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陶器の虎と少女の話

 大通りから西へ一本。すれ違うにも苦労するような細い細い路地の奥。

 随分と長い間、小雪はそこを行ったり来たりしていた。

 両手に余る大きな包みに視界を遮られ、その重みに腕が悲鳴を上げる。

 それでも、彼女はそこから先へ入る勇気が出ないでいた。

 時刻は正午を少し過ぎた頃。表の通りにはこれでもかと陽が射しているというのに、この路地はまるでここだけ切り取ったように影の中に沈んでいた。


 今日はもうこのまま帰ってしまおう。

 

 どうしてもこの闇に入って行く気が起きず、小雪は肩を落として踵を返した。


「おや、御客人でございますね」


 ふいに背後から聞こえた声に、小雪の体が硬直する。

 ほんの一瞬前まで、そこに気配すら無かったというのに、一体どこから現れたのだろう。

 振り返れば、小雪よりも少しだけ年下の少年がぼんやりと眠たげな顔でこちらを見ていた。


「いらっしゃいませ。お待たせしてしまったようで。さ、お入りください」

「え、あの」


 一歩足を引いて、片手を後ろに。芝居がかった仕草で示されたのは、少年の背後にぽっかり空いた硝子の扉。

 小雪の肩から少しだけ力が抜けた。そう。彼はきっとここから出てきたのだ。人間が何もない所から、忽然と現れる筈が無い。


「先生、虎定先生。お客様ですよう」


 からんからん、と玄関に吊り下げられた鳥避け板を鳴らして、少年は奥に向かって声を張り上げた。


「お昼の後からごろ寝ばかりして。牛になっても私ぁ知りませんよう」


 十代半ばといった格好なのに、不思議な口調をした少年だ。

 以前としてしんと静まり返ったままの後ろを困ったように睨むと、ばつが悪そうな顔で小雪をふり仰ぐ。

 少年の頭の後ろで、金糸で派手な鳥が縫い取られた、深紅の手ぬぐいの尾が揺れた。


「やあ、申し訳ありません。すぐに叩きだして参りますから、どうぞ中にお入りくださいまし」


 顔は変わらず眠たげな無表情のまま、まるで舞台上の役者のように、少年はゆるりと腰を折る。


「え、いえ、あの。今日はもう」


 その色の無い視線と、ぽっかり空いた暗い入口に、小雪は言い知れない不気味さを感じて後ずさった。


「よろしいので?」


 にい、と少年の顔が初めて歪む。


「随分と、難儀して、おられるのでしょう?」


 それ、と唇の動きだけで示された己の腕の中の物が、不意にかたかた、と揺れた気がして。

 結局、小雪は青ざめた顔でこくりと首を振った。



「先生、先生!午睡は仕舞いにして、降りて来て下さいよう」


 声を張る少年の後に続いて入った店内に、小雪は呆気にとられて口をぽかんと開けた。

 所狭しと物が置かれ、左右を全て天井まで伸びた棚に覆われた室内。

 仕切られた小さな区画には、何に使うのかも分からない小物が山と納められ、その下には雑然と壊れたり欠けたりと歪な古物たちが並べられている。

 壁の逆向きに針を走らせる時計の下で、瓶詰の硝子玉がちりちりと音を立てた。


 随分異様な店内の雰囲気は、一歩間違えれば圧し掛かられるような錯覚に陥りそうだ。

 しかし、一切それを感じさせないのは、天井からいくつも下げられた異国風のランプの光のおかげだろうか。

 加えて、入口からは見えない反対側に取られた大きな丸窓が、室内にめいっぱいの光を投げかけていた。

 きらきらと色つきの欠片が踊る床を見つめて、小雪は強張っていた身体の力をそっと抜く。小さく漏らしたため息は、両手に抱えた荷物にぶつかって静かに消えた。

 

