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狸憑きとネムの話

 大きな大学でも、早朝の廊下というのは普段より格段に静かなものだ。

 こつこつと踵を鳴らして、ネムは校舎の中を進んでいく。


 まばらにすれ違う人間は前方から来る人影に顔を上げるが、相手がネムだと分かった途端に火が消えたように興味を失って顔を外へ向けた。

 ネム自身が嫌われている訳ではなく、ネムの存在そのものがあまりにも薄いために、ほとんどの人間はそこにネムがいた事を忘れてしまう。壁や窓がそこにあっても、注視する人間が稀なのと同じ事だ。

 一瞬で意識の外に追いやられたネムは、けれど特に気にした様子も無くすたすたと涼しい顔で歩を進める。

 周りがネムに興味を持たないのと同じように、ネムにとっても彼らははるか意識の外だった。


「おう、おはよう」

「……うん」


 しかし、どこにも例外はいる。目的の部屋の前で、その例外がネムの顔を見てにこりと笑った。

 いっそ不細工の方が印象に残りそうなほど周囲に埋没するネムを、しっかりと見つめて手を振る数少ない友人。

 ネムの頭ひとつ上で、それなりに整った顔が目を細めている。今どきというにはほんの少しあか抜けない愛嬌のあるその顔は、ネムにとってよく見慣れたものだった。


「おはよう、篠原」


 骨董屋での芝居がかった声は鳴りを潜め、ぼそぼそと小さく返事をしたネムに、それでも彼、篠原は特に気にした様子も無く、扉を開いてネムを室内に招き入れる。


「遅くなるなんて珍しいな。いつもは時間ぴったりなのに」

「出がけにちょっと、ね」

「ふうん」


 骨董屋での一悶着を思い出し、少しだけため息を漏らすネムに、篠原は苦笑してその肩をぽんとひとつ叩いた。

 特にそれ以上疑問を投げかけるでもなく、篠原は別の話を始める。彼は随分と人の機微に聡いらしく、上手い具合に距離をとる篠原の隣は居心地が良い。


「機嫌いいな。どうかしたか?」

「なんでもない」


 ほんの少しだけ顔を緩めたネムに、篠原も小さく笑って答えた。

 廊下と同じく、ほんの少しの人間のざわめきが響くだけの講堂の隅に座り、他愛も無い会話を続ける二人。

 いつも通りの朝の風景の中で、けれど少しだけ篠原の様子がおかしい事に、ネムは小首を傾げてその顔を見上げた。世話焼きで明るいこの男は、どうも苦労性の気があるのか、たまにこうしてほんの少し疲れたような顔をしている事があった。


「篠原、悩み事……」

「え? ああいや、別になにも……いやでも、もしかして」


 ぽそりと漏らした小さな声にも、篠原はきちんと言葉を返す。歯切れの悪い唸りを上げた彼は、何かを思い出したようにじっとネムの顔を見つめた。

 濃い茶の瞳孔が淡く不思議な色を帯びるのを、ネムは相変わらず眠たげな顔でじっと待つ。しばらくそうしてネムを見続けた篠原は、意を決したようにネムに頭を下げた。


「相談したいことがあるんだ」


 下げられた頭に、先程の篠原のようにぽんと手を置いて、ネムはちいさく頷いた。





 放課後。迷いなく足を動かすネムの横に並んで、篠原はきょろきょろと不安そうに辺りを見回している。

 いざ話を切り出そうとしたというのに、それを聞くこともせずについて来いと先に立ったこの小柄な友人。

 大通りを歩いているうちは特に疑問も持たなかったが、そこから外れた、存在すら忘れられているような細い路地の先に、一体なにがあるというのか。


「なあ、どこに」

「もう着きましたから、そんなしょげた顔をしないで下さいな、篠原」


 なにも言わずに歩き続けていた彼が、古びた扉の前で立ち止まる。普段からは想像もつかないはっきりとした口調で話しかけられたことに、篠原はぽかんと口を開けてその顔を見つめた。

 そんな篠原に、見た事も無いような顔でネムが笑う。


「ようこそ。どうぞお入り下さい、御客人」


 芝居がかった仕草で頭を下げ、先に立ったネムは鳥避け板を鳴らして扉を潜る。困惑しきった表情で後に続いた篠原は、一歩足を踏み入れた店内をぐるりと眺める前に、その異様さに顔を引きつらせた。


 並べられた古物の間から無数の目が覗いている。何とも分からない妙な色の帯がランプの間を行き交い、獣の息遣いと鉄の匂いが鼻をついた。

 お話の中にだけいるもののはずの「妖怪」の、見本市のようなとんでもない光景。

 力のありそうな者から、かろうじて姿が見える小さなものまで、その種類はどう考えても異常に多かった。

 思わずがちんと身体を固まらせた篠原は、けれど必死でそれを隠そうと視線をネムの背中に集中させる。


「今、虎定先生を呼んで参りますゆえ、ちょっとばかりお待ち頂いて……篠原? どうかしました?」

「あ、いや、別になにも」


 とっさに答えた声は裏返り、挙動不審に目が泳ぐ。

壺から着物、刀に人形、何かの剥製と古物屋らしく種類豊富な品物の数々は普通なら汚れたがらくたにしか見えないが、篠原の目には総じて死んでも関わり合いになりたくない厄介な連中が見えていた。


 篠原の家系の歴史は、妖怪とともにある。

 遡れば古代の巫女にまで達するその力は尋常ではなく、篠原の家に生まれた者は、多かれ少なかれ異形を見ることができた。

 

「変なお顔してらっしゃいますけど」

「大丈夫。なんでもない……というより、お前がどうしたんだ? なんで急にぺらぺらと……」

「これですか? いえ、これはこういう呪いなのでございますよ。お客人に対してはとてもようございましょう?」

「普段とかけ離れてて、気味悪いんだが」

「いつもどおりでございますよう」

 

 きょとんとする友人に、篠原は首筋を掻く。そこは、誤魔化しきれない鳥肌と冷や汗で嫌に滑った。

 生まれつき見えてはいけないものまで見える良い目を持っていた篠原。ここにいるような類には小さな頃から散々な目に合わされている。

 黒い影に追いかけられ、這い回る不気味なものに傷つけられ、見えない者達に拒絶されて、固く殻にこもって泣いた幼い頃。

 成長するにつれ知らないふりをする事も学んだが、幼い頃のその悲しみは今でも篠原の胸にこびりついていた。


「つうか、こんな中でなんでけろっとしてるんだ、お前……」

「そりゃ、ネムは慣れてるからサァ」


視界を埋め尽くし、見なかった事にも出来ない程うぞうぞとそこらを這い回る者どもに、顔を引きつらせてぼそりと呟いた篠原の独り言。

 それに、誰もいなかったはずの背後から至ってのんきな返事が飛んだ。

普段ならきっと応えなかったその声に、不意を突かれた篠原は思い切り振り返る。

 しまったと思った時には既に遅く、篠原の目は暗くなり始めた路上を切り取る入り口の前で、空中に浮かんだままにたにたと笑う異形とぴたりと合っていた。

 上から下まで真っ白なそれは、ねじれた角を振り振り、玩具を見つけた子供の顔で実に楽しそうに篠原の顔を覗き込む。


「こりゃまた随分とでかいのを連れたお客だねェ。ネムや、これどうしたんだい?」

「お困りのようだったので、先生ならなんとかして下さるかと思ってお連れしたんですよう。白様、篠原はネムの友人ですから、あんまり苛めては駄目ですよ?」

「おやま初耳。ネムにも友人がいたのかい」


からかい混じりの声に、半分閉じたネムの瞳が瞬く。いつも通り眠そうなその目は、特に怒るわけでも驚くわけでもなく白色に向けられたままだ。

 知り合いとの立ち話のような気やすい雰囲気の二人に、篠原は顔をしかめてネムの腕を掴む。


「なあ、ここは一体なんなんだ? お前は一体、何に巻き込まれてる」

「篠原、お顔が怖いですよ。どうしました?」


 顔の表情は死んだままのくせに、嫌に芝居がかった様子で首をかしげるネム。混乱する篠原に、上機嫌の白色は小さな子供に言い聞かせるような声で彼を宥めた。


「篠原とやら。ネムは別にここで害を成されてるんじゃあないよ。好きでここにいるのさァ。そんなに毛を逆立てないでも、ここの連中はお前に怖い事なんかなーんもしやしない。困ってるなら、力になろうじゃないか」

