32.青蓮
大戦から十年後――
男五人が転がるように逃げていた。
ほっかむりにくすんだ色合いの袷。どう見ても盗賊である。
その諸手に担ぐのは米俵やら瓜やら魚、食べ物ばかりである。
男達が平生のように生きるものでは無いにしろ、その逃げ方は異常だった。
命懸け、表情と行動でその刹那の魂を映すかのような必死さだった。
男達は東国を荒らし回るならず者である。そこそこ腕は立つが武士の集団に溶け込めるかと言えばそうとも言えず、かと言って強盗まで出来るほどの手練れかと言えばそれほどでもなく。どちらとも言い難い境界をちゅうぶらりんとしているのがこの男達だった。
孤児だった男達が寄り集まって出来るのがかっぱらいや強奪で、今まで何度か検非違使に追われても、持ち前の機転と土地勘で逃げ切っていた。
しかし、近年の、仏教的に言えば末法、この世の終りとでも言った様相か? 不作のために彼らの縄張りでも食い扶持を稼ぐ程の盗みが出来なかった。かと言って調子に乗ってやり尽くせば、国司に眼を付けられて山狩りの上、斬首曝し首くらいはさせられるだろう。そこまでやるほどの度胸の無かった五人は自分達の縄張りを鎌倉の辺りから足柄山の方面へと向けたのだ。
その山付近は、肥沃だが入り組んでいた土地を京から派遣された監督者の指示によって綺麗に整えられ、ここ数年の干ばつなどの災害を無視する豊作続きだとの事だ。
それでも盗賊が寄り付かないのは、数少ない盗賊仲間から聞くに、曰く、麓には足柄山の鬼が住む、とか。
何でも、その監督者は鬼とも呼ばれるほどの剛の者らしく、干ばつの時には地下水を止めていた岩盤を打ち砕き、洪水の時には荒れ狂う大水を大岩で堰き止め、盗賊が出た時にはそれを悉く一人で駆逐する、と言う噂だった。
しかし、何を思ったのか。むしろ、何も考えていないのか? 男達はただの噂が噂を呼んだものだろうよ、と鼻で笑い、鬼の棲む山へと足を運んだのである。
確かに、噂どおり、ここ数年の不作とは思えない程の恵みに満ち溢れていた。地方では自粛していた祭りを民は気にせずにその自らの豊作を喜び、感謝するかのように、山から見下ろす男達の眼下でちょうど行っていた。
祭りで浮かれている間ならしめたものと、男達はさっそく、手近なデカイ邸宅へと手っ取り早く忍び込んだ。
んでもって、調子に乗って、その邸宅で大口を開けて寝ていた巨乳の美女を押し倒そうとした時、
鬼 を 見 た 。
殺される。間違いなく殺される。弁解も謝罪も土下座の余地も無く、踏み砕き、千切り殺されると確信した。
押し倒した女に「こんな事して、亭主に八つ裂きにされても知らないわよー」と、寝惚け眼でまるで何も危害が加えられないと確信したような言い方をしている時点で気付くべきだった。
神様、仏様、道祖神様、御神木とか地蔵に立ちションとかしてごめんなさい。
だから、
「こ の ど ち く し ょ う ど も が ぁ ぁ ぁ ぁ ぁ ぁ ぁ ! !」
「だ れ か た す け て ぇ ぇ ぇ ぇ ぇ ! !」
後ろから迫る鬼をどうにかしてください。
無論、その願いを叶えてくれるほど、神様や仏様や道祖神様は暇でも寛容でも手ぶらでもなかった。
篤五郎足柄記によれば、国定錬仁、その妻、相模を襲いし盗賊どもを捕縛す、と記されている。
その後、男達は錬仁の大地を砕く拳で三途の川に四度、五度沈められ、その後彼の領地で馬車馬の如く働かされてから、聖人君子もかく言う真人間になったのは言うまでも無い事である。