「お待たせして申し訳ありませんねぇ。さ、どうぞお掛けになって」

「あ、あの、お構いなく……」

「ああ、申し遅れました。私ここの雑用係、ネムと申します」


 広くは無い店内。人ひとりがやっとの通路に引き摺られてきた古びた椅子を勧められ、小雪はおどおどと小さな声で少年――ネムに答える。

 しかし、ネムは小雪の断りなど聞こえていないように、丸窓のすぐ横、年季の入ったちゃぶ台の置かれた小上がりに向かって、また一声呼びかけた。


 先生、と三度同じ言葉がネムの喉から紡がれる。その音に、ようやっとぎい、という古い木が軋む音で返事が返った。


「そう何度も呼ばなくても聞こえるよ、ネム」

「一度で止めましたら寝返りも打ちませんのに、何を仰いますやら」


 文句を口にしながら呆れ顔で肩をすくめるネムの頭をぽん、と撫でて、ぎいぎいと狭い階段を下りてきた人影は、そのまま下りきったそこにどかりと座り込む。


「そこに座らないで下さいよう先生。後ろがつっかえるじゃあありませんか」

「動くのが面倒なんだよネム」

「ちょいっとその腰をずらすだけで構いませんのに……」


 陽の光に照らし出されたその顔に、小雪の頬がさっと色を増した。

 呆れた声色のネムが差し出した水煙草を咥え、ふう、と煙を吐いて、「先生」は実に気だるげな様子で小雪を流し見る。

 美しい、と一言それ以外に表す言葉が見当たらない。

 ネムとのやり取りを見るに、この店の店主らしい男の恐ろしく整った顔が、面倒だと言う感情を隠しもせずに歪められた。

 それでも、そんな不快そうな表情すら一枚の絵のようで、しばらくの間小雪はぼんやりとその姿に見入る。


「……御嬢さん、そんなに見つめられると、そちらさんに私が睨まれるんだがね」

「えっ、あ、す、すいませ……」


 つい、と小雪から目を外して言う男に、小雪はびくりと肩を震わせた。男の視線は今も膝に抱えている大きな包みを指しているが、その目に反抗するように、静かだった室内に、おかしな音が響く。

