前らねぇ……ちったあこの反応の良い狸憑きを見習ったらどうだえ」
「小言は良いから早くおし」
顔を歪めた白色の苦言もなんのその。ばっさりと切り捨てた店主に、やれやれと首を振った黒色がその両手を広げれば、胃の持ち上がるような奇妙な浮遊感が全員を包む。
それを合図に全ての瞳が閉じられた瞬間、五人の姿はその場から幻のように解け去った。
小指に結ばれた紐が見えない糸に引かれてぴんと張る。それを感じて目を開けば、そこは一面の赤色だった。
何も無い大きな空間に自分たちの影だけが落ちる。足元から伸びあがり、丸い天井に向けて暗さを増す赤色に囲まれ、言い知れない不気味さにぞっと篠原の背中を寒い物が通り抜けた。
ちりちりと首筋が痛むような緊張感に包まれて、良い目と聡い耳を持った篠原は嫌な予感に腕をさする。
身体の内で毛を逆立てて怒る守護者の気配を感じて、その予感はますます大きくなった。
「無事全員、五体満足でいるようでなによりだ。紐は切るなよ。帰れなくなっても俺はあんまり助けられんぞ」
「夢の世で生きるのも、それはそれで楽しいもんだけどねェ。さァて、肝心のご依頼主さまとやらはどこにいるんだえ?」
篠原の緊張を鼻で笑うように、至って気軽に告げられた不穏な白黒の言葉。
不安を煽るように、頭の奥の方から守護者がしきりと警報を鳴らしている。妙な使命感と不安に突き動かされた篠原は、きょろきょろと辺りを見るのに忙しいネムがどこかへ行かないようにと、その服の裾を握りしめる方に意識を集中させた。
この生まれのおかげで随分危ない目にも遭ってきたが、流石にここまでではなかった。のほほんと無表情を貫くネムの肝の太さがいっそ羨ましい。
「ネム、今からでも遅くないから一度帰らないか……」
「大丈夫ですよう。先生はお強いですし、篠原だって私と違って対応できますでしょう?」
「いや、その「お強い」人は俺には手を出しちゃくれないだろうし、なにより俺は積極的に関わったりは」
特になんの警戒もしていない様子の店主は文句を言う篠原を不機嫌そうな顔で一瞥し、面倒とばかりに背を向ける。
朗らかにも聞こえるネムの声に、青ざめた篠原が一歩前に足を出した。真っ赤に塗りつぶされた空間で、踏みしめた足元は少しだけ沈み、ぬたりと足の裏に何かがまとわりつく感覚がする。
「――店主、ちょっとこれは、本当にまずい方のもんじゃないか?」
「別に狸、お前一人にどうにかさせようだなんて思っちゃいないんだから、そうぐちぐち言うもんじゃないよ」
「そうは言っても雑ざり、これはほんにちいっと厄介だよォ」
限界まで引きつった顔の篠原が、耐えきれずに漏らした言葉に店主がはん、と鼻を鳴らした。
引け腰な篠原の態度にうっとおしそうな様子の店主だったが、人間には感じられない何かを嗅ぎ取ってかその隣で着物の袖を口元に当てて顔を覆った白色すらが眉を寄せた事にその目を軽く開く。
「なんつう酷い臭いだ……。ご依頼主とやらは気は確かか? こんなもん身の内に作り出すなんて、尋常じゃないぞ」
「先生、曲が聴こえますよ」
一番後ろで腕を組んだ黒色が嫌そうに呟き、硬直している篠原の手から逃げてきたらしいネムが、ちょいちょいと店主の袖を引く。耳を澄ませば、一行が足を向けた先から微かに音が流れていた。
音の先はどんよりと暗く、何があるのかを見ることはできない。店主はひとつ瞬きをすると、無言で前に立つ白色に首を振った。肩を竦めた白色は、言われたとおりに奥へと歩を進める。
足に纏わりつく赤色を振り払うたびにぺたりと水を含んだ音がする。一歩踏み出すごとに空気まで重くなる気がして、変わらぬ無表情のまま店主の横に並ぶネムとは正反対に篠原はいっそ泣きそうだった。
「黒、俺とネムだけでも帰してくれないか……嫌な予感で心臓が止まりそうだ」
「そこで俺だけでもってぇ言わないのが狸憑きらしい。俺も雑ざりの無茶には同情するがなぁ。紐で全員繋がってるからちいっと無理だ。一人でも抜ければ全員お陀仏。今見て分かってるだろうが、夢の中は安らかなだけではないし、美しいばかりでもないんだよ。いざとなりゃ多分雑ざりがなんとかするだろうから、もうちっと我慢してな」