「五月蠅い。お前たちみたいなのに、誰が頼み事なんかするか」


 猫撫で声の白色を睨みつけ、篠原は眦を吊り上げる。こういった輩は我を忘れる程付け込まれると分かっていたために、篠原の声は冷たく平坦だ。

それでも語尾が震えるのは、今すぐにここから逃げなければ、全てが終わってしまうような得体の知れない焦燥感が彼の全身を支配しているせいだろうか。

 掴んだままになっていたネムの腕を引き、篠原は白色も這い回る異形も蹴散らして逃げようと足に力を込める。

 しかし、それを場違いな程のんびりとした声で止めたのは、他でもないネム本人だった。


「篠原、異形の皆様のこと、苦手でらっしゃる? 大丈夫ですよう。別に噛みついたりする方々じゃありませんから」


 がく、と篠原がつんのめるまま膝からその場に崩れ落ち、不気味な笑顔で黙っていた白色が盛大に吹き出す。

 思い切り固い床に座り込むことになった篠原は、周りの状況も自身の焦りも忘れてネムに叫んだ。


「別に噛まれるのが怖いんじゃねえよ!」

「ネムや、お前も対外会話が的に当たらない子だねェ」


 白色の笑いにもきょとんとするばかりで、突然座り込んだ篠原を不思議そうに眺めているネムだったが、気にしない事にしたのか二人を放って小上がりの方に顔を向ける。

 痛みに呻く篠原もそちらを見れば、新しい気配が二つ、卓袱台の前でこちらを伺っていた。


「白いの、お前さんこんな子供をそうからかってやりなさんな。大人気ない」


 二つの影の片方、頭からつま先まで真っ黒の方は、未だに笑い続ける白色を困ったように睨んでため息をついている。似たような雰囲気の二人組は並ぶとよく絵になったが、それよりも篠原の瞳をくぎ付けにしていたのは、もう一人、小上がりにあぐらをかいて煙草をふかす方だった。

 機嫌が悪いのか、無表情の中で眉だけがきつく寄せられている。そんな姿すら眩暈がしそうな程美しい男に、同性であるはずなのに視線が吸い寄せられたまま動けなくなった篠原の背を、つうっと冷たい汗が流れた。


「人間ってぇのはどうも私の顔に弱いね。なんにも嬉しくないが」


 男が言葉を吐き捨てるのと同時に横を向いた事で、篠原はようやく身体の力を抜いて詰めていた息を吐く。這い回る者どもや、ねじれた角と揺れる尾の見える白黒の方がよほど異形らしい姿をしているというのに、男の気配はそのどれよりも異質だった。


 暗く淀んで絡まり合う何か。瞬きを繰り返す無数の眼光。頭の芯を腐らせるような、甘い甘い毒花の香り。吸い寄せられずにはいられない美貌の裏側に、うっすらと透けて見えるおぞましいもの。


 見つめるうちに行きつきそうになった男の中身から逃れるため、音がしそうな程強引に視線を外した篠原を視界に捕らえた店主が、嫌そうな顔から一転。声を上げて笑う。


「おや、もしや私の「なにか」が見えたのかい? そんなに怯えた顔をして。言ってごらん? 一体何がみえたのか」


 耳元まで裂けそうなその微笑みに、篠原の背を冷たいものが駆け上がった。いままで見てしまったなによりも恐ろしいその姿を、理解し、口に出してしまえば、篠原の中で確実に何かが壊れてしまう。

 一刻も早くこの空間から逃げなければと視線を泳がせる篠原は、座る男に気安く近寄って行くネムを見てぎょっとする。


「先生、篠原を苛めないで下さいよう。お困りなんですって」

「そうは言ってもね、ネム、私はこういう類の奴は嫌いなんだよ」


 心底嫌そうな男の顔にも言いたいことはあったが、それよりも先に篠原は引きつった顔でネムの方を窺った。

 どう見てもまともではない男の隣に座り、ネムは気にした風も無く慣れた様子でその手に湯呑を渡す。甲斐甲斐しく世話を焼くネムの仕草は堂に入ったもので、確かに酷い仕打ちを受けているようには見えない。


「先生」


 どうしていいか分からずに頭を抱えた篠原を、ネムに見つめられてしぶしぶ男が手招いた。


「ごちゃごちゃ言ってないで話しな。なんだって私がこんな奴の面倒を……お前も守護憑きなら自力でなんとかしないかい」

「分かる……のか」


 面倒そうに紫煙を吐き出したここの主だろう男に、篠原は面食らった顔で答える。それに可笑しそうに返事を返したのは、後ろで見ていた白色だった。空中で逆さに浮いたまま、楽しげに篠原の胸を指す。

 守護憑き。妖のなかでも極端に一人の人間に心を寄せた者が、その人間に寄り添い一生涯見守り続ける。そんな者たちの呼び名がこれだ。

 力の大きさはまちまちでも、人間への思い入れは恐ろしく強く、守護する人間に害を成す者には容赦しない。

 篠原に憑いているのは、家の力の強いものでも一目置くような、とんでもない力の持ち主だった。


「そんなでかいの中に連れてるんだ。分からないはずがないよォ。こりゃあれだろ? 四国の狸じゃないかえ?」

「……確かに、俺の憑き人は四国狸の一員だと聞いてる。だけど、外には出てこないし、姿を見た事も無い」

「そりゃあ、お前さんの力が強すぎたせいで、抑えるのに随分と深くまで根を張る必要があったからだろうさ。ちっこい頃はさぞよく呼んだろう。怖かったネェ」


 よしよし、とからかい混じりに頭を撫でる仕草をされ、篠原はうっとおしげにその手をはらった。だが、白色の言う事は一つも外れてはいない。

 生まれた時からその身体の中にもう一人、誰かの存在があった。異形に怯え、外の世界を拒絶する篠原を宥めてくれたそれが、姿を見た事も声を聞いた事も無かったが、それでも自分を守ってくれていることは理解していたし、感謝もしている。

 四国八百夜狸の一員。自身の力をその身で食い止めてくれているこの憑き人がいなければ、篠原はとうに命を捨てていただろう。


「けど、その狸はお前さんを守りたいがために深くお前さんの意識の中に潜り過ぎたんだな。そうしなきゃならなかったとはいえ、お前さんが自分で外から呼んじまったもんは、中にいるからどうしようもない。こんなでかい守護憑きがそこまでしてもまだ見える見鬼とは、また随分な逸材だ」


 複雑そうに黙り込んだ篠原に、白色を引きずり下ろしながら黒色が呟いた。抑え込んでもそれを上回っておかしなものを引き寄せ、自分だけではなく周りも巻き込みそうになった事は一度や二度ではない。握った拳が微かに震えている篠原に、少しだけ心配そうにネムの顔が歪む。

 それを見て、小上がりの上で美しい店主はがりがりと頭を掻いた。かん、と高い音を立てて煙草の柄を置き、初めて篠原をしっかりと見つめる。


「やれやれ仕方ないねぇ。特別にこの私が聞いてやろうじゃないか……。話してごらん。狸憑き。お前さん今度は一体、何を引っ付けちまったんだい?」


 店主の声に、篠原は複雑そうな顔でひとつ瞬きをして口を開いた。ふらふらと視線は泳ぎ、普段の溌剌とした姿はなりを潜めている。

 普段聞いた事もない気弱な声に、ネムは小さく首を傾げた。


「多分、幽霊らしきもんに付き纏われて困ってる……んだ」

「多分? そんな良く分からない程崩れたもんなのか? そんなもの、お前の力なら跳ね除けられるだろうに」


 歯切れ悪く話す篠原に黒色が首を傾げたが、それに笑うのを無理矢理堪えたような顔をした篠原は、店の外から聞こえてきている高らかな足音にがっくりと項垂れる。

 垂れ下がった篠原の頭の先で、壊れそうな程盛大に扉が開いた。


「シノ見つけたぁ! かくれんぼなんて案外子供っぽい事がすきなんだね!」


 狂ったように音を立てる鳥避け板の下、真っ青な瞳をした青年が篠原に笑いかけた。突然現れた長身に、ぺこりと一礼するネム以外の三人は顔を見合わせた後、しばし無言で視線を交わす。


「珍しく真っ直ぐ帰らないと思ったら、お友達? はじめましてー」

「はじめまして。幽霊様」

「わあ、君眠そうだねぇ。夜更かししちゃだめだよー」


 ひたすらにこにこと無邪気な笑顔を浮かべている青年は、唯一返事をしたネムを気に入ったのか、大げさな動きで手を握り、これでもかと上下に揺する。小柄なネムの作務衣がばさばさと恐ろしい勢いで揺れている事に慌てた篠原は、項垂れていた頭を持ち上げて青年の頭に拳を入れた。