 ごとりと重い物が動いた気配。硬質のその音に、ネムがぼんやりと視線を彷徨わせて出所を探すのを、男が可笑しそうに見つめた。

 小雪の細い指に、力が籠る。

 ふらふらと揺れるネムの視線に焦れたように、その音は段々と大きくなり、ぴたりとネムの目がそちらに向いた。


 音の出所は、小雪の持つ大きな包み。

 見られている事が分かっているのか、がたがたと外からも分かるほどにそれは意志を持って揺れ始める。

 小雪の喉から、とうとう悲鳴が漏れた。


「や、嫌!いやあ!」

「これまた一段と。そんなに見ちゃいないんですがね」


 震える包みを必死で抱きしめ、悲鳴を上げる小雪に、実に面倒そうにため息ひとつ。彼は水煙草の柄をくい、とネムに向けた。


「ネム」

「はいはい。失礼致しますよう」

「きゃ、あ、駄目……!」


 至って軽く男の声に答えたネムは、小雪の手からさっと包みを奪い、何の躊躇も無く風呂敷を解きにかかる。

 小雪が止めるのも間に合わず、布から現れたのは、随分と古びてはいても少女が持つには物々しい立派な桐の箱。

 ネムはそこから一抱えのものを取り出し、暴れるそれに少しだけうっとおしそうに眼を細める。

 がたがたと震え続けるそれをこともなげに抱えると、つかつかと歩いて行った先でひょいと空いていた棚に投げ込んだ。


「はい。これで宜しゅうございます」


 真四角の一段に入れた途端、騒がしかった音が止む。しかし、かわりに低く、ぐるぐると獣の声が店内に響く。

 それを当然のように放置して、呆然としている小雪にネムは大げさな動きで首を傾げて見せた。


「そのように怯えなくとも。ここは貴女のお悩みを聞くためにあるのです。さ、一息入れたところでご依頼の内容をお聞かせ下さいまし」

「言わなくても大体予想はつくがね」


 いつの間にか用意された茶を啜りながら、ちゃぶ台の横で気だるげに男が呟く。その顔は先程から、一度としてこちらを見ないままだ。


「もう、先生、毎度ちゃちゃを入れるのはよして下さいな」


 むくれるネムに、男はちらりと視線をやって、実に不本意そうに体だけをこちらに向けた。

 それが合図のように、室内の空気がほんの少し、ぴんと張る。


「あの、あの虎を。――虎を、引き取って欲しいんです」


 するりと小雪の口から言葉が漏れた。


 ネムが真四角の棚に無造作に投げ入れたもの。それは、陶器で出来た虎の置物。





 生まれた時から小柄で体が弱く、ほんの些細な事ですぐに寝込む小雪を哀れに思った祖父が、願掛けのつもりでどこからかこの虎を手に入れてきたのが全てのはじまりだった。


 縞と共に赤や青で花が描かれた虎を、小雪は随分と気に入って、片時も傍を離れようとしなくなった。

 布団の中で嬉しそうに笑い、頬ずりをする小雪の生き生きとした顔に、家族の間にも笑顔が溢れる。

 本当に願掛けが効いたのか、小雪の体はみるみる他の子供たちと同じように外を駆け回れるほどに回復し、家族はほっと胸を撫で下ろした。

 楽しそうに外で遊ぶ小雪は、他の子供となにも変わらないように見えた。


その遊び相手が、ただ唯一、あの陶器の虎だけでなければ。




「虎さんは、私の味方なの!」


 無邪気に虎を膝に乗せ、まるで生きているように世話を焼く娘に、家族は引きつった顔を見合わせるしかなかった。



「どんなに言っても友達を作ろうとしなかったせいで、父たちの心配はどこまでも増してしまって。とうとう私が寝ている間に捨ててしまおうって話になったんです」


 小雪は無意識にか、棚に納められた虎を見つめて目を細める。響く獣の声は、その瞳の動きを見ているかのように、ぴたりと収まった。

 静かになった店内に、ふう、と紫煙を吐き出す小さな吐息が零れる。

 小雪をじっと見つめていたネムが、ぱちりとひとつ瞬きをした。


「それでも、虎は捨てられなかった、と」

「……はい。私から離そうとするたびに、家族はおかしな目にばかり合うようになりました」


 目の端を掠める大きな影。みしみしと歩き回る足音と、獣の息遣い。

 最初は気のせいだと思っていた、そんな些細な違和感は、回数を重ねるたびに不安と恐怖を増していく。

 まるで仕留められずに弄ばれる獲物のようだと、初めに言ったのは誰だったか。


「いっそ壊してしまえばよかったんじゃあないかね」


 からかいを含んだ店主の言葉に、小雪は静かに頭を振る。


「何度も試しました。だけど、必ず次の日には元通り、私が抱えていたんです」


 捨てられない。壊すこともできない。そんな不気味な陶器をどうすることも出来なかった一家は、結局その存在をなかったものにするしかなかった。


「誰も開かない家の奥に押し込めて、それっきり。家の中で、虎の話はしてはいけないものになりました」


 虎を隠してから、ぴたりと止んだ違和感の数々。始めは泣いて虎を探した小雪も、不思議な事に成長するにつれて虎そのものを忘れ、話はそれで終わったのだと、家族の誰もが思っていた。


