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31.虎々婆(ここば)(2/2)

 黄昏の紅。黒よりも蒼い空が侵食する。

 天上よりやや西に望月。

 全ての望みは果たされた。

 少女は一人、白絹の薄い格好で光はぼんやりと空を眺めていた。

 若葉の匂いが庭に漂う。初夏の目前の夜。

 源 頼光だった猛者は、既にその身は光と言う小さな少女に変じていた。


 闇殺舎の殆どは古参も新参も含めてそれぞれの帰路を辿り、彼女の許に残るのは四天王と相模、そして彪凪と羅王号のみである。

 無茶な闘いは何度もした。それもこれも民のためだった。妖魔の脅威が薄れた今、政治機構は安定し、貴族との隔たりのない(まつりごと)が行われるだろうと彼女は思っていた。

 全てが終わってしまえば、祭りの後の寂しさように感じられた。

 逆にその知らせを聞いて、安心した彼女の近所の貴族は宴会を始め、静かなのは彼女と向かいの安陪晴明の邸宅くらいである。

 囃子の音頭が遠く聞こえる。

 澄んだ空に僅かに掛かる絹のような雲。




 砂利を踏む足音。

「隣、座っていいか?」

 頷く光を見て、錬仁が縁側に腰を下ろした。

 巨体を縁側が重みを受けて、ぎしりと鳴る。

「……爺の埋葬が終わったぜ。懐仁親王もお越しになられてな。それは爺の人徳を垣間見る盛大で、それでもしめやかな葬式だった」

「そうですか」

 上流から引いた水が、庭園の一角である池へと注がれる音が静かにさざめく。

 池には錬仁が度々釣った魚が放され、水面に映る月を中心に回っている。

「頼光」

「私は光と申します。彼方様のようなご身分の方とはお話する事は、もう無いはずです」

 若葉を震わす風。

 それは通り過ぎる過去の音か――


「俺は、頼光を慕っていた」

「存じております。『兄上』とは、ほんに仲が良かったのですね」

「一緒に風呂にも入ったぞ」

「『兄上』の身長にも満たない頃でしたね。可愛いものだったそうですね」

「この家で食った飯は、やたらと美味かったな」

「相模様が作る膳はどれも一品だったようですね。彼方様の御作りになり始めた膳も大変美味しかったとお聞きします」

「……初めて、馬に乗った時は気持ち良かったな」

「彼方様がお乗りになろうとした羅王号は、非常に気性が荒かったらしいですね」

「でもあいつ凄ぇんだぜ。乗りこなして本気で駆ければ、牛車や土塀をぽんぽん飛び越すんだぜ」

「ふふっ、彪凪とは最初は仲が悪くてつんけんしていたのに、今では五匹も子を産んでますからね」

「初めて乗れた後、調子に乗って酒を始めて呑んだ時は大変だったなぁ」

「あら? 呑み過ぎたのは『兄上』のせいではございませんでしょう?」

「さぁな、頼光が最初に一気呑みを煽った気がするぞ」

「気のせいでございましょう」

「さぁな」


 互いに笑う。本来ならば、源 頼光の妹とその臣下の国定錬仁は邂逅する事は無い。共有する記憶も、その身にそれぞれ残る傷跡も、同じ戦場に立った証で合ってはならない。



 様々な過去が巡る。

 弓を教えて貰った時の感触。味噌煮を美味いと言いながら綻ぶ笑顔。汗を隠す僅かな香の薫り。その汗の味。綺麗で澄んだ、雅な声。艶やかで黒い髪。

 光――



「なぁ、光」

「はい」

「俺の……」


 途中まで言いかけて、何故か、影から自分をいつまでも支え、叶わぬ思いを溜めていた、もう一人の少女を思い出した。



 初めて屋敷で柔らかく包んだ布と彼女の手の感触。疲れた錬仁を見て明け透けなく笑う顔。家事で少し荒れた掌。寝床で嗅いだ彼女の匂い。少し甲高く静かで透き通る声。同じく艶やかで黒い髪。

 相模――



 錬仁を信じた瞳が光なら、それ自身を案じていたのは相模だった。




「彼方様には相模様がおわしますでしょう。互いに愛し合う身であれば、それはようございます」


 つと、光は自分の横に畳んでいた着物を羽織る。

 その場から離れる身体を錬仁の腕が抱き締めた。

 あの時、崖から落ちていく時と同じ力強く、熱く迸る感情。


「光、俺の傍に……」

「彼方様とは今晩初めてお会いしたばかりにございます。荒武者と呼ばれる方は、秀武殿を含めて、乱暴なのでしょうか? それとも、」




  あの日、あの晩、頼光を目標と仰ったのは嘘でございましょうか?