「はい、あなた。お仕事お疲れ様」
玄関で返り血(男五人分)の掛かった錬仁を迎えたのは押し倒されたのにも関わらず、のんびりのほほんとしている相模だった。
濡れ絞りを彼女は錬仁に差し出し、うむ、と彼は一言返すと、顔にまで飛び散った血をゴシゴシと拭った。
「さぁ、もうお仕事も終りでしょ? 湯浴みにする? 夕餉にする? それとも、あ た し?」
「じゃあ、相模で」
そう平静を装って(特に今にも綻びそうな口を我慢しながら)金太郎は言うと、音を立てて相模の顔は紅く染まり、「れ、れ、錬ちゃんは激しいから明日足腰立たなくなちゃうよぉぉ~」と顔を錬仁に埋めるように隠しながらポカポカと腕を叩き、見ているこっちが恥ずかしいくらいの、新婚気分の抜けない十年目の妻の顔を見せた。本当に十年目かコノヤロウ。
ちなみに妙に肌の艶が良いのは錯覚ではない。盗賊達が思わず本能にずきゅーんと滾るほどの艶かしさなのだ。
ほぼ毎晩、元服前のお子様にはうふーんであはーんな筆舌しがたいあれこれを錬仁としているおかげで、素肌の手入れなんて言葉の無い時代でお肌の曲がり角はずの二十ン歳にも関わらず、十代前半と言っても差し支えはない張りを保っている。ちなみにそのあれこれについてどれほどの効能があるのか分からないが、お父さんお母さんにバレずに『房中術』と言う言葉で書物などを紐解いてみたりしてみていただこう。ちなみにそれによる様々な被害などに関しては己が身の内に止めておく事を願う。
さて、今日はどんな行為をどれくらいしようかと巡らせている、発禁寸前にえろえろで性欲を持て余している相模に金太郎は軽く咳払いをする。
「ごほん、……期待するのはいいが、でもたぶん今日も無理だ」
そう言う錬仁に、咳払いでようやく桃色で排他的な妄想世界から戻った相模は「んー、確かにそうよねー」と口元に指を立てながら、不満そうに、でもしょうがないのねーと言うように嘆息する。
二人で玄関から庭先を見ると、巨馬、羅王号によく似た黒馬に乗る、いや乗せられて、むしろ遊ばされているおちびちゃんが居た。
巨体の馬にまったく似合わない小さな男の子は、必死に手綱を握りながら叫んでいた。
「こら。覇王丸、おいらの言う事を、聞け! 真っ直ぐ、行って、あの盗賊、どもを、うわ、と。おわわわ!」
そのまま、錬仁の邸宅前を流れる川へと音を立てて振り落とされ、馬、羅王号の息子である覇王丸に舌を出して馬鹿にされる。
「……うわぁぁぁぁん、おとぉちゃーん、おかぁちゃーん」
その甘えん坊で、泣き虫の我が息子、金平の情けない姿に、髷を結った頭を錬仁は掻き乱しながら溜息をついた。
盗賊を追おうとして馬に乗る事だけに梃子摺り、先ほどから本末転倒になって落馬を繰り返す我が子に、相模は苦笑しながらも渇いた布を持って川岸まで迎えに行った。
負けん気だけは誰に似たのか? 金太郎譲りの怪力も武の才能もあったが、錬仁や相模の子供時代のために些か両親と共にする時間が長かったためか? 心の何処か部分で誰かに頼る気性が抜けなくなり、直ぐに錬仁や相模を頼る様で『泣き虫金平』などと言う不名誉な仇名を同年代に着せられていた。
「金ちゃん、いつまでも私達に頼っていてはだめでしょ。覇王丸ちゃんに馬鹿にされるのはそんな風に気弱なところを見せるからですよ。堂々と乗りなさい」
濡れた頭をゴシゴシと擦り、顔を挙げてさせてから指先でめっ、あまり怖くなく叱る相模に錬仁は更に嘆息を重ねる。
「だって、お父ちゃんに追いつこうと思って焦って」