「ずっと忘れたままでいたんですけど、家を出てこちらで暮らすようになって少しした時に、押し入れの奥から出てきたんです。誰も持ち出すはずがないのに……」


 俯いた小雪の顔に、長い髪が落ちて影を作る。震える小さな手は哀れな程青ざめて、彼女の恐怖を物語っていた。

 隣に立っていたネムが、そっとその手に温かな湯呑を差し出す。じんわりと伝わる温もりに、小雪は少しだけ肩の力を抜いた。


「最初は虎を見ても、分からなかったんです。これがなんなのか。でも、日が経つごとに少しずつ思い出して」


 握られた湯呑に一粒水滴が落ちる。思い出すたびに、その気配は増していった。

 部屋中を動き回る何かの足音、唸り声。逃げるように外に出ても、周りを巻き込みかねない大きな事故に何度も遭った。

 物が落ちる、刃物が飛ぶ。身近な者が病に侵される。小雪が悲しめば悲しむほど、その頻度は高くなって。

 結局、相談しようとした友人に怪我を負わせそうになった所で、小雪の心は限界を訴えた。


「このままにしておいたら、今度こそ本当に誰かを傷つけてしまうんじゃないかって、怖くて」

「ふうん。物から人まで大分いろんなものに手を広げてるみたいだけど、ほんとはみいんな、お前さんが心の中で害したいと思ったもんなんじゃあないかい?」

「私、そんな事思ってなんか……!」


 小雪の悲鳴に共鳴するように、ぱん!と高い音を立てて吊り下げられたランプが割れる。鋭い破片が向かう先は、間違いなく水煙草片手ににやつく店主の元だった。

 そんな状況でもこちらに視線すら寄越さず、ゆったりと店主は煙草の煙を吸い込む。

 迫る破片から、無言で隣に控えていたネムを庇うように腕を伸ばすと同時に、彼が口から細く紫煙を吐き出せば、くるくるとその煙に巻きとられるように破片が跡形も無く消え去った。


「ほうら、今のだって、私に向けたものなんだろ?」


 ほんの一瞬こちらに目を向けて、にたりと笑った店主に小雪の顔が歪む。周りで起きるおかしな現象が、こんな風に意志を持って人に向かっていったのはこれが初めてだった。


「そんな……私、私……!」


 絶望し、零れかけた涙はしかし、耳を劈くような獣の咆哮によって止められる。

 びりびりと空気を震わせ、今にも飛び掛からんとする唸り声に、店主はやれやれと肩を竦めた。


「ちょっとばかりからかいすぎたかね。そんなにお怒りでないよ」

「今のは先生が悪うございますよ? 御客人になんて失礼なことを」

「や、悪かったよ。怒らないでおくれネム」


 低く唸る獣の声に合わせて、黙っていたネムが後ろから店主に抗議する。なぜかネムには弱いのか、店主は小さく頭を掻くと、面倒そうに向こうを向いた。

 突然の事に硬直した小雪の前に立ったネムは、申し訳なさそうにほんの少しだけ頬を緩めて小雪を見る。


「申し訳ありません。貴女はなにも悪くなぞないのです。――守護憑きと言いましてね。異形の中でも人に好意を持って守りたがる方々がおいでなんですよう。この方は、出会った時から今の今まで、貴女の幸せを願っておいでだったのでしょう」

「御嬢さんはどうやら、幸も不幸も山と呼ぶ性質のようだ。そこ居るだけで周りを巻き込み、不幸にする。そんな御嬢さんの負の力をひたすら受け止めていたのが、この虎なんだろうよ」


 店主の言葉に、小雪は後ろを振り返って虎の置物を見る。どう見てもただの無機物に見えるこれが、そんな力を持っているのか。

 呆然と立ち尽くす小雪に、ネムは一際やさしく言葉を紡いだ。


「守護憑きの方々は、どこまでもその対象に甘いのです。獣の情は更に輪をかけて深いと聞きます。……たとえその身を滅ぼしてでも、あの方は貴女をそのままにしてはおけなかったので御座いましょう」


 小雪が家にいる間は、たとえ離れていても虎は小雪を守ることができた。彼女の中に自分がいない方が、幸福でいられると思ってひっそりと影から見守っていた。

 けれど、外に行かれてはそれも叶わなくなってしまう。だからこそ、虎は自身の力を振り絞って、小雪の元にまた現れたのだ。


「そのおかしな現象も、御嬢さんがこれから距離をとろうとしたか、相手方に御嬢さんをどうにかしようって気があったんだろうさ。こんなふうにね」


 ふいに、店主の指が水煙草の柄から外れ、戯れのように小雪の方へほんの少しだけ伸ばされる。


 途端に、喉笛に喰らいつこうとでも言うような叫びとともに店内にごうっと風が巻いた。


 悲鳴すら上げられなかった小雪の足に、柔らかな物が触れる。白色の体に花を散りばめた優雅な巨体。力強く床を踏み、小雪に触れるなと店主に向かって牙をむき出すその獣に、彼女はよく見覚えがあった。