「ぬいぐるみみたいに扱うな馬鹿!」

「あらら怒られた。もうしないよー。それよりシノ、今日は良い天気だね! 思わず踊りだしたくなるね! 一緒に外行かない?」

「行かねぇよこの脳内お日様野郎が……」


 良い音を立てた頭を撫でながら、それでも実に楽しそうな青年に、篠原は疲れ切った声でなんとか合いの手を入れる。断られた事にも頓着していない青年の様子から、かなりの回数交わされたやりとりであろう事は簡単に想像できた。

 両側に並んだ古物を叩き落とさないのが不思議極まりない動きをする青年に、あれほどひしめいていた小さな異形達がきいきいと慌てた様子で逃げていくのが見え、篠原は自分も逃げてしまいたいと天井を見る。

 頼みの綱である店主は、ネムが巻き込まれた瞬間だけは腰を浮かせたが、その後は完全に視線が外を向いていた。

 白黒二人は未だ縮こまったまま何かを話しているし、いつの間にかネムすら青年の手の届かない所できらきらと目だけは輝かせてこちらを見ている。


「シノ、なんだか蚊帳の外?」

「お前が原因だろうがこの馬鹿!」


 騒ぎを起こした張本人にのほほんと肩を叩かれ、篠原の堪忍袋の緒がぶつりと切れた。滅多にない程の大声を出した篠原に、青年は叱られた子供のように首を引っ込めてきゃっきゃと笑いながら、来た時と同じように高らかに扉を開けて外へと飛び出して行った。


 

「狸憑き……ありゃなんだ……?」

「まさしく嵐のようだったねェ」

「知るか。それが聞きたくて大人しくこんな所にいるってのに。……今来たのがその「幽霊」だ。少し前に気付いたら部屋にいて、晴れの日はいつもあんな風に興奮しっぱなしで手が付けられない。急にどこかへ行ったと思ったら、今みたいに必ず俺の居場所をつきとめて朝から晩まで騒ぎ通しだ」


 ぜいぜいと息を切らした篠原の声のきつさに白黒は肩を竦めて顔を見合わせる。外を向いていた店主は、騒ぎの名残すら嫌だとばかりに手を振って胡乱な視線で篠原を射抜いた。


「見たところ特にお前さんに害を成そうってぇ訳じゃなさそうだが、あれくらいなら追っ払えないのかい?」

「そこがあいつの妙に頭の良い所なんだよ……。あとほんの少し俺にちょっかいをかければ俺の憑き人に追い払われるし、あと少し俺の近くにいる時間が長ければさっきみたいに殴った後にどうにかしてやれるんだけどな。そのほんの一息前に必ず逃げるんだよ」


 守護憑きとはいえ所詮ただの人である篠原に、のらりくらりとやたら逃げの上手い者への対処ができるはずもない。おかげで今日までずるずるとあのおかしな青年に巻き込まれ続ける事になってしまった。

 くしゃりと髪をかき混ぜ、疲れた息を吐き出す篠原に、ネムがそっと湯呑を差し出す。ほっこりと温かな香りに篠原のささくれ立った気持ちも少しだけ落ちついた。


「確かに、四六時中あの勢いだとおちおち昼寝も出来ないネェ」

「幽霊ってのはもうちっと湿っぽいもんのはずなんだがな」

「それなんだが――あれのもっと面倒なのは、その湿っぽい所での方なんだよ……」


 あっけにとられた様子の白黒に、篠原は思い出すのも嫌だとばかりに思い切り顔を顰めて茶を啜る。暗く、淀んだ暗闇にいるのが普通のはずのあの青年は、実のところ全くそれに当てはまらなかった。


「雨が降ったり天気が悪いのがとんでもなく嫌いでな。ひたすら部屋の隅に蹲って、よく分からん呪いらしいものを呟いてるんだ。想像してみろ。朝起きたら天井に張り付いてるでかい虫みたいなのが延々聞き取れない声でなんか囁いてる姿をさ……」

「正統派のお化けですねぇ」

「呪いの相手が雨でなきゃな」


 面倒そうにネムに答えた篠原の声に、とうとう白黒が吹き出した。晴れの日をこよなく愛し、雨を嫌がる幽霊など聞いた事も無い。

 楽しそうな白黒をじろりと一睨みしてから、篠原は顔を横へ向けて店主を見る。八つ当たり気味のその視線を黙殺して何事か考え込んでいた店主だったが、彼はひとつ頭を振ると深く煙を吸い込んだ。


「気乗りは欠片もしないが、仕方ない。引き受けてやろうじゃないか」


 気だるげに紫煙を吐き、目の端だけで自分を振り返った店主の言葉に、篠原はほっとしたように肩の力を抜く。

 しかし、店主はそんな彼に手に持つ水煙草の柄をぴしりと向けた。


「ただし。分かっちゃいるだろうが、ただでとはいかないよ?」

「……俺の手に届く範囲なら。なんならここでただ働きしたって構わない」


 一体どんな無理難題をふっかけられるのかと、細められた店主の瞳を覚悟を決めて見返した篠原は、その顔が二、三度瞬きを繰り返した後に、みるみる三日月の微笑みを作ったところで己の失敗を悟る。


「おやま、よく考えりゃあそれが一番だねぇ。狸憑きや、もちろん男に二言はないね? 終わったらとびきり上等の紙で証を作ってあげるから、楽しみにしておいで」

「狸憑き、お前さん見かけによらずちっと抜けてるんだな……」


 とびきり甘い声で告げられた代金の高さに、篠原は思わずよろめき目元を覆って下を向いた。失敗した子供を宥めるような黒色の柔らかい声にも追い打ちをかけられ、篠原はここに来たことを本気で後悔する。

 もはや後ろで腹を抱えてのた打ち回る白色にすら怒りが湧かない程めっこりと沈んだ篠原を、事態が分かっているのかいないのか、弾んだ声でネムが覗き込んだ。


「篠原が一緒に働いてくれますれば、ネムは嬉しゅうございますよう! ここには異形さま方は沢山いらっしゃいますが、人はネムひとりぼっちでございますから」

「……そもそもこんな所に紛れ込んでて、それでいいのか? お前のその名前だって」


 うんうんと頷くネムに、篠原はちらりと指の先から視線を送って眉を寄せる。

 前々からこの小さな友人に感じていた違和感。彼の名を呼ぼうとすると、霞がかかったように端からその名が頭から消えていく妙な感覚。

 誰もがその名をどこかで見ているはずなのに、声に出して呼ぶ者は誰ひとりとしていない。

 「呼ばない」のではなく、「呼べない」のだと気付いたのは、いつだったか。


「ネムにはここがかえる場所でございます。その証に、名は先生に差し上げたのですよう。どうぞ篠原も、ネムとお呼び下さいまし」


 にこり。実に幸せそうに微笑んだネムは、こともなげに異形にその身を差し出したことを告げる。

 自分の名前を相手に渡せば、二度と逆らうこともできなければ、離れることもできない。

 妖怪に名前をくれてやるなど、本当ならあってはならないことだ。


 夕飯のお裾分けのような気楽さで、妖怪に関わる者達みんなが泡を吹いて倒れそうな恐ろしい事を言うネム。

 ぎょっとして掴みかかりかけた篠原だったが、眠い顔のままなにやら胸を逸らす友人にその手を空中で止めた。


「元々ネムの名を呼ぶ方、あんまりいらっしゃいませんでしたので、苦労なぞありませんよ? それに皆様に、とっても覚えやすいと評判なんでございます!」

「おま、そういうこと言ってるんじゃ……! ああもう……覚えやすさだけで決めて良いもんなのか、それ」


 本気で嬉しそうな、ほんのりいつもよりも目の開いた顔に、篠原はぐったりと脱力して手を降ろす。外で気まぐれに話す単語だけのような短い会話でも度々思っていたが、無邪気極まりないネムのどこかずれた発言には、毎回どうも気が抜ける。


「本物はネムが是非やると言うから私が貰ってしまったからね。かわりにつけてやったのさ。眠そうだからネム。良い名前だろう?」


 後ろの小上がりで同じように誇らしげに胸を張った店主に、いっそ自分の感覚がおかしいのかと篠原は色々なものを飲み込んだ妙な顔で視線を外す。

 比較的話の通じる異形に会うといつも思う事だが、どうして彼らは普段はまともな事も多いというのに、一定の事に対して急に頭のねじが飛ぶのだろう。


「その思い付きの為だけに、ネムの着物までみんなまとめて合歓の木柄にしてやるんだから笑っちまうよォ」

「お前さんの言いたいことはよく分かるが、まあその、元の名の件も含めてネム本人が欠片も気にしてねぇからな。その、俺たちも止めろとは言ったんだが。諦めたと言うべきか、あー」