「だっても糞もないだろ? 戦場で馬に乗り遅れたから戦に間に合いませんでしたじゃ済まないだろう」
「うぅぅぅぅ」
「なんだ、親父に逆らうと言うのか?」
その言葉にずぶ濡れの犬も唖然とするほどの全身に及ぶ首振りを見せて「そんなことないです」と形ばかりの言葉を吐き出す。
「もう錬ちゃん、怖がらせちゃだめでしょー? さぁ、金ちゃん、夕餉食べたらお祭り行きましょ?」
「うん、……あの、お父ちゃんは?」
「俺は祭りで今日みたいな不届き者はいないか見回りをしている。まぁ、祭りの後半に入ったら、篤五郎とでも交代して一緒に観てやるよ」
「え、じゃあ、お父ちゃんの舞見れるの?」
眼を輝かせながら見る金平の頭をくしゃりと大きな手で撫でる。
「見るだけじゃない。お前も舞台で舞うんだよ」
「え、でも……、おいらはお父ちゃんみたいに上手くないからさ……」
「上手い下手は見ている人間が決める事だ。それに何、他は下手だが、まぁ、他のがきんちょに比べてお前の舞はぴか一だ」
「他は、って……」
「まるで取り得が無いよりはいいだろう?」
「うーん、遺憾」
その言いがかりにかちんと着た錬仁は音が鳴るほど金平の尻を掌で引っ叩く。
「ほらっ、がたがた言わずにとっと袷に着替えてこいっ!」
ふぇぇんと泣きながら、尻を引っ叩かれた勢いで自室へと金平は戻る。
まったく、と嘆息するが、そこでくすくすと笑う相模に「なんだよ」と更に口を尖らせる錬仁。
「だって錬ちゃんが『がきんちょ』なんて事言い出すんですもの。わたし、おかしくって」
「一体何年前の話を出すのかな? 君は? ほほぅ、後で、どうやら俺ががんきちょでないと証明するために痛い目に会いたい娘が一人いるみたいだねー」
「いっやぁだぁ。そぉんなはしたない事言わないでよー」
と、錬仁の気を知ってか知らずか、ぺちぺちと野太い腕を平手で叩く相模。
「あー、いや、別に、そう言う意味で言った訳じゃないのだがね」
それとも先週の『あんな事』がお好みだったのか、としばし思いを巡らせ、あまりの過激な想像に鼻血が出そうになったところで、大戦以前からの部下である篤五郎が邸宅の前に到着した。
「旦那ぁ、顔が緩んでますぜ。また昨日の晩はお楽しみでしたかい?」
にたにた笑う篤五郎の言い草に、家族専用のでれでれ状態からいつも領内を回るときのぶすっとした顔つきに戻し、更に勤勉な領主へと顔を切り替える。
「ふん、最近、あのばか息子の夜尿が酷くてな、夜伽どころじゃないさ。それよりお前のところはどうなんだ?」
「いやー、どうにもこうにも。旦那の家と違って十人家族ですからねー。暇も何もあったもんじゃないですよ。毎日馬車馬のごとく働かされてます」
「おぉ、そうだ。さっき、捕まえた強盗。あれをお前の家で使わせてやる。家でこき使ってやれ」
「無論、逃げたら『死ぬよりも酷い目に合わせる』と、言い聞かせておけばいいですね」
うむ、と首肯し、覇王丸の横で、何か言い聞かせているような羅王号を指笛で呼ぶ。
羅王号は、動物の言っている事は大体分かる錬仁以外でもおそらく説教しているのだろうと言う感じだった。だが、それこそ馬耳東風と言った形で息子の覇王丸はまるで聞く耳を持たず、錬仁に呼ばれた羅王号は仕方なく厩を離れ、ちらりと息子の姿を見たが先ほどの説教を気にせずに干草を優雅に食んでいた。
「お互い息子に苦労しそうだな」
そう乗り込んで言った錬仁に、鳴き声を挙げて同感の意を羅王号は表した。
「ところで、旦那。京の近況をご存知ですかい?」