 熱に浮かされ、忍び寄る得体の知れない恐ろしさに震えていた自分の涙を拭ってくれたのは。友達を作ることが出来なくて、痛む胸を押さえていた自分に、暖かな体を寄せて慰めてくれたのは。


「あなただった……」


 細く漏れた声に、するりと巨大な虎の尾が慰めるようにその頬を撫でる。その優しい仕草に、小雪の脳裏に浮かび上がる記憶があった。

 



 ――あれはいつの頃だったか。四六時中虎を抱き、他に目もくれない小雪の異様な姿に、同じ年頃の子供たちは怯え、小雪を遠目に見るばかりだった。

 そんな中、自分たちと違うものを排除しようと、一度だけ牙を向けられた事がある。

 少しだけ年上の子供たちに人気のない空き地に連れ出され、虎を取り上げられた。泣きじゃくり、必死に腕を伸ばす小雪をあざ笑い、子供たちはありったけの言葉で自分たちと違う小雪を詰る。


 「返して! 返してよ……!」


 掠れた声で必死に縋り付く小雪が足を滑らせて転んだその頭上。今よりも遥かに引き寄せの力を持て余していた小雪に向かって、すぐ傍に不安定に積まれていた土砂が崩れ落ちた。

 塞がれる視界。引き倒される身体。驚きに固まった顔がみるみる砂に埋もれ、突然の出来事に子供たちは散り散りに逃げ出してしまった。

 痛む体に意識を取り戻した小雪がうっすらと目を開ければ、小さな体を庇うように視界が白色で埋め尽くされている。

 震える大きな足で小雪が埋もれないようにと土砂を支えるその身体からは、甘い花の香りがした。


「虎……さん?」


 淡く燐光を放つそれに向かって、恐る恐る声を上げた小雪に、虎は小さくきゅう、と鼻を鳴らして答えるが、その身体は震え、崩れ落ちそうになるのを必死でこらえている。

 体に触れるその毛並から、花の香りを蹴散らして立ち上る鉄錆の匂いに、小雪は青ざめてその身体を引き寄せた。


「もういい! もういいよぉ! 虎さんまで死んじゃう!」


 それは嫌だと泣きじゃくる小雪の頬を、暖かい舌がそっと撫でる。慈愛に満ちたその仕草を受けて、小雪は必死でもがいてみるが、僅かな空気すらなくなった空間の中で、意識が次第に薄れていく。

 最後に感じたのは、心配ないとでも言うように擦り付けられた、柔らかな尾の感触。





 次々と浮かび上がる淡い記憶を辿れば、花の香りと共に現れた巨大な虎は、遠い昔に自分を守ってくれたその時の姿のままだった。


「どうして忘れてしまっていたの……! あのときも、その後も、あなたはずっと私のことを」

「そう。ずうっと御嬢さんと共にいたのはこの虎だ。命を懸けても守りたい、大事な大事なお姫さんだ。そんな御嬢さんが不幸になるのを、見ていられなかったんだろうねぇ」


 ぎらぎらと鋭い獣の目に睨まれたまま、降参だとでも言うように両手を上げて店主は笑う。そこで、小雪の中で何かが崩れ落ちた。


「ごめんなさい……!忘れてしまって、その上捨てようとして、怖がったりしてごめんなさい……!」


 ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、顔を覆って泣きじゃくる小雪の額に虎は優しく自分の鼻を押し付けてきゅう、とちいさく鳴く。