「いや、うん。なんとなく伝わるから、気にしないでくれ。ネムが嫌がってないなら、俺はなにも……いや、言った方がいいのか?」


 呆れ顔を隠しもしない白色と、小声でいらない擁護をしようと頑張る黒色に篠原は思わず警戒も忘れて遠い目で相槌を打った。

 くりくりとネムの頭を撫でる店主は満足げで、白黒二人もそれを幼子を見るような微笑ましげな――半ば諦めた顔で見ている。

 名前を差し出したことでネムが酷い目に合っている訳でもなく、むしろ随分と可愛がられている様子に安堵すればいいのか、店主の名付けの下手さに呆れればいいのか。

 なんとも微妙な空気になった店内が気に入らなかったのか、店主は鼻を鳴らして一息煙草を吐き出す。

 吐き出された煙から視線を上げれば、既にそこに店主の姿は無い。機嫌を損ねたかと顔を引きつらせた篠原の目の前に、白色の顔が逆さに映りこむ。

 思わず飛び退いて距離を開けた彼を、白色は気にした風も無く肩を竦めて見せた。


「気にしなさんな。毎度あれを言うたび誰も褒めてくれないもんですーぐ拗ねるんだよォ。犬猫じゃないんだからするならするで、もっとしゃんとしたのを付けろって言ったんだけどねェ。全く、ネムの事となると雑ざりは途端にお子様になっちまうんだから」

「雑ざり……? あの店主のことか」

「そう。なんもかんもみんな混ぜこぜにしてあるから、雑ざり。わっちが考えたんだが、言いえて妙ってぇ感じだろォ? 半分中身を見ちまったお前さんなら尚更」

「ああ、そっちはこの上なくぴったりで、むしろ反吐が出そうだよ」


 座るもののいなくなったその場所を睨んだまま、篠原は固く握りしめていた手を開く。血の通うじんわりとした痛みを感じながら、彼は自分でも知らないうちに安堵の小さなため息を吐いた。


「先生のお力はとてもお強いですから、心配いりませんよう」


 盆を抱えた黒色をお供に、てきぱきと片づけをしながらネムが大げさに首を傾げてみせる。ぴくりとも表情を動かさないまま、小動物じみた動きをするネムに、自然と篠原の体から力が抜けた。普段見ていたネムとは真逆の、はっきりとした声に仕草だけ陽気な姿は、驚くと同時になにやら不思議と癒される気がする。


「そうだといいがな」


 ひょこひょこ前を行くネムを、篠原は小さく笑って追いかけた。





 

 大学からの帰り道。ネムと連れ立って骨董屋の扉を潜る。篠原の新たな日課になったそれは、彼に束の間の平穏をもたらしてくれた。

 仕事嫌いの店主がようやっとその重い腰を上げてなにかしたらしく、幽霊もどきの彼が篠原の元に現れるまでに、以前より随分と時間がかかるようになったのだ。

 そのおかげか、どこに行ってもいつの間にかついて来ては騒ぐ彼に辟易していた篠原は、ここ数日で随分と顔色を良くしている。


「しっかし、それでも最後は必ず見つけ出してくるあたり、本当に好かれてるんだなぁ、狸憑きは」

「嬉しくないお褒めの言葉をどうも! 頼むからこれどうにかしてくれ!」


 しみじみと目の前の大騒ぎを眺めて言う黒色の苦い笑いに、篠原はありったけの声で叫ぶ。その腰の辺りには、きゃっきゃとはしゃぎまわる幽霊擬きが実に楽しそうにへばりついていた。


「最近迷路みたいになっててなかなかシノに会えないよー。寂しい? ねえシノ寂しい?」

「寂しくないから抱きつくなこの馬鹿!」

「そんなこと言って、結局へばりつかせてるんだから訳ないよォ。ほんとはこれのこと待ってたりするんじゃあないのかえ?」


 からかい混じりの白色を睨み、篠原はばりばりと腰の異物を引きはがす。それすら嬉しそうな悲鳴を上げて、両手を振って喜ぶ幽霊もどきに彼は頭を抱えた。

 

 最初のうちは遠巻きに見ているだけだった白色がそのうち幽霊もどきの方に味方し、五月蠅いのは嫌いだと影が見えるだけで早々に逃げていた店主すら、最近はかなりの頻度でにやにやと篠原の慌てぶりを後ろから眺めている。

 そこいらを這い回る小さな影たちにまで同情するような鳴き声を上げられて、篠原は顔色を良くしたかわりにここ数日で喉を潰すのではと遠い目をした。


「せっかくここまで会いに来たのにシノったら冷たーい。女の子にもてないよー?」

「愛想を良くして寄ってくるのがお前みたいなのなんだったら、俺は一生もてないくていい。いいか、絶対にだ」


 眉間の皺を目指して腕を伸ばしてくる幽霊もどきを叩き落とし、篠原は横を向いてやさぐれた声を出す。青い目を吊り上げてぶうぶう文句を垂れる幽霊擬きから視線を外しても、周りは誰も味方になってくれそうにない。


「だいたい、お前大学にまで顔出してきやがるんだから、せっかくもなにもないだろう……」


 声を張り上げる体力すら使いたくないと、篠原は首を振りながらそこいらにあった椅子に腰かけた。体重を受け止めた古びた椅子が、喜ぶ犬のように木の足をばたつかせ、房飾りを振るのにも、もう彼は眉ひとつ動かさない。


「ここだけかと思ってたら、割と縄張りが広いんだなぁお前さん。こりゃ狸憑きも休む暇がないね」

「授業参観ってやつだよー。あそこは賑やかでいいよね」


 呆れ顔の黒色の言葉も、柳に風とばかりににこにこ屈託ない笑顔で答える幽霊もどきの彼に、篠原は静かに頭を抱えた。唸る友人を前に、ネムは珍しくもぞもぞと口元を歪めながら幽霊もどきを見ないように視線を余所へ向けている。


「真正面を避けて、必ず目の端にひっかかるようなところにいらっしゃるんですよう。声は出してらっしゃらないのに、動きだけでもうおかしくておかしくて……」


 思い出し笑いを必死にこらえているのか、ネムの眠た顔が珍しく崩れ、はしゃぐ椅子の上で篠原が余計に項垂れた。


「一体なにをそんなに動き回ったら、この二人がこうなるんだえ?」

「えー? 別に普通にいるだけなのに。ひどいー」


 いっそ感心したように自分を振り返った白色にわざとらしい泣きまねをして、幽霊もどきはまた外へと飛び出していく。一時も止まっていられないといった様子のその忙しなさがまた笑いを誘った。


「あんだけひとところに留まってられないっていうのに、狸の所にだけはこまめに顔を出すんだから分からないね。まるで通い妻のようじゃないか」

「冗談でも止めてくれ。ひとかけらの想像もしたくない」


 愉快そうに喉を鳴らす店主に、篠原は悲痛な声で首を振る。本気で嫌がっているらしいその姿に、ほんのり指先が震えているネムから湯呑を受け取った白色が声を上げて笑った。


「あいつのしつこさも大概だネェ」

「あの方、お醤油の染みよりもう数歩頑固でらっしゃいます。おかげでネムはここ数日笑うのを我慢し通しで、頬が痛くてかないませんよう」

「そんなに面白いなら、私たちも見に行ってやろうかね」

「止めろ馬鹿ぁ!」


 喋る端から口元が歪む珍しいネムの姿に目を細めて、店主が恐ろしい事を言い放つ。その死刑宣告のような提案に、とうとう篠原が大声を上げて椅子から落ちた。







 珍しく夕陽が射す時刻まで幽霊もどきを学内で見かけず上機嫌の篠原の服を、ネムがちょいちょいと引く。

 首を傾げた篠原に、ネムが単語だけで伝えた用事は、周辺でも蔵書の豊富さで有名な学内図書館への誘いだった。


「夕飯……篠原、最近疲れてる、から」


 ぱちりと半分閉じた瞳を瞬かせ、ネムはどうやら篠原を夕餉に呼びたいらしい。

 図書館の目的はその献立決めか。ネムが作っているらしいことを窺わせるその口ぶりに、骨董屋の面々を思い出して妙に納得した篠原は、にこりと微笑んでその誘いに頷いた。


「お前そんなことまでしてたのか。まぁ、出来た方がなにかと便利かもなぁ。俺もそこら辺にいるから、好きに見てこいよ」


 ぽん、とひとつ肩を叩いて笑えば、ネムは静かに頷いて音も立てずに篠原の傍を離れていく。結局理由はいまいちはぐらかされたままだが、相変わらず骨董屋とは真逆のこの静かさも今では特に気にならない程に慣れてしまった。