「いや、俺が京の政が性に合わんことを知っておるだろ? で、何のことだ。事情通のお前なら色々聞いているだろ?」
錬仁は次々と頭を垂れるすれ違う民に馬上から片手で礼を返しながら、篤五郎に聞き返した。
「はぁ、晴明殿も当の昔にお亡くなりになり、京の政は乱れるかと思いましたが案外大丈夫なものでした。こちらにも聞き及ぶほどの帝と大殿の治世を敷いてますなぁ」
「確かに、晴明殿は亡くなったらしいな……」
十年程前、ちょうど晴明の邸宅に雷が落ちた頃から、晴明は体調を崩して塞ぎこみ、西暦にして一〇〇五年、ちょうどこの祭り日のの七年前に亡くなったと言う。人々は雷神、菅原道真か、もしくは龍神 龍ノ目 時雨の祟りではないかと噂した。
晴明には法力僧のような力、魔力は無かったが、理を読む能力、魔術によって京随一の遣い手として多くの貴族から信頼を置かれていた。それこそ妖の力が蔓延る時代。後から討って出る武士よりも妖を影から御し、退け、先手を読む専任の退魔師、陰陽師の方がより心強く感じられたのだ。それこそ様々な呪を遣い、好敵手である芦屋道満に首を刎ねられ、バラバラにされても五体満足に生き返ったと言われる最強の陰陽師安陪 晴明。錬仁は千年くらい生きるかと思っていたため、その死は意外と呆気ないとすら思っていた。しかし、事実上坂田よりも長生きしたため、当時としてはかなりの長寿の部類だった。
「懐仁親王様(一条天皇)の御息子、敦成親王様も先々年度には誕生されましたし、天下太平と言ったところでしょうか?」
「どこでもそうという訳ではない。我が邑や京の外は飢饉や疫病も蔓延し、透破や乱破の類も今日のように頻繁に横行しているとの事だ。国司との連絡を密にして徐々に豊かさを広げていかねばならん」
「へぇへぇ、相変わらず望みの高い旦那でさぁ。ところで他の三人の方々は?」
「綱は香取だかどっかで政務は切り込み隊の部下に任せて刀を一人で振っているらしい。悠々自適だな。貞光は一度、比叡山に戻ってから地方行脚の旅に出たとかで行く先々で法力を使って度々空海上人に間違えられているらしい。阿呆の秀武は丹波か何処かの方面で上手くやっているらしいな」
「全員お元気そうですね」
「……ん、あぁ、そう、だな」
「…………」
そんな事を話している内に村の見回りを一通り終え、錬仁の家の前には彼の重騎馬兵団の隊長格の何人かが居た。
「旦那、残りの見回りはオイラ達にお任せくだせぇ」
「しかし、残りもう一回りするのが慣わしだぞ」
「旦那ぁ、旦那の奉納の舞が見たくて近隣から来ている方もいらっしゃるんすよ? 宮中で帝の笛で舞って、そしてお褒めを頂いた事があるなんてことを聞いて、一月掛けて京からいらしている貴族の方も居ますんで、後でオイラ達が政務で引き釣り廻したなんてことを知られて文句言われたら敵わんですぜ」
「ふん、貴族もそんなに暇なら仕事しろってんだ」
「旦那ぁ、仕事をしないと仕事が無いのはえらく違いまっせ。それに奉納の舞、後半は金平殿と舞うそうではないですか?」
「馬鹿息子だがな、ま、舞の才は無いわけでもない」
「ま、とにかく旦那を待つ人は多いんですぜ? さぁ、後はオイラ達に任せて。民に顔見せしてきてくださいなぁ」
「あーあー、わーったよ! ったく、おまえと来たら……、あとで、おまえも家族んところ行ってやれよ?」
「……へぇ!」
馬首を巡らし、彼が統治する村の中心へと向かう。
