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16.焦熱(しょうねつ)(2/2)

>>―Side C― 魔術師視点からの続き。

            -Side A-


 橋の横に置かれた、その昔荒ぶる河の神様を鎮めるために建てられたと言う伝説のある石碑に私は隠れていた。

 水気を吸って張り付く髪と薄手の寝巻きが僅かな不快感を醸しだしていた。

 降りしきる雨でとっくに身体は冷え切り、私の小さな吐息は雨の音で掠れていた。

 石碑の陰越しに、そして霞むような視線の先に二人の魔術師がいた。


 雨に打たれる隻腕隻眼に見えない方の目ごと顔半分を額用の防具である古風な鉢金で覆った、黒ベースの軍服の女と、雨に濡れない領域に入っている制服のような服を着た女の子が橋上で対峙をしている。

 水かさの増えた河が豪々と橋梁へと打ちつけ、土を含んだ茶色い濁流が二人の今の関係を表しているようだった。

 彼女達の関係は分からない。ただ、昨日の様子を見る限りは、一朝一夕であれだけの打ち解けた雰囲気が築けるようには思えない。今では私自身の認識は改めたとしても、あくまで魔に属する中では彼ら、魔術師達は「無意味に足掻く者ども」ような形容をされる人種なのである。人の摂理に囚われながら魔道に入り、それ故に人の通らない道を通り、時に人自体を避けることとなる事は必死である。華やかな魔法使いに対して、彼らはその技量を持ちながら、何て日陰の立場に居るのだろう。そして、そんな互いの切磋琢磨ですら疎ましく思えるような魔術師達の骨肉の闘争の日々の中で、あろうことか奇跡的にその親交を深めていったはずの彼女らが、こうして対峙しているのは深く事情は知らないにしろ私はとても心苦しかった。

 決して信頼を取り持たない魔術師が、互いに心を許しあっていた関係が、私で崩されたのだ。


 魔道とは茨の道程である。古より伝わる魔道を歩む者達が噛み締めて言った格言である。

 時に人と決別し、時に自らの選択に苦渋を飲まなければならない時がある。それでも、私は生き残らなければいけない。母のような魔法使い、魔女になるには正に茨の道を時に裸足で踏まなければならないのだ。血が吹き出ても、痛みの嵐に晒されても前に進まなくてはならないのだ。でも、出来るなら犠牲は出さない。きっとそれを許したら、私は魔女でなくもっと卑しい存在になってしまうだろう。


 そんな時、ふと、我武者羅に進む彼の背中を思い出した。

 私よりも一歩も二歩も先を進む彼の巨大な背中を……。

 遥か昔から血塗れの裸足で魔道よりも茨な道先を歩き続ける、行き先の忘れた彼。


 何かを思い出しかけてそんな事は無いはずだと思い直すと、私はセツカに手に添えられた、斜蘭が(スコーピオン)と呼んだ毒針を見据えた。

 魔法使いに取って近代兵器は最大の敵である。引き金を引き終わり、火薬を燃焼させて、金属片をばら撒く時間の方が、呪文を、意識を現実に反映させる速度よりも早いのは当然なのだ。

 技術として発動の早さも到達の速さも突き詰めた魔術と違い、魔法使いは芸術に似て、その魔法の実効の遅さと言うハンデが付きまとうのだ。むろん、それすら突き抜けてしまう天才も中には居るが、言霊使いの殆どはエレンと言う魔女を最後に消えたはずだ。どちらにしろ、私の召喚術などは最も時間の掛かる術の一つで詠唱が覚られば、無効化(キャンセル)させられるのは目に見えていた。

 つまり、私が今で出て行ったとしても即狙撃されるのがオチである。

 魔術師になってしまった三枝先生、いやセツカは躊躇無く私の眉間を撃ち抜き、心臓を抉り出すだろう……。そこにはおそらく一瞬の予断も無く、最短最速で私を殺しにくる。


「――――」

「――――」


 二人の女の間を冷たい雨が風でカーテンにように吹き付けられてお互いを遮る。そのためか? カーテンが翻った瞬間、彼女らは双方の動きも表情も把握する前に先手を打ち合った。