 熱中しすぎる前に声をかければいいか、とのんびり本の海に消えたネムを見送り、篠原もふらふらと棚の間を進む。

 適当に掴んだ動物写真集を片手に椅子の並ぶ一角に足を向けると、そこにいた顔見知りの青年が片手を上げてこちらを見ていた。


「珍しい。篠原も図書館利用するんだ」

「失礼な。俺だって本ぐらい読むぞ? 途中で寝るけどな」


 他愛も無い軽口を叩きながら、篠原は小さく口元を歪める。ついでとばかりにさり気なく手に持った本を体の前で抱えて、緩く腕を組んだ。

 それは、明確な拒絶の意思表示だ。

 人との間に意識的に線を引き、そのくせ顔だけはにこやかに周りに愛嬌を振りまく。幼い頃から変わらない自身の癖に、篠原はにこにこと話し続ける「友人」に相槌を打ちながら自虐的に笑った。


 まだ見えてはいけないものと、そうでないものの区別がつかなかった頃。見たもの聞いたものを全て口に出さなければ気が済まない、小さな子供らしい屈託の無さは、そのまま篠原を孤独に追いやった。

 他にも見えすぎる者がいた家の中では気にされなかった特異さは、周りを見えない者に囲まれて初めて彼に牙をむく。

 確かに自分にはみえる世界が、彼らには欠片も理解されず、それどころかそんなものは無いのだと恐ろしい形相で責められた。

 気味が悪いと歪められたその顔と、嘘をつくなと叩きつけられた声。それはまるで、篠原が異形だとでも言うように彼を切り裂いた。

 泣く篠原に追い打ちをかけるようにそれをあざ笑うのも見えてはいけない者達だったが、その小さな体を包んで慰めてくれた身の内の憑き人も、同じ異形で。



「篠原? どうかしたか?」


「あ? ああ、いいや。なんでもない。それより、俺に何か用があって声かけたんだろ?」



 きょとんと首を傾げた目の前の顔に微笑んで、優しく手を差し伸べる。その声に、青年は篠原を信頼しきった顔で嬉しそうに頷いた。

 篠原は、自分の力を制御できるようになってからも、誰にも自分の事を話していない。

 話す必要を感じなかったのもあるが、ただひたすらに、怖かったから。

 「友人」の顔が嫌悪に歪むのが怖くて、化け物だと言われるのが怖くて。優しい顔をしながらも、篠原は線の向こう側から出られない。

 にこにこと青年の話を聞きながら、彼は窓の外から悲しげにこちらを見ている幽霊もどきを、瞬きひとつで視界から外した。

 



+++




 ひとしきり話した青年を見送り、篠原は夕陽も差し込まない書庫の奥へと足を向ける。周りに一人の人影もなくなった頃、後ろをついて来ていた気配に小さな声をかけた。


「見えない奴と二人の時に出てきて、お前も俺がおかしい奴だって言われている所が見たいのか?」


 笑うでもなく、諦めたように呟かれた言葉に、うっすら透けた姿の彼は複雑そうな顔で首を振る。珍しく何も言わない彼に、不思議そうに瞬きをした篠原を置いて、その姿は暗闇に溶けて消えた。


「別に、そんな事にはもう慣れたよ」


 人も異形も、篠原は受け入れられない。けれど、全てを拒絶することもできない。

 誰もいなくなった暗闇を見つめて、篠原は固く瞳を閉ざした。







「おーい、どこまで料理本探しに行ったんだ……?」


 夕陽が全て沈み込み、人工の灯りに照らし出される本の中を小声で呟きながら歩き回る。三階建てのこの広い館内で、いっそ消え入りそうな程静かなネムを探すのは至難の業だ。

 それでも、ネムの靄のかかったような不思議な気配を頼りに、篠原は部屋の一番隅で本の山に囲まれ、一心不乱に何かを書き取っている友人を見つけてその肩を叩く。


「ネム、そろそろ切り上げないと、一晩ここに泊まることになるぞ」


 集中しすぎていたのか篠原の手に思い切り体を跳ねさせたネムは、篠原の顔と真っ暗な外を見比べて不思議そうに二、三度瞬きをした。

 寝ぼけた子供のような仕草に、篠原の口が自然と弧を描く。ネムはその顔を首を傾げて見つめると、静かに本を抱えて席を立った。


「目当てのものは見つかったのか?」

「多分。篠原、嫌いなものは」

「特に無いから、好きなように作ればいい」


 のっそりと動き出したネムの手から今にも零れ落ちそうな本を数冊拾い上げて、首を振った篠原は小柄な友人と並んで絨毯の敷かれた通路を進む。

 献立が決まったのか、ほんのりと嬉しそうに頷くネムの横顔を見て、彼はじんわりと体から余計な力が抜けていくのを感じていた。

 こんな年になってまで未だ引き摺っている過去の悲しみ。ネムの隣に居る時は、それを感じない。

 今までの「友人」たち全てが偽りの関係だとはもちろん思っていないが、胸の詰まるような息苦しさに押しつぶされそうになる事もあった。


「俺が行ってもいいのか? 店主辺りが五月蠅そうだけど」

「友達だから……。それに先生と、白黒様も、初めてのまともな友は、大事にしておけ……って」

「そりゃ有難いが、若干裏に含みがあるような気もする助言だな。まぁ、それ抜きでも、そう言って貰えて嬉しいけどな」


 ぼそりと漏れてしまった想いに、ネムは深く頷いて返事を返す。真っ直ぐなその視線に少しだけ目を開いた篠原は、眉を下げて意味も無く鞄の位置を直すと、誤魔化すようにガラスの扉を大きく開いた。


「篠原の見えてる世界は、ネムにも見える」

「ああ、そうか」


 背後からかけられた言葉に、篠原の顔が歪む。この言葉が欲しくて欲しくて仕方なくて、それでも一度も貰えずに、膝を抱えて泣くしかなった小さな頃。

 両目を潰してしまえば、この世界は本当に嘘になるのだろうかと思った事すらあった。


「ここにみえるものも、悪くない、と、思うよ」

「そう……そうだな」


 知らず、涙をこらえるような声が出た。外灯に浮かび上がる庭を、そんな篠原の頬を掠めてひんやりとした夜風が流れていく。

 隣でぽつぽつと骨董屋の話をしているネムは、濡れた目元を誤魔化すように、篠原の目が夜風に混じる七色の紐を追っていても気にしない。


「ありがとうな、ネム」


 思いがけず得る事の出来た不思議な理解者の存在に、篠原は小さく笑ってその背を急かすように押した。


 


 

 

 

 おとぼけで不可思議で、それでも何の裏もなく自分を見るネムという存在に少しずつ心を緩めたのか、篠原が骨董屋を訪れた数が両手に足りなくなる頃には、彼は随分と気の抜けた顔をするようになっていた。


「白……お前今日講堂にいただろ」

「おやまァ、気付けたのかえ? 狸はこと異形を見つけ出すのだけはほんに優秀だねェ。ご褒美に桜餅お食べ」

「狸憑き、俺ぁ一応止めたんだぞ」


 にたにたと可愛らしい薄桃の菓子を差し出す白色からそれをひったくり、行儀悪くそのまま齧りつきながら篠原は胡乱な視線で白色を睨む。

 小上がりの卓袱台に肘をつき、呆れた声を上げる黒色に苦笑ひとつ。


 どこまでもからかい倒そうとほくそ笑んでいる顔に、以前だったら避けるか声を張り上げるしかなかっただろうが、今は違った。


「嫌いなものほど目につくって言うだろ? それに白、お前あの時動く黒板に腰かけて落ちかけてただろうが。あの慌てぶりに気付かないのは相当鈍いぞ」

「落ちっ……そんなところばかり目敏く見てるんじゃあないよォ! なんだか最近狸が可愛くないねェ」

「可愛くなくて結構。その後、ガラス戸に気付かないで激突しかけたのもよく見えて――」

「お止めったらァ!」


 つらつらと上げられる己の失態に白色が腕を振って喚く。いつものすまし顔はどこへやら、ほんのり赤くなったその顔を見て、周りを這う小さな異形たちが楽しそうに鳴き、水煙草をふかす店主は珍しく声を上げて笑った。