 つぅ、と錬仁の頬から月明かりを反射する一滴。

「『兄上』は常に彼方様の憧れで在って下さい。……『兄上』を宜しくお願いします。相模様とお幸せに……」

 彼の、この地に比類なき怪力の縛めをあっさりと外すと、しずしずと礼をして縁側を去った。


 その錬仁と同じく、頬を流れる雫を隠して……




「あぁぁ」

 分からない。憧れだったのか? 恋心だったのか?

 彼の頭は混乱の一途を辿り、涙が止まらない。

 錬仁は思う。俺が光に抱いていた思いは何だったのだろう、と。




「金ちゃん」


 流れる涙を掬ったのは、彼が案じていた瞳の女だった。

 あの、まだ彼女よりも小さく、ただの獣だった頃に、その身体を拭った布のように柔らかく、彼を正面から抱き締める。


「俺は、爺からお前を頼まれたのに、それを無視しようとした」

「はい」

「そんな俺に、お前に対して何が出来るか分からない」

「構いません」

 涙で霞む彼の瞳に、微笑を帯びた少女の顔が映る。

「私は金ちゃんの傍に居られさえすれば、それ以上望む事はございません」

「俺は頭は悪いぞ。きっと位田を与えられても上手くはいかん。畑なんか耕した事がない。お前を養っていけるかどうかも。それにお前を愛せるかどうか――」

 そこから先の言葉を彼は紡ぐ事は出来なかった。

 相模は彼の言葉を押し止めた唇を拭う。

「金ちゃんが……、錬仁様が私を愛せるように私が努力してはいけませんか? 錬仁様が光様を忘れるまで。私には、」




  それだけで十分です。




 その彼女の強い感情に答えるように、錬仁はしかと、彼女を強く、離さないように抱いた。




 光を京の外へと連れ出す牛車。

 その前に、月影に縁取られた一人の男が居た。

「あら、綱お兄様、久方ぶりですね」

「光、良いのか?」

 そう言う独眼の男に少女は涼やかに笑う。

「公時様の遺言ですので。彼方様もご存知でしょう。元は公時様は為平親王の隋人。名も無き、内裏に侵入した賊が、地位を認められ出世したのですから、その恩を親族に返したいのは道義でしょう」

 眼を伏せて思い返す。


 床に伏せた老人がよろよろと起き上がり、頼光の前に頭を擦りつける姿。

 その昔、京を荒らした名も無き賊がいた。身の程を超えた思いあがりに遂には内裏に侵入して手傷を受け、思いがけぬ事に、侵入した殿の皇子に助けられた。そして氏を与えられ、それに報いるために鬼を討伐し、内裏に名を掲げる兵となった。しかし、その思いは届く事無く政敵により恩人は散らされ、彼の手には恩人の娘だけが残った。

 恩人の娘であれば、その娘は我が娘も同然。

 その心を奥に秘め、死に際で、目の前に相対する彼女の思いも知りながらも懇願したのだ。

 その覚悟を受け取らずして、武士としての頼光の最後はどう飾るべきか。

 彼女は老人の想いに応えたのだ。


「頼光は四天王の心の中に、それぞれ生き続けるでしょう。私、光は今日、(みやこ)を去ります。西へ、西へ向かいます」

 牛車に、昔培った、娘らしからぬ身のこなしで乗り上げる。


「錬仁様には居場所を告げずにいてください」

「本当にいいのか? それで? お前は金太郎の事を……」

 彼の、先を見通す独眼にも彼女の未来は見えない。

 それでも、その先の見通す事も出来ない霧も晴れるような笑みを彼女は見せた。

「もう決めました。来世で見まう縁があれば、それが救いとなるでしょう」

 単と袷の音も立てずに頭を下げ、牛車を何処知れずに走らせた。




「来世か……、本当にそんなものはあるのか?」

 もし、綱の刀が月まで届いたならば、きっと真っ二つに割っていたであろう、そんな夜だった。



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