25. 刺部陀(にらぶた)(4/4)
「頼光様、お疲れ様です」
暗黒の二次会と道長のぶち切れ説教がようやく終わり、邸宅の風呂場でわしゃわしゃと頭を相模に洗われながら、光は「うむ」と頷いた。
この時代、長く美しい髪と言えば、地面に着くくらいを意味していた。光は運動性重視のためにそれよりも些か短く腰くらいにしてあったが、それでも質から言ってもあまり手入れをしていないのが不思議なくらい艶やかな色をしていた。ちなみに現代の標準である肩くらいの髪型はその時代の尼になるために切るのと同じくらいの長さである。
さて、昇殿し始めた年くらいから金太郎が急に「いや、そろそろ不味いだろう?」と訳の分からない風呂への同行の拒否の仕方を最近し始め、光が強制連行する前に羅王号に乗って逃げられたために「んじゃ、代わりに」と今日は相模を無理やり連れて入れたのだった。
相模が音を立てて光に頭からお湯を掛けると「はー、やっぱ、女御の格好は疲れるからダメだわ」とお湯掛けられた格好のまま、目を瞑りながら言った。
直後にパッと目を開くと「よしゃ、次は私が洗っちゃるぜ」と、文章表現をしたら発禁になりそうな、流石に不味いような、読者サービス的な事を一重に光はあれこれとしてから、湯船にゆっくりと浸かっていた。
「あぅー、頼光様ぁ、あんなところ弄るなんて反則ですよー」
「ふん、戦に汚いも何も無いもんね」
その勝ち誇った笑みは、今日の不慣れな女御の格好と、「おんどれは歌を舐めているのか?!」と誘っておきながら理不尽なキレ方をした道長の叱責(と嫌がらせ)から解放された表情だった。
「まったくあの禿は、人が気持ち良く歌い始めたら急に止めやがって」とブツブツと続けた。だが、これ以上悪口を続けると何処でどうやってその情報を道長が仕入れるのか分からないので止めておいた。
そして、あの場に同行していた相模としては愛想笑いをしながらも「道長大殿でなければあの形容しがたい音の凶器を止められなかっただろうなー、さすが左大臣、そこに痺れる、憧れるぅ」と胸中に残した。
「ところで、何で金太郎は入浴を拒否しはじめたのだろうな? あの野獣の臭いをそのままにしていたら清涼殿の公卿の鼻が曲がるぞ」
妙にムスッとした顔で腕にお湯を掛ける光に不思議そうな顔で相模は返す。
「金ちゃんなら頼光様が入った後に、夜中にちゃんと入ってますよー。金ちゃんは案外綺麗好きですからね」
「なんだ、それは……? 別に風呂に入るのが嫌な訳ではないのだな?」
「つまり、あれじゃないですか? 金ちゃんもそろそろ大人なんですよ? 頼光様とお風呂にこれ以上入るのは教育上不適切と言うことです」
「私は一向に構わないのだが……、で、何がいけないんだ?」
「(この人は何も分かっていない……)」
仕方なく、「んー」としばらく檜風呂の縁を眺めてからから、相模は口を開いた。
「金ちゃんは頼光様の事が好きだからなんですよ」
「私も好きだぞ? 綱だって、秀武だって、貞光だって、坂田もそうだ。あいつは良い奴だからな、よっぽどの事が無い限りは嫌う奴なんて居ない筈だぞ?」
「いや、そう言うことでは無くてですね……。だから、金ちゃんは、そのぉ……、男と女の関係として、頼光様が好き、頼光様と言うより『光様と言う存在』が、えっと、好き、になり掛けているんだと思います」
「は?」
頼光の琥珀色の瞳が点になった。
「ぶっちゃけて言っちゃえば、光様と逢瀬を重ねたい、つまり身体が成長をしてきて性欲を持て余して始めているんですよ」
「――――――――」
「あれくらいの子なら性欲の塊みたいなものですからね。毎日、どんな気持ちで光様の裸体を眺めながらお風呂に入っていたんでしょうね?」
「……………………」
「たぶん、金ちゃんは獣系ですから直接的に『うぉっ、光様孕ませてー』とか思っていたんじゃないですか?」
「 」
「それなのに光様の女性としての考え方じゃなくて、頼光様の男の勢いで無理に誘うんですよ。理性とかそう言うのが切れて、いきなり風呂場で押し倒されてもしょうがないですよ。金ちゃんとしてはよく我慢した方です」
「――――………… 」
相模の怒涛の『口撃』で頼光の魂魄が口から漏れて魂と魄に分かれ掛けていた。
「んにゃ――! 頼光様しっかりするのですー」
相模が肩を持ってガクガクと揺さぶり、ようやく「経基大爺様が……河の向こうで手を振っていた」とかなり憔悴してから現実に戻ってきた。
「相模、私はその……、金太郎を男性としては見ていなかったんだ。あいつの事を部下とか友達とかそう言う風に思っていたんだ。それに私自身も、女だと言う事すら忘れていた」
女も羨む容貌をしておきながら忘れるとは、生霊に祟り殺されかねない所業である。
「頼光様、いつまでもそう言うわけにはいきませんよ。金ちゃんだって男性になっているんですよ。そりゃ、秀っちみたいに欲望が態度や行動として全開じゃないですから分かりにくいかもしれませんけど。もう少し、金ちゃんの扱いを考えてあげないと金ちゃんを男性として逆に傷つけてしまいますよ」
今日の相模は辛辣だった。それは主人の不甲斐無さだけでなく、何か別の感情が働いている事が光の目以外からは分かっただろう。しかし、この場にいるのは、そういった浮いた話の影も形も無い光だけだった。
「私は、どう接したらいいのだろう? 私はそういった形で人を好きになった事も、好きになられた事も無い。それをいきなり理解しろだなんて、奇襲よりも唐突だし、その敵には実体が無い。何だかもやもやして捉えどころがない。それに私は、今は武人だ。それがこ、恋をするなどちゃんちゃらおかしいではないか?」
いつもはくつろぐ風呂の中で、彼女の小さな身体が金太郎が始めて入浴していた時のように更に縮こまった。
「そのままの……、頼光様で宜しいかと思います。貴女らしさを失うのは良くない事です。戦が終わったら……、頼光様も光様として戻ります。そしたら、金ちゃんのことを真剣に考えても良いのではないでしょうか? もし、真剣で無いのなら、それは金ちゃんを裏切っているようなものではないですか?」
相模のやたら気迫の篭った物言いに光はしばし呆気に取られたが、それから持ち直すと微かに笑った。
「……何だか、年も位も上のはずだが、相模には私はいつも負けているな。今回は恋に関しても完敗か」
「経験の差ですよ」
「ふむ……。相模にはそう言う風な、人を想うような経験があるのか?」
その言葉で逆に相模が虚をつかれた顔となった。予想外の問いかけのために顔の表情が薄れていた。
だが、光はそれがただ単に、質問に驚いただけだと思ったのだった。
「まぁ……、そうですね。私にも好きな人は居ましたよ。『その人』が『他に好きな人』が居たから、諦めてしまいましたけど」
それ以上訊くのは流石に野暮かと光も思い、「そうか、でも諦めない事も重要だぞ」と言って先に上がった。
脱衣所から光の気配が遠ざかってから、
「好きな人が誰が好きか分かっているのに……、好きになり続けるなんて辛いだけなんですよ?」
恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ
そう雅に、同時に悲しく、小さく詠んだ。