小さな子供をなだめるように、しんがりの黒色が篠原の肩を叩く。申し訳なさそうなその声に、それ以上言い募れなくなった篠原は唇を噛んで前を行くネムの手ぬぐいを睨みつけた。
店主の力の強さはよく分かっているつもりでも、怖い物は怖い。ネムのように全てをなげうって店主を信頼するわけにも、己の中にいる守護者を頼るわけにもいかず、篠原は久々に自分の境遇を呪っていた。
そろそろいい年をして泣きそうな篠原の気持ちなど微塵もくむことなく、足はひたすら粘ついた水音を立てて奥へと進む。
音色に向かう一行が辿り着いたのは、ぽっかりと開けた巨大な丸い空間だった。
赤い天井は霞む程高く、向こう側はうっすらと見えるだけの大きなその場所の中央に、ぽつんと一つ人影が立っている。赤ばかりの景色の中で、つるりとした白色はまぶしい程によく映えた。
「夢の中の道化師ってぇと、あれかい」
「オルゴールでしょうか? 道化師様が乗っているのは初めて見ますねぇ」
「ネム、ほいほい近寄るなって」
錆びついているのか時折ぎしぎしと動きを止める台座に乗って、人間と同じか、それ以上に大きな道化師の人形が踊っている。少し離れた場所にいるネム達からはよく見えないが、仮面じみた無表情の上に微笑んでいるかのような化粧をしたその顔は、じっとどこか一点を見つめているようだった。
時々音の飛ぶ音色の正体はどうやら台座から流れる子守唄らしかったが、のっぺりとした道化師の笑顔と相まって酷く不気味だ。
興味津々で道化師に近寄ろうとするネムを引き留め、篠原は鳥肌の立った腕をさする。得体の知れないものを感じ取ってか、白黒も嫌そうに袖で顔を覆っていた。
しかし、待てど暮らせど延々とその場で静かに踊るばかりの道化師に、いち早く飽きた店主がふいっと視線を逸らす。
「真っ赤いのはちと気味が悪いが、これだけなら問題ないじゃないか。白、見立てを間違えたんじゃあないかい?」
「雑ざり、お前さん程の力じゃあそんなもんなのかもしれないがね、間違いなく一悶着あるよォ」
眉を寄せた白色の言葉で、渋々視線を戻した店主に白黒と篠原が呆れた顔をしたその時。
たたた、と小さな足音が聞こえた。
ネムが顔を道化師から向こうへ移せば、そこには寝間着なのかゆったりとした白い服の夏花が息を切らせて立っている。
「ご依頼主様……?」
こちらの事が見えていないのか、夏花は踊る道化師だけを熱に浮かされたような表情で見つめ、弾むような足取りでそのすぐ傍まで駆けてきた。
所々音の外れた子守唄に合わせて、錆びついたぎこちない動きで、星と涙を浮かべた道化師が踊る。
その姿を、台座にかじりつくようにしてひどく安心しきった顔の夏花が見上げていた。
「あの子、あそこで何をやってるんだ……?」
篠原の小さな声と同じ時。
くるくる。お世辞にも美しくは無い道化師の踊りが、ぎしりと一周、こちらを向いた。
何も持っていなかったはずの白い腕が、そっと空から取り出した赤に染まる大鎌を振り上げる。瞬きの間もなく、道化師の足元に夏花の首が転がった。
崩れ落ちる小さな体とその首筋からぱっと吹き上がった真っ赤なものは、途中から赤い花弁に姿を変えてはらはらと舞い、赤い空間を更に染める。
てんてん、と鞠のように足元に転がった夏花の首を、ぜんまいの音を立てながら道化師が掬い上げた。宝物のように胸に抱き、そこで初めて道化師の凍った顔が動いた。
化粧で無理矢理笑っていた顔が、本当の笑顔で幸せそうに綻ぶ。柔らかに波打つ髪に頬を埋めて、ゆっくりと目を閉じる人形に答えるように夏花の閉じていた瞳が開き、擽ったそうに笑った。
ゆっくりと道化師の手が髪を梳く。甘えるようにその胸に頬を寄せた夏花は、赤く染まった唇を震わせて道化師に声にならない告白を紡いでいるようだった。
仕草だけ見れば再開を喜ぶ睦まじい恋人同士そのもののその光景は、しかし夏花の露わになった喉から零れる花弁のためにまるで狂気じみた絵画のようで。