行く先々でチャンバラで遊ぶ子供、大量の稲を背負子に担ぐ家族達に「錬仁様だぁ」やら「ありがたやありがたや」と手を合わせる婆様らに礼を交わされる。
村の中心では祭りのための櫓が組まれ、その脇には彼が舞うのための舞台が置かれていた。
祭りともあって隣の村、またその隣の村の人々まで来る盛況さである。
また先ほどの遠方からの貴族達も慢性的な飢えなどに塗れている京とは違い、酒などを呑み喰らいながら村の女子を口説いている。
彼は舞台の裏に回ると、簡易な鎧を脱いで、舞人のための装束を着た。
村の音楽名人達による音の紡ぎが始まり、老若男女、貴賎を問わずに、静かに舞台の前へと座した。
微塵の揺れも無く、錬仁は上座から舞台の中央へと足を進め、客席の前で突如跳ぶ。
静が強調される舞の中で彼の舞はピタリと止まる。見栄をきる最中でさえ、肉食動物がじわじわと間を詰めるような静の中の動があり、激しい体の躍動の中にも芯の通った何かがあり、まるで動の中に揺るがない静があった。
そして、音楽が一度止み、上座からまた一人、舞人が参上する。
二つの太刀を携えた子供、金平である。
普段、彼を馬鹿にする子供達が「なんでアイツが!」と言った驚き顔で舞台に釘付けとなる。
それに気付いたのか気付いてないのか? 金平は太刀を舞う錬仁へと静々と捧げ、錬仁は舞いながらも華麗に太刀を、目の前の息子と互いに輪を作るかのように抜き放つ。
先ほどのどちらかと言えば落ち着いた心持の音楽が突如として激しい、豪雨のような音楽へと転じて響きを齎す。
太刀が奔る。空かして突く。跳ぶ。逆さのまま、太刀の峰に手を掛けて更に跳ぶ。着地する場所への切り付け、回りながらもまるで体勢を変えずに下がる。
白刃が舞い、祭りの篝火に照らされて光を照り返す。一歩間違えて踏み込めば、一拍子でも間違えれば、肉親を傷つける狂気の中で、人々は国定の親子の剣舞に魅入っていた。
いつしか音楽はピタリと止み、それと同時に彼ら親子も太刀を鞘に納めた。
観客は呆気に取られていた。毎年見ている者も、始めて見る者もその美しさとそれに逆に位置する命を掛ける行為に絶句の他ならない。
歓声も束の間、儀礼的な礼も早々に舞台を抜ける錬仁。慌てて金平も下座との境でこけながらも後を追う。
「何度しても慣れぬものだ」と舞台裏で一人心地となる錬仁に、金平が「お父ちゃん、オイラの舞は……」と声を掛けようとした時だった。
騒がしい馬蹄と共に篤五郎が息を切らせて現れた。
「どうした騒々しい」
「北部の山から五十人の見慣れぬ兵団を発見。誰何の声を掛けたところ、突然射掛けられ、現在鷲見麻呂の五人部隊が街道手前の堀で交戦中」
「桐佐間らを連れて応援に向かえ。巽の方角も警戒しろ。あそこは遮蔽物が多くて抜けやすい。祭りに来た人々に動揺を見せるな。馬から降りて徒歩で応戦しろ。静かに的確だ。久しぶりの戦争だ。……抜かるなっ」
「了っ」
さっきほどまでの倦怠した雰囲気は何処へ行ったのか生き生きとした表情で、指揮をする錬仁。
「金平。館に戻ってお母ちゃんを守れ。敵は少数で、祭りに乗じて潜入しているかもしれん」
「!? う、うん」
「うんじゃない! 足柄峠の邑頭、国定 錬仁の命令だ。忠を果たせ!」
「りょ、了!」
錬仁は金平から儀礼用の太刀を取り上げ、舞のための仰々しい衣装を脱ぎ捨てるが早いか、褌のみとなって羅王号に跨る。
その体は長年戦から離れていたにも関わらず、それを忘れていないかのように太く、強靭に鍛え上げられていた。
金平の何か言おうとした様子に目もくれずに、羅王号の腹を蹴り、馬蹄の音を立てない独特の走法であっという間に村の端まで消えていく。