 自分も堪えきれないといった様子で笑いながら胡坐を崩した黒色が、駄々っ子のようにじたじたと暴れる白色をおざなりに慰めているのを見て、篠原も口角を上げる。ここ最近よくこうして無邪気な顔をするようになった彼に、奥から盆を抱えて出てきたネムが弾んだ声を上げた。


「篠原がここ最近楽しそうで、ネムは嬉しゅうございますよう」

「なんとなくこいつらのあしらい方も分かってきた気がするからな。やられっぱなしはごめんだし」


 ネムから受け取った湯呑を片手に、犬のように尻尾を振って寄ってきた椅子に腰かけて悪い顔をする。可愛くないときいきい文句を言う白色を温く見つめる視線は、悪戯が成功した子供のようだ。


「あれぇ? なんかシノが悪代官みたいな顔してるー。なになに僕もいれてよー」

「うわ! なんだか最近嫌に出てくるまでが短くなったな……」


 にょろりと唐突に天井から現れた幽霊もどきにも、以前のように全身で拒絶するようなことはしない。迷惑そうに、それでも肩を竦めて話に付き合ってやる篠原は、どこか楽しそうにすら見えた。

 篠原に構われるのが嬉しいのか、いつにも増して身振り手振りの激しい幽霊もどきから少し離れた所で、骨董屋の面々は顔を見合わせて表情を緩める。

 手負いの獣のような張り詰めた雰囲気を無くした篠原は、それなりに整った顔立ちと生来の兄気質からか、周りをよく惹きつけるらしい。


「肩の荷が下りたような顔だな」

「生意気になっちまって、わっちは寂しいよォ」

「この頃は、学内でも気を張り詰めている所をあまり見ないのです。ご友人方にも以前より砕けた様子で接しているようで、楽しそうですよ。篠原が元気になって、ほんにようございました」


 珍しくはっきりと分かる微笑みを浮かべたネムを見て、白黒は少しだけ驚きに目を細めた。店主も大概ずぼらで何に対しても興味が薄いが、人との付き合いに対しては、以上に冷淡な対応をするネムがここまで気にする相手も珍しい。

 異形と違い、彼らは人だ。無意識にだろうが、ネムの表情も以前より明るい。異端としてその身に背負うものを分かち合える事は、ネムにとっても良い事だったらしい。


「……雑ざり、そう狸憑きを睨んでやるな。別にあれはお前さんからネムを盗るような事は絶対にしないぞ」

「分かっちゃいるけど止められないんだろうよォ。この悋気持ちは。いつもの事だ。放っときなァ、黒いの」


 眉間に皺を寄せた店主ががりがりと煙草の吸い口を齧るのを仕方なさそうに眺め、白黒は小上がりの上に伸びたまま、ひょこひょこと近寄って行ったネムを巻き込んで無邪気に笑う三人を見る。


「幽霊様は面白いですねぇ。どうやったらそんな動きができるのです?」

「ネム、真似しようとしなくていいから。多分やったら俺が店主に絞め殺されるから」


 気の抜ける会話に、隣の白黒すらほんわかと顔を緩める中、幽霊もどきと目が合った店主が、その微笑みに僅かに顔を顰めた。

 誰も気付かない程小さなそれを目敏く見逃さなかった幽霊もどきは口元を更に歪める。深い青色の瞳は、じっと店主を見つめて静かに輝いていた。


「ネムやー。そろそろ雑ざりも構ってやらないと、また拗ねて布団から出て来なくなるよォ」

「いやぁ……気が抜けるがたまにゃあこれも悪くはないな」


 のほほんとした白黒の声を聞きながら、店主は視線を窓にやって大きく煙を吐き出す。


 霞む硝子の向こうは、曇天。


 異形の者が集うとは思えない穏やかで平和な店内に、何かの足音のように小さな雨音が響きはじめていた。




 

 しとしとと空を覆い、地面を黒く染める霧雨の音が静かに店内に響く。淡く滲んだ外の景色を眺めて、篠原はため息混じりに丸窓から視線を外した。


「今日は随分と寒うございますねぇ。篠原、甘酒が温まりましたよう」

「おう。ありがとう。……しっかし本当に止まないな、ここ何日か」


 ランプの灯りに暖かく照らされた店内に顔を戻した篠原は、ネムから並々と白い酒が注がれた湯呑を受け取って眉を下げる。

 何日か前から降り続ける雨は、晴れるどころか日に日に雨脚を強くしているようで、静かすぎる外に息を殺すように這いずり回る異形達もしんと静まり返っていた。


「こうも雨ばかりだと、気が滅入るねェ」

「ちょっと前まで随分いい春の陽気だったのにな。火鉢に炭足すかね」


 寒さが嫌いなのか、白い着物の上からもこもこと半纏を着こんで丸まった白色と、少しだけ肌の白さを増した黒色が引っ張り出してきた火鉢を抱えるようにして小上がりの隅に蹲っている。


「俺は肌寒い程度だけど、お前らには堪えるのか。まあ、まずもっと着こめば良いんじゃないかと思うが。火鉢で燃やすなよ。ネム、店主は」

「先生は朝からお布団の虫ですよう。上の方が火鉢が多くて暖かですから」

「わっちら締め出して、一人でぬくぬくしてるんだよォ。憎らしい」


 ぶつくさ文句を言いながら、小刻みに震える異形二人にもう一枚半纏を被せ、予想通りのネムの言葉に肩を竦める篠原。

 彼はネムから新しい湯呑を一つ受け取ると、くるりと店の入り口を振り返った。

 鳥避け板のぶら下がった扉の横、ちょうど古物の置かれた台に隠れるように、幽霊もどきの彼が小さく縮こまってぶつぶつと何か呟いている。

 最近は晴天続きで見られなかったが、雨になると必ずこうなる幽霊もどきの癖に肩を竦め、篠原はその腕をとって無理矢理小上がりまで引き摺って行った。


「シノ、わ、急にどうしたの?」

「どうしたもこうしたもあるか。延々飽きもしないで変な呪詛呟きやがって。余計気が滅入るだろ! ほれ、火鉢の傍なら少しは気が楽か?」


 ぐいぐいと有無を言わせない力に、幽霊もどきは困惑気味に篠原の顔をふり仰ぐ。卓袱台の横に座らせ、湯呑まで手に持たせた篠原は、固まったままの幽霊もどきの間抜けな顔に小さく笑った。


「嫌いなもんにばっかり気を取られてたら、そりゃ辛くもなるだろ? どうせなら、楽しい事考えてた方がよっぽど生産的だ」

「そりゃ違いねぇや。狸憑き、お前さん良い事言うな」


 声を上げて笑った黒色が、着ぶくれた着物の中から手だけを出して篠原の肩を叩く。見かけによらず賑やかな事の好きなネムも、嬉しそうにこくこくと首を振った。


「それなら、花見なんてどうだえ? 飲んで騒ぎゃあ、気分も晴れるだろ。ちょうど見ごろだしねェ」


 火鉢にしがみついた格好のまま、甘酒から口を離した白色が言う。うきうきと弾む声に、篠原は首を傾げた。


「花見って、そりゃ名案だけど、どこでやるんだ?」

「おや狸、後ろだよォ」


 白色の手で差されたのは、丸窓の外。中庭のようになっているのに、どこからも出られる気配が無かったために意識の外にやっていたが、そこには大きな桜の木が一本、暗い空に向かって枝を広げている。

 後少しすればちょうど満開なのか、一斉に咲き誇った随分と赤色の強いその花は、雨に霞んでもなお美しい。青空の下で見る事が出来たなら、どれほど見事だろうか。

 思わずため息を漏らして大桜に見とれる篠原に、どんよりとしていた幽霊もどきの目にも光が戻る。


「僕もしたい。お花見、みんなでしたい!」

「幽霊様、やる気になられましたねぇ。では、てるてる坊主でも作りましょうか」

「窓辺に括れば晴れるってェ? ふふ、子供だましだねェ」

「いいじゃあねぇか。もしかしたら効くかもしれねぇだろ」


 ネムの一声に、甘酒と火鉢で温まったのか動きの良くなった白黒が頷く。きゃっきゃといつもの有り余る元気を取り戻した幽霊もどきもそれに続き、にわかに騒がしくなった店内に篠原は温い微笑みを浮かべて、大きく息を吸い込んだ。


「はいはい。各自布と綿持って小上がり集合!」

「先生も呼んで参りますね」


 どこから出してきたのか、卓袱台の上に色とりどりの布きれが散らばる。

 

 異形も人も入り混じり、ネムにたたき起こされた店主も巻き込んで、暗い雨を吹き飛ばすように店内は明るい笑いに溢れていた。



 