 一直線。まるで槍で突くが如く、半身から肩に顎を乗せて、右腕を振り上げるように銃口を向け、セツカが銃身から火を吹かせる。直後に斜蘭の短いエノク語の、現実までの反応が零の詠唱によってふわりと体が浮かび上がり、それを回避しながら、まるで氷上を滑るかのように、水溜りに線を引きながら回避した。その後ろを飛び飛びに追いかける銃弾の足跡。

 五秒かそこらの間に空となった銃。それに合わせて斜蘭は身体を捻って、低く沈み、そこからバネで跳ね上がるように今度は爆発的にセツカへと向かう。

 空中で反転、くるぶしの見える革靴が翻る。

 昨日、二メートルの大男を薙ぎ倒した回し蹴りでセツカの頭部を狙う。

 刹那、セツカはそのまま斜蘭の間合いへと踏み込んで蹴りをかわし、軸足の裏側に足を掛けながら肘で顎を押した。プロレスで言うところのSTFの変形技みたいなものか。

 地面にそのまま叩きつけられる前に、持ち前の魔術でふわりと、セツカの腕と自らの顎を支点にして逆上がりのように回転する。

 互いに切り抜ける。

 宙に浮いたまま、無防備に背中を見せているセツカに斜蘭がその空中から後ろ回し蹴り。。

 だが、その蹴り足の踵は目標を失って空回り。代わりに、地面にグッと沈んでいたセツカは銃を口に咥えたまま片手を地面について、そこから真後ろに伸び上がるように両足で蹴りを入れた。

「くっ!」

 胴体にまともに食らって吹き飛ぶ少女。空中で乱れた体勢を整える頃には、隻腕の魔術師は弾を込めなおして、構えていた。


 より一層強くなった雨のヴェールが互いの表情を覆う。

 すえた硝煙と雨の湿った香りが交じり合っていた。


「セツカ、もう止めよう? あなたが好きだった生徒でしょ? そんな、幾ら復讐相手だからって感情を殺して、その子供まで恨む必要は無いよっ」

「…………」

 セツカは表情一つ崩さない。

「確かに、あなたの大切な人や身体は奴に、面白半分で奪われたのかもしれない。でも、彼女が、その兄弟の子供だからって、殺す必要は無いでしょ?」

「…………」




 ――――どう言う意味?

 私の両親のどちらかが、彼女をあんな姿にした狂人の同胞だと言うの?

 ありえない。他人の目や腕をただの楽しみで奪い、子供の目の前で殺す人間が居て良い筈がない。




「ラン、悪の子は悪なのだ。君も知らないとは言わせないよ? 清里鋼音(やつ)の眷属、彼女の父親、偶院 永久(グウイン エイキュウ)が一体今まで何をしでかしていたのか?」




 偶院永久――?






 思考が止まった。

 それは、痛いほどに、嘘だと願いたかった。


 それは例えるなら「お前の父親はイカれた犯罪者だ」と言われ、認めたのも同然だった。


 百二十七年前の大戦で類稀なる戦果を挙げながら、死神公社に背信し、世界中であらゆる人殺しと人外殺しと神殺しを行った全ての生物の反逆者。

 常にその相貌は下卑た笑みに包まれ、特に意味も無く、陵辱と殺人と解体と遊戯をしていた男。

 笑う暗黒。千の闇を飲む笑顔、魔人殺し、漆黒の覇者、そして、闇の神。

 三人組テロリストの一人。

 禁忌の大罪者、【死を裏切りし十二人】の内の一人だった。

 禁固拘束年数十四万年で死神公社本部の最深部である闇の奥で佇んでいる、あらゆる活動、思考、知覚すら禁じられ、束縛された犯罪者の中の犯罪者。


 こんなエピソードがある。

 ある女の子が死神に追われて怪我をした彼を助けて、橋の下で匿った。彼女は彼女の友達の助けを借りながら献身に介護し、彼は九死に一生を得た。喋れない彼は身振り手振りで「君と君の友達に贈り物を挙げよう」と橋の下に呼び寄せた。

 彼は彼が呼び寄せた人喰いの魔物達に彼女らを殺すところを張り付いた笑顔で眺めてから、満腹になった人喰いを最後に殺して、立ち去ったと言う。

 その女の子はその無念さから、未だに魂がこの町を彷徨い続けていると言われている。


 とにかく、彼には禁忌と言うものが無い。

 面白いものは楽しみながら笑って殺し、つまらないものは勢いで笑って殺し、目に付いたものはたまたま笑って殺すのだと闇の奥で囁かれる。


 誰もが名を呼ぶことすら嫌悪し、秩序を狂わす鬼すら忌避する魔。


 それが、私の父親、……なの?