村との境である道祖神の塚を越えた途端、野生の勘が思考よりも早く命じた。
儀礼用の太刀とてそれは装飾ではなく、歴戦を繰り広げた彼にとっては万敵を悉く塵殺し切り倒す兵器に他ならない。故にそれは飛来する矢を弾くのとて他愛もない。
黒い空から季節柄の豪雨の如く降り頻る矢尻。
それを片手で、造作も無く太刀で掃い、馬身を守りつつ進めながら錬仁は吼えた。
主の遠吠えの如き気魄に今まで物陰に隠れて縮こまり震えていたはずの彼の家臣達は、その勇ましさに応えて矢面に身を晒した。
忘れていた。長い農耕生活、幸せな家族との団欒と武器を纏わぬ日々によって。
日々の鍛錬とて、それは心と身体への備えにしかならないこと。
矢が飛交い、刃が猛る中で唯一己の戦意と培った技術が身体を突き動かす確かなものだと言う事を。
彼ら自身が戦人であること。
闇殺舎の錬仁の部下にとって武器とは各々が振るう事ではなく、身体に繰り返し刻み込まれてきた血の作用であり、それを組み込んできた過程を否定する事、主である錬仁の後に続かないと言う事は彼らの存在そのものを否定するのに等しいのである。
五十人の敵の手勢に対し、錬仁を含め僅か七人。
岩盤に楔を打ち込むように、錬仁を先頭に矢の嵐を突き切る。掠ろうと刺さろうと意に介さず、ただただ敵に突き進む。
愚直にして剛直。
愚昧にして剛毅。
しかし、どちらが大きな損害と名誉の損失を戴くかと言えば、言及するまでもない。
手勢、武器の双方で勝ろうと、闇を彼岸へと屠ってきた狂獣、闇殺舎の大きな牙に噛み砕かれてしまうのだ。
戦いは一方的に終わった。
錬仁とその部下の狂気の如き突撃に恐れをなし、泡を食って逃げる敵を背中からバッサリ切り落としていく。
「うわぁぁぁっ! 寄るな、貴様、寄るな!」
顔面蒼白となり、今にも暴発しそうな弓を引き絞る男。このならず者の指揮官に錬仁は虎の歩みのように緩やかにそれでいて力強く追い詰める。
男の後ろは大木。間合いは十歩。目前の武士が聞きしに勝る獣ならば、矢の速度と獣の踏み込みは互角。中らねば、死あるのみ!
もう後は無いと気づいた瞬間、男のゆがけから弦が離れた。
狙い過たず、軌道は錬仁の眉間へ。
次の瞬間、無造作にその軌道上に出された二本の指が矢を挟み込み、手首を返して射手の胸に刺さっていた。
「ぎゃあぁぁああぁぁぁぁぁ、がっ」
叫ぶ喉元を獣の握力で締め付けられる。
「騒ぐな下郎。貴様、この俺の領が闇殺舎のものだと知っての所業か?」
その言葉に閉口し、その事実がとんでもない思い違いだと言うように首を振る。
「し、知らねぇ、俺たちゃ、お役人様に盗賊の村があるから掃討するようにとお達しがあっただけだぁ! 大層強い盗賊で、捕らえれば褒賞が与えられるって」
「……お役人?」
「そうだよっ! 何でも、居貞親王の勅命だと言っ、ガハッ」
ギリリと青竹を握りつぶす指先が一層強く閉じられる。
「ふざけた事を抜かすな下郎……、親王は懐仁親王陛下唯一人であろうがッ! 伯父の居貞陛下が何故そこで出てくるっ!」
「ふざ、けて、な、……がひっ」
一層強く食い込んだ指先が牙の如く首を引き裂きそうなほど絞られる。
口を開ければ絞られすぎた首のせいで舌が飛び出そうなほど、顔は紫色に染まっている。
「旦那落ち着いてくだせぇ! そんなに締めたら声も出せませんぜ!」
五人掛りで錬仁の片腕に捕まって男は事なきを得る。
二週間ほど前、千十一年、六月二十二日の頃、