+++




 緋色の花の下、蛇の目傘を片手に篠原は小さくため息をついた。


「雨脚が弱くなったような気がしたが、気のせいだったようだね」


 入口の無い中庭へ吐息ひとつで篠原たちを運んだ店主は、ネムが差しかけた傘に縮こまりながら寒そうに腕を摩る。

 傘を広げた骨董屋を守るように枝を広げた大桜を中心に、小さな花たちが咲く飾り気のない庭は、霧雨の中で薄墨色に霞んで見えた。


「止まない、なぁ」


 庭から視線を背後の白く染まる窓辺に移し、そこに並べられた珍妙な顔のてるてる坊主を眺めて篠原は小さくため息をつく。

 頭でっかちな晴れ人形たちは、落書きのような顔を篠原に向けて楽しそうに笑っていたが、彼の顔は反対に沈むばかりだ。


「いっくらなんでも、こりゃあ降り過ぎってもんじゃあないかえ?」


 ふよふよと隣に並び、白色も眉を下げて空を見上げる。蛇の目の傘越しに濡れた桜たちが、花散らしの雨に打たれてはらはらと悲しげに花弁を降らせている。

 偶然というにはあまりに長すぎる季節外れの冷たい雨に、篠原はふるりとひとつ震えると、少し離れた所でじっと桜を見ている幽霊もどきに近寄った。


「もしかしたら、俺が何か寄せちまってるのかもな。ここにいるの、生まれて初めて会うくらいに強い奴らばかりだから、そのせいで……。悪いな、お前も張り切ってたのに」

「ちが、シノ、違う……!」


 雨嫌いの彼に、自分の傘を差し出してやりながら、篠原は視線を地面に落として自虐的に笑う。そんな篠原に、幽霊もどきの彼は何かを言いかけるようにはくはくと口を動かすが、それ以上その喉から音は出なかった。


「狸憑き、恐らくだがこりゃあお前のせいじゃない。そう自分を責めるもんじゃないよ」


 濡れた黒髪をかきあげて、黒色が篠原の背を優しく叩く。しょんぼりと萎れた篠原に、風に散った花びらを弄びながら白色も苦い笑いを浮かべてみせた。


「いかな狸でも、空の色は変えられないんじゃあないかねェ。それが出来るのはよっぽどの奴だけだよォ」

「この雨では、明日には全て散ってしまいましょうね……。残念ですけれど、もう中に入りませんと。二階からなら桜もよく見えますよう」

「そう、だな。ほら、お前も中に入らないと。雨、嫌いなんだろう?」


 傘を店主に託したネムに促され、篠原が幽霊もどきに手を差し出す。しかし、その手は繋がることなく、急に吹き荒れた強い風によって引き離された。

 唐突に庭を襲った突風に、大桜の枝がみしみしと音をたてて揺れる。ごうっと一際強い風に、狂ったように緋色の花が舞った。


「うわ……!」

「ごめんね、シノ」


 咄嗟に顔を両手で覆った篠原の耳に、酷くはっきりと青い目の彼の声が聴こえる。その意味を問おうとした篠原の目を、暖かな光が焼いた。


「シノはなにも、悪くないんだ」


 やけに響く声とともに、灰色に覆われていた中天に穴が開き、みるみるうちに辺りは突き抜けるような真っ青な空と穏やかな陽気に包まれていく。

 吹いた時と同じように突然ぴたりと止んだ風に吹き散らされた花弁が、差し込む光の中、まるで赤い雪のように深々と庭に降り積もる。そんな美しい光景に、篠原たちは思わず息を飲んでくぎ付けになった。

 

 一瞬時を止めた彼らを動かしたのは、どさりと幽霊もどきの彼が倒れこむ鈍い音。


 慌ててそちらに顔を向けた篠原の前で、桜の下に倒れこんだその身体が急速に色を失っていく。

 雨を止ませたのは、どうやら彼の力らしい。びりびりと肌を焼く力の余韻に震えながら、篠原は彼の側に膝をつく。

 輪郭すら曖昧になっていくその姿に、どうすればいいのか分からず青ざめる篠原の手を、幽霊もどきの彼はふやけた微笑みでそっと握った。


「ごめんね。みんな、僕の我儘のせいなんだよ」

「なんのことだよ、なあ! ネム、これ、どうなってるんだ!」

「本当は、もっと早く離れなきゃ、いけなかったんだ。でも、ここは、楽しくて……」

「どうしたんだよお前、なあ!」


 おろおろと精悍な顔を情けなく歪めた篠原は、裏返った声で後ろを振り返る。慌てて駆け寄ってきた白黒や、眉を下げて心配そうに篠原を覗き込むネムをうっすらと開けた青い目で見つめ、倒れこんで動けない幽霊もどきの彼は申し訳なさそうに、けれどどこか満足そうに、にこりと微笑んだ。

 力を失った手で篠原の頭をぽんと叩くと、掠れた声で嬉しそうに言葉を紡ぐ。彼らの周りを、涙のように緋色の花弁が踊った。


「シノ、ここならもう、ひとりで泣かないでいいね? ちゃあんと居場所、みつけられたね?」

「おい、止せ、お前……!」


 もう姿を保っていられないのか、少しずつその姿が崩れていく。困ったような顔を最期に、彼の姿はあっけなく小さな光の粒になった。ほんの微かに手のひらに残った温もりをかき集める篠原の耳に、静かな声が流れ込む。


「これからは、ここできちんと、笑って暮らすんだよ」

「そんな、おい――!」


 名残惜しそうに光はその身体の周りを少しだけ漂うと、天に向かってぱっと弾けるように消えた。


 後に残るのは、明るく照らされた穏やかな庭と、さかさに向いた蛇の目傘。

 

 もともと篠原は情に厚い。それなりに長い時を共に過ごした青年の最期を見てしまったために、声にならない慟哭を上げ、蹲る彼に静かにネムが近寄った。







「篠原、篠原。大丈夫ですから、落ち着いて下さいまし。彼、生きてますよう」


 震える肩を叩いて、実にさらりと言ってのけられたネムの言葉に、膝をついた篠原が固まる。その間抜けな恰好と、呆然とした顔に、後ろで事の成り行きを見ていた白黒の箍が外れた。

 青空に笑い声が響く。悲しげな空気を吹き飛ばすその声に、篠原はついていけずにおろおろと視線を彷徨わせる。


「い、生きてる?あんな消え方したくせに……?」


 眉を寄せる篠原の腕を掴み、ネムは安心させるように力強く頷く。とことことどこからか勝手に駆けてきた椅子に腰かけさせられ、篠原は呆然とその無表情を見つめた。

 跡形も無く消え、生々しい消滅の瞬間を目の当たりにしたと言うのに、それが違うと言うのか。小さく震える篠原に、しかしネムはこともなげにこくんと頷いて見せた。


「篠原が悪かったのではございません。あれは、あの方が悪いんですよう。形を保てなくなられるほど手加減なしに力を使って、元の場所に戻られるしかなくなったのです。篠原、狸様に抑えられているせいで、こちらに出てきている皆様しかみることが出来ませんでしょう? 恐らくですけど、あの方、異形様方のいる方へ行かれただけなんだと思いますよう」

「……さっきの派手な雨雲晴らしに力使いすぎてここにいられなくなったから、とりあえずかっこいい台詞を吐いて自分の住処に逃げ込んだ、と?」

「ああ、そんな感じです。ネムは異形様方をみる事しかできませんが、いる所はなんとなく分かりますゆえ」


 すごいでしょう?と胸を張ったネムに、篠原は一瞬湧き上がった怒りに体を震わせ、次いでへなへなと身体から力を抜く。


「なんだ、そうか……これだから嫌いなんだよ。この類の奴らは……」


 腑抜けたように漏れた声は、どこまでも隠しきれない安堵に滲んでいた。


「あぁ、そんな空気の抜けたような顔をして。全く、長い事見てても飽きない子だねェ、狸は」

「言い逃げの仕方は悪かったが、その、言葉に嘘は無かったと思うぞ」


 腹を抱えて引き笑いを続けている白色と、慰めようにも笑いの波が勝ったのか、口元が引きつる黒色を前にして、篠原は吐けるだけの息を吐きつくし、がりがりと髪をかき回した。