「でも、セツカは永久(かれ)にやられたわけでは無いでしょ! それに関係有るとしても在姫はただ彼の子として生まれただけじゃない! 子供に背負わせる罪なんてないっ」

「では、反証してみよう。君は、両親を目の前で殺され、片目を抉られ、抉った目玉を勢いで潰して、腕を喰うところを見せられて正気でいられると思う、かな?」

「そ、それは――」

「そうさ、狂うだろう。狂うのさ。狂って狂い過ぎて、思考が捩子だとしたら捻じ切れそうだよ。いいかい? 私がブチ殺してやりたいと思っていた男達の娘がノウノウと才能ある魔女でいながら、日常生活に適応し、なおかつ友達まで作って生きていたんだよ? それを君はどう思うかね? 嫉妬と羨望で狂わない自信はあるかな? いや、無いね。憧憬にしては彼女は眩し過ぎるだろ?」

「…………」

「君もそう『過ごしたかった』はずだ。でも、ブチ壊されたんだ。何でもない、運命とでも言うべきものに圧解したのだ。君の時間も、私の時間も戻らない。唯一、私達のようにそのがらんどうになった心の隙間を埋めるとしたら、自らの成功と成功者への蹂躙のみだ。そして、彼女をブチ殺す事が唯一、私にとってその両方の気持ちを満たす最高の埋め合わせなのだよ」

「でも、彼女は――」

「彼女に関係無いとは言わせない。十六年も生きて父親の存在を欠片でも疑問に思わない方がおかしい。蛆やバクテリアであるまいし、複雑な生命体は湧いて生まれ出るものじゃない。誰かに催眠術でも掛けられて忘れさせられたのか? だとしたらそのメリットは? どちらにしろ、贖い切れない罪はその関係者が全員で償うべきなのだよ。罪はあるのだよ。背負わないなら、背負わせるのみだ。それが自覚する私は追い詰め、追い続ける。認めないなら首を掴んで縦に振って認めさせる」

「…………」

「言っておこう。この復讐は私の自己満足だ。そして、それが私の生き甲斐だと、君は知っているはずだ。誰にも邪魔はさせない。それは例え君でもだ」


 狂った灰色の瞳が銃口の方向を探り出す。

 背中越しから斜蘭の頬を雨とは違う雫が零れ落ちているように感じる。

 それはセツカの凍てついた心に触れて、斜蘭があまりの凍える痛みで涙したようだった。


「……それでも、セツカは言ってた。可愛い生徒だって。私は知っているよ。生き物は湧いては生まれない。そこに理由は有って無くても生まれる事はある。それが生命だからね。だからそこから生まれて、始まった因果は付きまとう。だからさ……、何かの感情は生まれたのに、理由が無いはずがない! 在姫を思う気持ちは偶然だけなはずは無いでしょ?!」




            -Side C-


 つっ、と銃口が始めてぶれた。

 それは年月と呼ぶ、不確かでそれでも確実に経ていた時間と言う経験が、彼女の頑なになった心に分け入ったものなのかも知れない。


 三枝 石火は天才と呼ばれる部類の人間である。

 連続修士の通り名の通り、彼女に霊気装甲を使う異端と人の身を超える特殊能力以外で、実戦レベルで使えない技術は無かった。

 射撃、狙撃、戦術、各種操縦技術から医術、薬学、心理学、流体力学、あらゆる分野の体系的知識と技術を彼女の魔術で圧縮学習、高速修得していったのだ。

 それは魔術でも同様であり、彼女は専門外の魔術を二十以上実践で遅滞無く動かせるほどマスターしていた。一つの魔術体系を実践レベルまで高めるのに十年を要する中で、彼女は彼女の魔術で二十三年の歳月の中で、魔術を極め始めた十年の中に二百年近い分の経験を蓄積させていたのだ。