 今なら分かる。そう。小雪は幼いあの日からずっと、虎を愛していたのだ。

 拒絶し。捨てようとしたと言うのに、それも全て許すようにゆっくりと涙を拭い続けてくれる虎に、小雪はその細い腕を必死で回して、幼い頃のようにその身体に顔を押し付けた。













「御嬢さん、もう、引き取って欲しいなどとは言わないね?」


 獣を抱きしめた小雪の顔は、涙に濡れて無残なものなのに、酷く穏やかで美しい。

 聖母のような微笑みを浮かべた小雪に、ネムは嬉しそうに頷く。


「今度はもう、離さないで差し上げて下さいましね」

「はい!今度こそ、今度こそ絶対に……!」


 涙を拭って立ち上がったその腕には、美しい装飾の虎が満足げに収まっている。ネムから手渡された桐の箱にそうっとそれを入れて、小雪は蕩ける様な顔でその天板に頬ずりをした。


「本当に、本当にありがとうございました。私、ここに来なかったら、きっと」

「いいんですよ。御嬢さん。さ、早く帰りなさい。もう、夜が来る」


 相変わらず、飄々と向こうを向いたまま、店主が告げる。それでも、それはきっと店主なりの優しさなのだと、小雪はまるで来た時とは別人のように、花のような笑顔を見せた。

 先に立ったネムの手で、骨董屋の扉が開かれる。からんからん。鳥よけの板の音すら、今の小雪には祝福の様だった。


「ありがとう、私、これできっと――」


 かえったらこの子を綺麗にして、きちんと棚に飾ってあげて、それで、それから。



 堪えきれない笑い声と、喜び踊るように弾む足音は、路地の先、大通りへの入り口で。



 幻のようにふっつりと消え去った。


「先生もほんに、お人が悪うございます」


 ネムの口から呆れたような声が漏れる。

 振り返り、小首を傾げたネムに、店主はにやにやと笑うだけ。


「もう、帰るところも還るところも御座いませんのに、ね」



 小雪はどこへもいくことなど出来はしない。



 彼女はとうにこの世のものではないのだから。





++++++





「ほんっとに、相変わらずわっちらに見向きもしねぇのナ。ずうっと見えるところにいてやってるのに、聴こえないふり見ないふり。やっぱり毎回、ぜーんぶ綺麗に忘れてやがるんだナァ、ネム?」

「ここに来なかったら、ね。そしたら、人として死ねたろうさ。あんなナリになっちまってまで。もう何度目だい? これも純愛ってぇもんなのかねぇ」


 跡形も無く、陽の光の中に消えた少女を見送れば、いつの間にかネムの背後におかしな影たちが立っている。今までじっと黙ってこの茶番を見ていたその影は、ふわりとネムの背中に飛びつくと、にわかに騒ぎ出した。

 白黒単色の着流し二人。その頭にぐるりと巻いた角さえなければ、一見人間と変わらない。

 ネムは静かに振り返ると、その二つの影に向かって肩を竦めてみせた。


「彼の方はそういうもので御座いますゆえ。ご依頼主様は、これ以上ない所まで堕ちましたら、その身に封じて水底に送って欲しいそうですよう」

「私のちょっかいで、ナリは前の血だらけ足無しよりずっとまともになったが、中身は地獄の夜より暗闇だ。あれの傍など暗過ぎて、普通の奴らは寄れやしないよ。じきにそうなるだろうさ」


 ネムの言葉を拾うように、ぷかりと紫煙を吐き出して、随分饒舌に店主が語る。窓に向けた目は、ほんの少し、ぬるりと滑るように笑っていた。


「ひゃあ! なんとまぁ、恐ろしい事! 一体いつになったら、その手に抱えて来るのが幻だって気付くのかねェ。黒いの、次にあのお客が来るのはいつだと思うえ?」

「ちょいと気乗りはしねぇが……そうさな白いの、賭けるかい」

「応とも!」


 怪談話でも聞いたように、嬉しげに身を震わせた白と、やれやれと息を吐く黒。きゃっきゃと五月蠅い連中にため息ひとつ。ネムは後ろの棚をゆるゆると振り返った。


「ま、それはまだまだ先の事。ご依頼主様、此度も望みが叶って、ようございました、ねえ」


 視線の先の棚に納められたのは、少女が持ち帰ったはずの陶器の虎。ほんの数分前まで、色鮮やかで美しいように見えていたその身体は、あちこち色が剥げ、細かい罅や傷が走る無残な元の姿に戻っていた。