「帰るにしても、せめてもうちょっとこう、なんとかならなかったのかあの阿呆は……。いや、引っかかった俺も俺だけども」

「まあまあ。良かったじゃあありませんか。消えてしまわれたわけでなし、しばらくしたらまた会いに来られましょうとも」


 にこにこと能天気にすら聞こえるネムの言葉に、毒気を抜かれたのか篠原も緩く微笑んで髪をかき回す手を止める。ぽろりとひとつ涙が落ちたその顔は、随分と穏やかだ。


「無事ならまぁ、それでいいんだろうよ。あいつのお騒がせっぷりが俺は恐ろしいけど」

「狸、お前はほんに、良い子だねェ……ちょっとばかし抜けてるが」

「白いの、お前そんな事言ってねぇで狸の爪の垢でも貰っちゃどうだ。きっとその捻くれも治るぞ」


 篠原の寛大さにいっそ感心したらしい白色は、それでも笑いから逃れられずに自分の言葉に腹を押さえ、それをほんの少し哀れな顔で黒色に一蹴されている。飽きもせず漫才を繰り広げる二人に、篠原は首を振って、珍しく口元をほんの少しだけ上げたネムを振り返った。


「笑い上戸と天然は置いといて。ネム、最初に言った事と違っちまうが、あいつ――幽霊じゃないよな?」


 こそりと秘密の話をするように声を落とした篠原に、ネムは瞬きをしてこともなげに頷く。眠たげな顔は、普段より随分と機嫌よさげに緩んでいた。


「十中八九、そんな薄ぼんやりしたものではございませんとも。篠原にはどう見えてらっしゃったので?」

「俺に?そうだな……あれだけ嫌ってた癖に、どうも水っぽいというか、あいつの隣にいるとなんでかずっと雨の中にいるような気分がしてたんだよな」


 呟いた篠原の視界に、唐突に派手な顔が映りこむ。いつの間にか大桜の下で水煙草をふかす店主が、その寒気のする美貌をにやりと歪めてみせた。


「嫌がってた割によくみているもんだね、狸。梅雨、雨季、嵐……どれが正しいかは私にも分からんが、ありゃあ水神の神格持ちの中でもそれなりにお偉いさんだよ。ここ数日の大雨は、あれの力のせいさ。水神のくせに雨が嫌いだって話だ。限界まで力を押さえ込んで、押さえきれなくなった分の力を雨に変えてたんだろう。狸の近くにいるだけならまだそれでも良かったんだろうが、ここは元々よく溜まるところだからね。そこに狸の引き寄せ、私と白黒までいたら、そりゃあそんなものじゃ足りずに暴走もするだろうよ」

「ご自身で天候を捻じ曲げられるような力をお持ちの方は、そういらっしゃいませんからねぇ。どうも先生にも気付いてらっしゃったご様子でしたし。余計内へ内へ溜め込んでいたものが、一気に破裂してしまったのでごさいましょう」


 よくしていた含みのある顔はそれだったのだろう。興味深げに観察されていた自覚のある店主はふんと鼻を鳴らす。

 強い者同士が波風を立てれば、その波紋は周りを容赦なく巻き込みかねない。

 恐らく店主と同等の力を持つかの青年は、それを恐れてそれまで少しずつ外に吐き出していた力を、延々と取り込み続けたのだろう。

 破裂寸前の風船に触れる程店主の頭は悪くない。珍しくあまり強気に出なかったのはそういう事だったのかと、篠原はネムを隣に呼び寄せて茶を入れさせ、どこかすっきりとした顔で煙を吐き出すその姿を温く見つめた。


「総じて力の強いやつってのは、退屈でもしてるのか気紛れ起こして自分より弱い奴にちょっかいかけたがるもんなんだヨ。そこにいい見本がいるだろォ?」

「お前の憑き人は体は守れても心はどうしようもねぇからな。たまたま見かけた、ひとりぼっちのままでっかくなっちまったようなお前さんが、自分とかぶってみえちまったのかもな。強い力を持てば持つほど、周りはぽっかりがらんどうになるもんだ。水神が水から離れるなんて、息をするのもひりつくようだろうに、それでも暗い水底より、明るい陽の下にいたかったんだろうよ。お前さんが人から離れられないようにね」


 ようやく笑いの波から逃れたらしい白色が、からかい交じりに店主を指す。その隣で目を細めた黒色が、優しい声で笑うのを見て、篠原は気まずげに視線を彷徨わせた。

 誰もいらないと拒絶する割に世話を焼き、怖がりのくせに矢面に立とうとする。服の裾を掴むように、ほんの欠片だけ他人と繋がろうとするじれったい篠原の生き方を、あの幽霊もどきの彼はしっかりと見抜いていたらしい。


 生き辛いのも重々承知で、それでもそこにいたいと縋り付く姿が、己と同じだったから。


「そりゃあ、その、反論できねぇけど……ええと」


 顔から火が出そうな羞恥に震えながら、けれど今の状況を悪いとは思えない自分に、篠原はもごもごと言い訳にもならない声を上げて気まずげに周りを見回す。

 にこにこと実に楽しそうな白黒に、口は悪いままでも最初の威圧感をなくした店主。あちこちを飛び回り、這いずり回って鳴く異形達には、慰めるような気遣わしげな視線を投げかけられている。そんな者達から、無暗に恐ろしいと逃げる必要はないのだと今なら思えた。

 力の無い「友人」たちに今さら異質な自分を告げることはできないが、ここには無表情で眠たげで何を考えているのかよく分からない、それでも確かに自分を受け入れてくれる友人ネムがいる。

 これをもたらしてくれたのがあの陽気な幽霊もどきだったなら、それは気紛れとはいえ神の奇跡なのだろうか。


「それに、ここならその才、よっく役立つよォ? お前さんの大事なお友達、ネムのお守りにゃ最適最適。なぁ、雑ざり」


 赤くなった篠原の頬をつついて、白色が不穏な事を言う。声を振られた店主がにたあ、と微笑んだことで、篠原の頬からほんのり赤みが引いた。


「報酬代わりにここで働いてくれるんだったか。忘れたわけじゃあないだろう? 狸」


 にやにやと煙草を噛み、いつになく優しい声で言う店主に、篠原は一瞬顔を歪ませた後、諦めたように肩を落とす。

 くったりと力の抜けたその顔を覗き込んで、店主は満足げに笑った。


「これだけ力がありゃあ、大概の奴はとっつけないか、なんにも出来ないネムに行かずにみんな狸に引っかかるだろうしなぁ。俺たちが来るまでの間だけだ。まあ、なんだ。頑張れよ」

「俺は囮か」


 下がった頭の上から聞こえた不穏な黒色の言葉に、篠原の顔が嫌そうに歪むが、どことなくその表情は穏やかだ。

 大物にばかり囲まれているくせに、自分ではひとかけらも異形に太刀打ちできない友人のために、厄介でしかなかったこの力がなにかの足しになるのなら。それはそれで、良い事なのかもしれない。

 沢山の友人に囲まれて、平凡で少し騒がしい、「普通の日常」に、二度と戻れなくなったとしても、篠原はこちらの方が、息がしやすいような気がしていた。


「ここまで来ちまったら仕方ない。……最後までちゃんとついてってやるよ。ネム」


 誰かの世話を焼くことでしか自分の居場所を見つけられないのなら、いっそ全てを理解してくれるネムの側で、行けるところまで行ってしまえばいい。

 渋々といった風を装って、やんわりと口元を緩めた篠原はネムに呟く。店主の隣でそれを聞いていた小柄な友人は、頭の派手な手ぬぐいを揺らして静かに微笑んで見せた。


「しっかし、あいつ生きてんのは良いが、一体どこまで養生しに行ったんだか。暖かい所が好きらしいから、南の異国あたりかね?」

「そりゃあ楽しそうだこと。土産はなんだろうねェ」


 のほほんと交わされる白黒の会話に、緩んでいた篠原の顔が青ざめる。その辺りは今、おそらく雨ばかりだ。


「……養生した雨嫌いの水神のせいで、水不足にならないといいが」

「またそんなご心配を。篠原はほんに、どこまでも心根の真っ直ぐなお人ですねぇ」


 嫌な想像をしてしまった現実逃避にか、ぼんやりと遠くを見る篠原に、ネムはほろ苦い微笑みを浮かべた。



 風を受けて窓の横、並んで揺れる子供の落書きのような顔をした雨降り人形。



 大桜の向こうに、快晴の空。その高みには、龍の駆けたあとのように細い虹が弧を描いている。


かわいそうな巻き込まれバイト篠原くん 普通の人間をやめる宣言しちゃったので、彼の将来はあんまり平和じゃないです。でも、篠原くんはそれでも幸せなのです。

雨嫌いの水神 本名秋雨。楽しいこととお日様が好きな寂しがりの神様。げんきになったらまた来たい。

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