 先日、在姫を翻弄したのも『心の一法』や『空間合気』、『強制音声』などと呼ばれる誘導催眠術の魔術を言葉を通じて使ったものである。しかも、それは彼女の専門外の技術であった。それをまるで自分の修得した技術のように惜しげもなく、そして自然に使うのは最早才能にも等しかった。

 しかし、それは技術の話し。技術以外である心の有りどころ、置き方などは専門家が過ごす特有の時間、『馴れ』でしか克服できない。

 彼女が和木市で魔女を見つけるために、現代数学の基礎理論を四週間でマスターし、イスタンブールでとある魔法使いと交戦していた荻や蘭、それ以外の他の魔術師より先に坤高校に偽造教師免許と架空戸籍で潜り込み、数学講師として潜入していたのは、今年の春先の事だった。

 無論、様々な経験を高速でマスターする事が出来るのも彼女の魔術とは言え、独特の『慣れ』だけは年月の経過以外で経験させることは出来なかった。

 彼女はクールな見た目に似合わず、何事にも思い悩む方だった。

 仮の仕事だとしても手を抜くのは性分ではなかったし、それ故にいずれ居なくなるからとてそれを甘えにする事も出来ないために必要以上の緊張をしていた。


 初めての授業、しかも教育実習すらすっ飛ばした本当にぶっつけ本番の教師の真似事を終わらせて、その始めての授業の直後に、あろう事か始めての質問をしてきたのは生徒、九貫 在姫だった。


 ――九貫在姫

 伝来不明の魔女、クヌキの家系の長女。

 母、九貫愛媛 行方不明

 父、存在不明

 霊気装甲の上位五%に入る九十六,二%の到達者。

 魔術師から魔法使いへの転換手術後の適合可能率九十七%

 魔法適正不明。

 大禁呪継承可能者。


 当時の石火の脳内にもいずれは狩る予定の魔女として登録されていた。

 いつも彼女なら魔術によって冷静に挙動などから彼女の弱点やら何から何まで魔術で丸裸にする事が出来た。

 でもその時、ポーカーフェイスの彼女の仮面の下では「うわー不意打ちで初っ端から質問するなよー」と言う些か文句めいた言葉しか踊っていなかったのだ。

 授業終了で滅多に無い事に気の抜けた彼女には、在姫の奇襲に似た質問に対応するのは一苦労だったのは記憶に新しかった。

 授業以上に慌てながら、それでもその態度だけは見せずに見た目どおりにクールに行う事が出来たのは僥倖だった。

 質問を終えた後、在姫は飛びっきりの笑顔で言った。



「ありがとう、先生は教えるのが上手なんですね?」



 その言葉の瞬間、石火の胸の奥が何かがジワリと湧き水のように溢れた。

 生きていれば何時かは、いつでも聞く事が出来る言葉だった。

 しかし、復讐を始めた凄絶な暮らしの中でその言葉を真の意味で、荻や蘭のように親友としての偏りも無しに彼女に伝えたのは在姫が初めてだった。魔女ゆえに宿る言葉の魔力だったのか、タイミングだったのかは分からない。

 在姫は覚えてないかも知れない。

 だが、それでも、石火の中ではそれは忘れられない出来事の一つとなったのだ。

 そのため、彼女は意識的に魔術師結社での活動を始めるまでは意図的に、それでも自然と、彼女を避けるようにしていた。

 もしも、彼女を狩る時に情に流されたくはなかったからだった。

 だから一角の親愛の思いを凍らせて、目覚めないように奥に仕舞いこんで。仮初の日々を続けた。

 ようやく亡霊騎士が和木市に侵入して結社として本格的に活動する時に、彼女は今一度、彼女の席へと夏休み直前の授業後に自ら訪ねた。


《九貫くん、相変わらず良い成績を出しているようだね》

 魔法にもおいても、体格は小さいながら運動においても彼女は優秀だった。そこに秘められた心臓の価値は、舌なめずりが出来るほどだった。

《いや、校内でも卓越して優秀な生徒がどんな者かと個人的な興味に惹かれただけだよ》

 個人的な興味どころではない、彼女は、悪の修羅道に落ちた者どもを狩る側に居たはずの彼女は、狩られる側の非人道的な、悪の魔道へと手を伸ばしてしまっていたのだ。そして、戻れないところまできてしまっていた。