 ふいに、今にも崩れ落ちそうなその尾が二つに割れ、ほんの一瞬、嬉しそうにさわりと空を撫でる。


「ご機嫌でございますねぇ。ご依頼主様」


 目を細めるネムに、虎はゆっくりと尾を振って答えた。




 随分と前、小雪という名の少女に連れられて、この骨董屋に引き取られた虎の置物があった。

 年代物のはずなのに、今しがた作られたように鮮やかな花模様を体に纏ったその虎を、少女は泣きながらネムに押し付けた。

 次々起こるおかしな現象に恐怖した彼女の悲鳴のような訴えと、引き取る側だと言うのに押し付けられた札束が事の重大さをひしひしと語っていた。


 少女は、自分が虎を愛していたことを知らない。


 異形も幽霊も虎の姿もその目に映さなかった少女には、その身の回りで虎が起こした出来事が、たとえ自分を愛し、守るための物でも、恐ろしいばかりだった。

 恐怖で引きつった顔のまま、ほんの少しだけ名残惜しげに虎を置いて行った少女に、虎は泣いて泣いて、店主とネムに訴えた。

 

 私があの子の傍を離れたら、あの子はきっと死んでしまう。だから、彼女の元に今すぐかえしてほしいと。


 しかし、泣き暮らす虎にネムがもたらしたのは、虎の庇護が無くなったために起こったであろう、少女の悲惨な死。

 少女であったと判断することすら容易でなかったその死に様に怒り狂い、我を失った虎は、その現実を受け入れる事が出来なかった。


「死んだ人間をこの世に縛りつけてほしいなんて言う焼き物は初めてだったから、面白くていいがねぇ。確かに、死んだことすら忘れていれば、最期の記憶を繰り返すのは足無し共の性だけど」

「ご依頼主様は、彼の方をほんに愛しておられましたから。離れがたかったのでございますね」


 無表情ながら真剣に言うネムの言葉に、そうだとばかりに虎が唸る。


「わっちはもうちぃと飽きてきたよ。毎度毎度よくもまぁ、おんなじ芝居ができるもんだねェ、ネムや」


 どちらに賭けたやら、楽しそうな白色がにたにたとネムを小突く。そう言われてみれば、一体今回が何度目の逢瀬だったのか。

 まるで縛りつけられた縄の先で円を描くように、彼女は時折千切れた記憶を取り戻しては、ふらりとここへやって来て、生きていた時の最期の記憶、虎との別れを繰り返す。

 偽りの幸福を約束する、虎と店主によって創られた、仕草も、言葉も、まるで同じ舞台を延々と。

 一つだけ本当の記憶と違うのは、その結末。

 ――少女は虎への恋心を自覚して、二人は晴れて結ばれる。

 上書きされた台本の上、少女は延々と虎との幸福な逢瀬を繰り返す。


 虎は言った。死んでいても構わない。あの子がここに来る事、私を愛する事だけが、私達の望む幸せなのだから。と。


 生前を忘れ、歪んで淀んだ自分の中身がどれほどおぞましく変わっていようと、店主に目隠しをされた少女はけして気付かない。

 たとえ、かつて自分が怯えて泣いた周りを不幸にする力で、近付くもの全てを傷つける悪霊と化していても、彼女はずっと、自分は生きているのだと勘違いしたままだ。


「生きてるやつらには分からない、手前とおんなじ世界のもんは見えないふりをするくせに、身の内だけは真っ黒の怨霊もどきの観察はもう飽いたよォ。いくらネムが心配だからって、芝居が終わるまであのせまっ苦しい階段途中で、延々だんまりのまま待たされっぱなしはもう飽き飽きさァ。どうせ見えも聞こえもしないんだ。せめて普通に居させておくれよ。おかげで尻が痛くて痛くて……。黒いの、わっちの尻は潰れちまってないかえ?」