道化師の服を、白い台座を濡らし、瞬く間に広がって行く花は横たわる夏花の体を飲み込んでそのうち地面へと消え、そこで一行はこの赤い空間の意味を理解した。
この空間の赤色は、全てこの血の花でできているのだと。
「う……」
美しくも恐ろしいその光景に、知らず半歩ほど篠原の足が後ろへ下がる。青ざめ、よろけたその肩を黒色が叩いて正気に戻す間に、遮るように前に出た白色が心底愉快そうに口角を上げた。
「こりゃまた、なんとも好い趣味してるネェ。一夜に何度首を刎ねればここまでになるのか知らないが、これは一体どちらの嗜好だい?」
「楽な依頼と思ったら、とんだ大物が控えてたようだ。ネム、そこの震え狸と一緒に下がっておいで」
薄暗い微笑みを浮かべた店主の声に、一層ぬかるみを増した地面を踏みしめた篠原は、ネムの首根っこを引っ掴むようにしてその場から離れる。
店主に言われたのが効いたのか、残念そうにしながらも大人しくついてきたネムを背中側に立たせ、篠原は道化師と睨み合う店主を見つめた。
「そのお嬢さんがお前さんと離れたいそうだが?」
どこからか取り出した煙管を唇から離して店主がゆるりと道化師を指せば、彼は腕の夏花を庇うように拘束をきつくしてぎこちない動きでその瞳を覗き込む。
悲しそうに光る硝子玉に、夏花は耐えきれなくなったのか視線を外した。その仕草に、道化師は大げさに顔を仰け反らせて震える。
ぎちりと鎌を持つ手がきつくなったことに警戒して身構えた一行に、しかし道化師はそれ以上動こうとしない。
「ご依頼主様。本当に宜しいのですか? 後悔など、なさいませんか……?」
引け腰の篠原に庇われながら小さく呟かれたネムの言葉に、それでも夏花は花弁の零れる口元を歪めて、瞬きをひとつ。それを見ていた道化師は、静かに一筋、光るものをその頬に流してそっと夏花をその身体から離した。
「なんだい、余興程度にゃなるかと思ったのに、拍子抜けだよ」
幸せそうだった二人は見る影も無く、覚悟を決めたようにこちらを見つめる道化師に、店主はつまらなそうに一息深く煙草を吸い込んで細く細く吐き出した。
道化師の体の中で、歯車がぎちぎちと嫌な音をたてる。離れた場所で一塊になった黒色と篠原、その後ろで首だけ伸ばしたネムの所まで、弦の切れる音が聞こえる気がする。
もはや音でもなくなった悲鳴のような子守唄が、一際長く尾を引いて、ぷつり。
静まり返った後には、生気を失った硝子玉をこちらに向けて、道化師だったものが台座に折り重なるように積まれていた。
辺りは耳鳴りがするほどの無音に囲まれ、最期まで大切に胸に仕舞い込まれていた少女の首だけが、そこに転がって不気味に空間を彩っている。
汚れた無機物に成り果てた道化師を見つめ、夏花は口からはらはらと花弁を零した。歪んだ瞳から今にも雫を落としそうな表情で、その首はずるりと赤色に沈んで見えなくなる。
「おい、あれ、大丈夫なのか……?」
悲痛な顔で消えた夏花のいた場所を眉を寄せて見つめ、壊れた道化師と赤黒い空間だけになったその場で篠原が恐々呟いた。
音の無いがらんどうの中、ぐしゃりとひしゃげた道化師に向かって店主が細く煙を吐く。その吐息が触れた場所から徐々に形を無くし、ざらざらと砂になって消えていく巨大な人形は、表情など無いはずなのに悲しみに顔を歪めているように見えた。
「あんな顔するくらいなら言わなきゃいいものを。人ってのはよく分からないね」
「起きているときはあんなに嫌がってたのに、どういう心境の変化だい? まるで話が違うじゃないか」
「あの様子じゃあどうもこちらの方が本当に見えたけど、どうだろうな……」
主役たちのいなくなった赤い夢の中、呆れた声の店主に答えて篠原と黒色が身震いをする。どちらの彼女が本当なのか、彼らには分からなかった。
「どちらにせよこの依頼、これで仕舞いにゃあ――ならないだろうネェ」
夢の住人がいなくなったせいか、急速に空間は色を無くして壊れていく。外へ出ようと一行を急き立てながら、彼らの見えない場所で薄らと口角を上げた白色が、崩れ落ちる世界を横目に小さく呟いた。
白色の言葉が真実になったのは、それから二週と経たぬうちだった。