露の身の 草のやどりに 君をおきて 塵をいでぬる 事ぞかなしき
その遺詠を口ずさんだ後、懐仁親王は崩御なされたのだった。
その後世は改まって、居貞親王が治世を敷くこととなったのだ。
直後、何者かの随身の筋から闇殺舎を襲撃するような命が出たとの事だ。
「だが分からん。何故、東宮が我々臣下を襲撃するのか?」
あらかた吐かせてから、羅王号のみで三十人の捕虜を引き摺り、館へと帰る道程で篤五郎へと問う。
「何だかんだ言いつつ、我々の戦力は驚異ですからね。おそらくそれが原因かと。一応、我々はまだ天皇の直属の随身扱いですが、懐仁親王陛下の、もとい『道長大殿の』派閥の勢力に我々の戦力が移る事を危惧したんじゃありませんかね? それに居貞親王と言えば、懐仁親王陛下より年上でしたし、確か、陛下はお子様の敦成親王もお生まれになってましたから、実質、道長大殿の勢力に『挟み撃ち』にされているわけですからね。おそらく、我々の勢力を削ごうとしたんじゃないですかね?」
「ふん、愚かな。並みの兵が我々を抑えられるか。一度押し返せば文句も言わないだろう」
「でも、この調子ですと、綱の兄貴や、秀武兄貴のところにも兵が出てるでしょうね。まぁ、貞光の野郎は坊主紛いの根無し草で放浪中らしいですし、万が一本山に居ても流石に延暦寺を焼き討ちするような罰当たりな事を魔王のような性根でもない限り陛下もしないでしょう」
「だろうな。あいつらにも未だに臣下の兵は多く就いている。ならば数で攻められようと負ける事はあるまい……」
そこまで言い切って、錬仁の心臓に槍が刺さったかのような衝撃が襲った。
綱や秀武は良い、自身も腕が立つ上に兵も居るだろう。法術の使える貞光も一人なら逃げ切れるだろう。
だがもし、平和な村を襲い、略奪を始めた下郎から民を守るために、一人でも戦う少女はどうなるだろうか?
兵も無く、武器も無く、味方が居なくても、最後まで戦ってしまう少女はどうなる?
早鐘よりも錬仁の鼓動が五月蝿く鳴る。眩暈がして視界が真っ白になる。
「旦那、珍しいっすね。顔色が悪いっすよ」
誰の声も聞こえない。
守らない、と。
その強い衝動が、体を突き動かす。
羅王号もその強い気配に気付いて彼を止めようとする。だが、三十人の惰弱な下郎を引き止める事は出来ても、衝動の爆発した獣を止める事は出来やしない!
後ろから叫ぶ部下の声も、民も、家族でさえも何も後ろ髪引かれるものは、……ない。
走る。二本足で、大地に跡すら残さず、疾風の如く。
途中からはまどろっこしくなって、昔のように四つ足で駆ける。
崖から崖を跳ぶ、鬱蒼とした森林を舗装された道があるかのように駆け抜ける。
河なぞ流される間も無く、直角に突っ切るように泳ぐ、いや水の上を走る。
最悪の事態を回避しなくてはいけない。ただ、その想いだけが、一度たりとも訪ねる事の無かった、彼女の居場所へと吸い寄せられるように駆ける。
昼夜を問わず、駆け抜ける。ひたすら、しゃむにに駆け抜ける。
本州を殆ど縦断してしまう距離を水一滴、一息の休みも無く駆ける。
目は一度たりとも瞬きなく、彼女が戦っている地を睨む。
岩肌で擦れた肌は細かな傷で真っ赤に染まり、大地を素足での蹴り方を忘れていた手足は大地に点々と紅い華を咲かせていた。
それでも、頭の中身が馬鹿になって、彼女に会った以前のように、痛みも忘れて単純な事しか考えられなくなっていた。
彼女の真名だけが、心の中で共鳴してより強く錬仁の中で意識されていく。
そして――