「あの子供の時間は、あそこで輪になっちまったからな。仕方ねぇのさ、白いの。あの人のふりも、一体いつまでもつやらなぁ……。もう随分崩れてきちまってるんだろ? それと、尻は無事だからこっちに向けてきなさんな」


 やいやいと喧しい白色に、不思議そうに小突かれ続けているネムをそこから引きはがして、黒色が嫌そうに呟く。


「守護憑きの上に獣とくりゃあ、随分と守ってるやつにぞっこんなのは他の奴らを見ても分かるが、いつの間に庇護を恋心に変えちまったやら。一途な想いは恐ろしいねェ」

「良いじゃあありませんか。それだけ彼の方を想っているということでございましょう?」


 こともなげに言い放ったネムに、黒色は言っても無駄だとでも思ったのか、やれやれと首を振った。異形でありながら、この中の誰よりも良心のある黒色には、彼らの恋路が幸福なものにはどうしても見えない。


「それにしたって、なにもいちいち虎を手放そうとしたところから始めなくてもいいだろうに」

「その方がその後の幸せが倍に思えるってェもんなのサ。黒いのはまだまだ恋の駆け引きってもんが分かってないねェ」

「分かりたくもねぇよ。そんなもん」

 

 自分を捨てた少女への悲しみを、すべて少女を害した者に向けた虎。

 呪いで歪んだ彼が、最期に残った彼への未練と店主の導きでこの骨董屋に辿り着いた少女の魂を、たとえどんな姿になろうが、天に昇らせる事を許すはずがなかった。


「呪う相手など、とうの昔に影すらないのに、御嬢さんの目に少しでも映ったからと、未だに毛ほどの繋がりの連中にまで手を広げて……よくやる。あの御嬢さんが知ったら泣き伏しそうな話だよ。いや。もうあの御嬢さんにはあんたしか見えちゃあいないから、むしろ喜ぶのかね」


 非難するような声色のくせに、酷く楽しそうな店主は、煙草の先を歪めた口角でがりりと噛みしめる。

 そんな店主に、ネムはなんら変わらない眠たげな顔のまま、のんびりと茶を差し出した。


「死しても離さず、形すら変えて、時を繰り返してまで寄り添おうとする。仕舞いはいつか世界が果てる時……。情念とは恐ろしいものでございますね。先生」

「あれもまた、ひとつのカタチというものさね。そうだろう?」

「はい。先生」


 ぐるぐるぐる、低く響く喉鳴りの音に、随分と機嫌よさげに目を細めた己の雇い主に、珍しい物を見たとネムの半眼が少しだけ見張られた。

 午後の光の中、ゆるりと水煙草の紫煙が揺れる。ランプの光に照らされるのは、人ならざる異形の影ばかり。

 騒がしい店内を忘れさせるように、永遠に続く次の逢瀬を待つように。

 

 全て忘れて鎖の先で輪を描く少女と、悲しみから生まれた哀れな虎。


 どんなに歪な姿でも、彼らにとっては、今この時が最上の幸福だ。



「ほんに、ようございました」



 光の中に微睡む巨大な獣の幻と、飄々と窓の外を眺める店主を見つめて、ネムは嬉しそうにほんの少しだけ頬を緩めた。

 


虎 陶器に封じられた虎の妖。小雪さえ側にいてくれれば、彼女の姿がどうなろうと構わない。

小雪 虎の持ち主だった少女。生前は虎に怯えていたが、悪霊と化した今では虎のことを心から愛している。そもそも今の彼女には虎以外の記憶はほとんどない。既に並の力では太刀打ちできない悪霊になっているが、本人にその自覚はない。

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