息を切らせ、髪を振り乱し、明らかに尋常ではない様子で、夢の持ち主だった夏花が店に飛び込んできたのだ。鳥避け板を跳ね除けたあの少女の姿は、まるで幽鬼のようにやつれ、目ばかりがぎらぎらと光る酷い有様だ。
芯の強そうな可愛らしい少女の名残がかけらも無いその様子に、たまたま一番扉の近くにいた白色すらが顔を引きつらせる。
「ご依頼主様、一体どうなさったのです?」
「かえして!」
困惑気味のネムの声もほとんど聞こえていないのか、夏花は射殺しそうな程店主を睨み、上ずった声で叫んだ。
喚く夏花にちらりと視線を寄越したきりで、ネムを横に座らせてその手ぬぐいを手慰みに弄るばかりの店主の態度に、彼女の目がいっそう狂気を帯びる。
髪を掻きむしる手は首にかかり、赤く蚯蚓腫れが出来る程そこに爪を立てて、彼女は血を吐くような悲鳴を上げた。
「かえして! あの人をかえして! どこにもいないの……人形沢山集めたのに、あの人だけどこにもいないの……! あなたが隠してるんでしょう!」
血走った目で店主に詰め寄ろうとする夏花を、あまりの事に小上がりの前で固まっていた黒色と篠原が止めに入る。大の男二人に抑え込まれようとしていると言うのに、その身体はそれすら跳ね除けそうな勢いだ。
「かえして……かえしてよう……」
腕にかかる力に抗うように潰れた声で唸る夏花の脳裏に、自身の部屋が浮かぶ。
あの夢を見なくなってから、夏花の中で変えてはいけない何かが変わってしまった。
赤色のかけらもない平凡な夢から醒めた後に思い出すのは、あの優しい微笑みと真綿のように柔らかで温かな言い知れない安心感。目についた「彼」によく似た人形を足の踏み場も無い程集めに集めても、その優しさはけして戻ってこなかった。
足元がざりざりと音をたてて引き摺られるほどの怪力に、抑え込んだ二人の顔が強張る。鬼の形相が間近に迫ったところで、ようやく店主が口を開いた。
「そうかりかりしなさんな。御嬢さん。それにお前さん、自分で言ったんだろう? 怖い、いらない、消してくれ……私の思い違いかい?」
「言った、けど……でも、でもやっぱり違うの! あの人がいないのがこんなに悲しいのに、苦しくて仕方ないのに……!」
視線だけで責めるように見つめる店主に、夏花は喉元を押さえてその場で泣きじゃくる。とめどなく溢れる雫は、まるであの夢の赤い花弁のように夏花の顔と床を濡らした。
「私が間違っていたの。私が怖かったのはあの人じゃない。あの人じゃなかったの……」
がくりと夏花の小さな体から力が抜け、その場に蹲る。離された腕で白い喉に新しい赤色の傷を付けながら、夏花は失くしてしまったものに向かってひたすら謝り続けた。
あの夢を見るようになったきっかけは、夏花本人もおぼろげにしか覚えていない。
確か、学校で嫌なことがあって、泣きながら眠りについたのが始まりだった。
何も無い真っ白な空間で、ひたすらくるくると踊り続ける道化師を見つけ、その顔を一目見て誘われるようにふらりと側に寄る。
その瞬間、甘い甘い微笑を浮かべた道化師の大鎌で、首を跳ね飛ばされた。
床に叩きつけられた衝撃も、道化師の冷たい指が髪や頬を撫でるのも、まるで現実のように感じるのに、痛みと花の温度だけが無い。
そんな異様な空間で、恐怖で悲鳴すら上げられずに赤い花を零しながら、それでも夏花は奇妙な安心感で心をいっぱいにしていた。
夏花だけに向けられる、蕩けるような道化師の微笑み。夏花だけしかいらないのだと、夏花だけを愛しているのだと全身で伝える道化師の仕草。その感覚は、どろどろに溶けた蜜のように甘く深く夏花を縛りつける。
「もうあの人と離れていたくないの。ひとりぼっちになりたくないの……!」
夏花が恐怖していたのは、首を刎ねる彼ではなく、いつか夢が夢として、自分の前から消える事だった。
「……ご依頼主様、本当に、それで宜しいのですか?後悔など」
「そのためだったら、なんでもできるわ」
店主の横で小さくネムが呟いた、いつかと同じ言葉を遮って、一瞬の間も開けずに鋭い返答が返される。熱を取り戻した夏花の瞳を見つめて、店主はくっとひとつ喉を鳴らすと扉の横に控えたままの白色を指で呼んだ。
貼り付けたような微笑みの白色は、無造作に床に投げ出されていた派手な羽織を手に取って夏花に近寄って行く。にたにた笑いの不気味なその顔に、篠原の足が知らず後ろに引いた。
そのせいで開けた蹲る夏花の前に、足音も無く膝をつくと、白色は一際ゆっくりと羽織をどかしていく。
白色の手に乗せられているのは、大きさこそ小さいものの、微笑みの形に紅をひいた道化師の立つあの時のオルゴールそのものだった。
「ああ……!」
夏花が歓喜の声を上げ、震える両手でその小さな道化師を受け取る。大切に夏花の胸に抱きしめられた小さなオルゴールからは、どこか外れた優しい子守唄が流れていた。
「ご迷惑をおかけしてしまって、本当にごめんなさい。もう、間違えませんから」
来た時の狂気は欠片も見えない明るく無邪気な顔に、笑みすら浮かべて告げた夏花は、ひらひらと手を振る白色に礼儀正しくひとつお辞儀をすると、静かに骨董屋の扉をくぐって行く。
あまりの変わりようについていけずに、ぽかんとした顔のままそれを見送った篠原に、ネムの髪を弄りながら店主はにたりと煙草を齧った。
「さぁて。これにて一件落着、かね?」
胡散臭い事この上ないその言い草に、答えを返す者はいなかった。
+++
「そういやこの間、道であの夢の子とすれ違ったけど、随分楽しそうにしてたぞ。あの時の半狂乱は本当に怖かったが、憑きものが落ちたみたいにえらい元気が良くてさ……。あんな悪夢だったのに、あのオルゴールがある方が気が落ち着くのかね」
あの道化師の人形が引き取られて少し。またも店の掃除に精を出していた白黒に、机を拭きながら篠原が呟いた。
大通りで友人に囲まれ、年相応の愛らしい笑顔で騒々しく自分の横を通り過ぎて行ったあの少女。その顔からは不安も悲しみも消え去っていたように見えて、改めて篠原は胸を撫で下ろす。
あれだけ恐怖を味わったというのに、それでも少女を気に掛ける篠原の優しさと、心底嬉しそうなその顔に白黒は顔を見合わせてなんとも言えない表情をしたが、浮かれ気味の篠原は気付かない。
「……ありゃそんな簡単に逃げ切れるような、根の浅い関係だったかね」
「あの子にとっちゃあ、「彼」の傍が生きる場所だからねェ。どうだか」
ふいっと横を向いた白色と、わざとらしく天井に視線を向けた黒色が呟いた言葉を聞き取れず、篠原は首を傾げて聞き返そうとした。
しかし、丁度よく外からかけられたネムの声に気を取られて、彼は聞き取れなかった言葉を忘れてそのままその場を後にする。異形だけが動き回る店内に、ぷかりとひとつ煙の輪が浮かんだ。
歪んだ空間から静かに卓袱台の前に現れた店主は、無知な篠原の言葉にひとしきり喉を鳴らす。
「ま、憑きものってもんでもないが、自分の心を偽るための恐怖心は落ちたろうねぇ。あの御嬢さんが引き取って欲しかったのは、しがらみを捨てきれない自身の心さ。一度捨てた恋心に失くしてから気付く……悲恋劇の定番だろ? あの調子なら切れた弦も外れた歯車も、早々に元通りにしちまうんじゃないかねぇ」
「よく言うよォ。それなりに形戻して返した癖にサ」
視線を外したまま笑った白色の言葉に、店主はばれたかとでも言うように首を引っ込めてくすくすと肩を震わせた。
「いやぁ、それが「ご依頼主様のご要望」だろう?いつまでも好いた相手と二人きり、睦言を呟く世界にいたい、ってね。ネムは今度こそ幸せになれるだろうって喜んでたが、事実その通りじゃないかい?」
「幸せ、ねぇ」
水煙草を噛む店主の細められた目を見て微かに困ったような顔をした黒色が、やれやれと天を仰いで小さく嘆息した。
きりきりと歯車の軋む音。どこからか、哀しくなる程に穏やかな子守唄が聴こえる。
ひと月ほど後。
夜が来るのが待ち遠しいと頬を染めて眠りについた少女が一人、二度と夢から戻らなかった。
道化師 夏花を愛するためだけに生まれた夢魔。自分から離れる体なんていらないよね?
夏花 恐らく起きるのは夏花だけを愛する道化師に愛想をつかされた時。