《先ほども言っただろ? 『個人的な興味に惹かれただけ』だよ。将来的に君が、私が担任するであろうクラスで伸び伸びと勉学に励むと考えると喜びに満ちてくるのだよ》

 在姫の体内で生きる心臓が、その自らの糧となる瞬間を考えるだけでも、彼女の空虚な鼓動は高鳴る。

《――おや、しまった。学生の貴重な休息を奪ってしまった。私は教師失格だ》

 そう、教え子をこれから殺そうとする人間失格。それが彼女だった。僅かな休息の代わりに与えるのが永遠の静止。

《あと、数日で夏休みだ。それまでも、夏休み中も、気を抜かずに勉学に励みたまえ》

 他の魔術師に殺されないように気を抜かずに生きろ、とそんな思いも込めていた。


 でも、心の何処かには、あぁ、ここが彼女と私の分岐点なのだろう、と哀愁に浸る、自らが小さく裏切った気持ちがあったのかもしれない。

 小さな嘘がちくちくと痛む。


 そんな思いがちゃんと仕舞いこまれているか確かめるための行為だった。

 でも、それはあまり意味の無いものだった。

 仕舞いこんでいても、隠し切る事は出来なかった。憎み切る事すら出来なかったのだ。

 だから、彼女の銃口は揺れていた。

 既に経験した事を彼女は覆しきれなかったのだ。

 経験すれば、それは彼女の一部であり、隠す事は出来ない。

 そして……、




            -Side A-


 そして、彼女は斜蘭に向かって引き金を引いた。

 灰色の瞳が凍り付いていた。

 隠し切れないなら使わなければ良い。思わなければ良い。あらゆる人の心の動きを凍らして、セツカは瞬時に復讐の化け物に戻っていた。

「ぁがっ」

 今まで消滅させていた銃弾があっさりと斜蘭の魔術を通り越していた。

 今まで覆われていたはずの不可視のフィールドは術者の統制を失って途切れ、空中に居た斜蘭は水溜りに落ちた。上から降りしきる雨と下から染み渡る水溜りで少女はずぶ濡れになった。

 ゆるゆると雨気を吸いながら、硝煙が昇っていた。

「――非殺傷性のゴム弾だよ。鳩尾に正確に当てたから動けないはずさ。いつも金属弾だけを使うとは限らないのはランも知っていたはずだな。君の魔術はいつもごく一部の金属の分解しかしないからだ。まぁ、金属を全て分解したら君の体内の無機質も失う事になるし、いちいち飛んでくる物体の構成物質なんて考えていたらキリが無いから設定の変更が面倒なのは仕方がないけどね。まぁ、残念だったな」

 斜蘭は強い衝撃を胃のあたりに食らって、蹲っている。

 ヒュウヒュウと音にならない声を挙げ、口が音の形を作ろうとするがそれが形になる事はなかった。


「さぁ、闇の落とし子、出てくるんだ。出て来なければ――」


 口で銃を保持し、地面に非殺傷用弾を詰めた弾倉を落とし、腰のポシェットみたいなところから弾倉を入れ替え、殺傷用の金属弾に入れ替える。

 その狂った銃口を斜蘭に突き付けた。

「ランを殺す」




 ……無茶苦茶だ。

 復讐の化け物に友愛の倫理は無いのか。

 次の瞬間、雨音には著しく似合わない渇いた音が一つした。

 斜蘭は先のゴム弾の衝撃で動く事も叫び声も挙げる事すら出来ず、滂沱の涙を流しながら口をパクパクと動かすだけだった。

「私は本気だ。五秒後には今の左足の次に右足、右手、左手、頭の順で撃ち抜く」

 頭が混乱してくる。

 彼女は【死を裏切る十二人】の誰かに両親を奪われ、重症を負った。そのための復讐とは言え、ただ一時のために同じ時を過ごした者すらを手段の一つとして殺そうと言うか、そんな事が出来るのか?

 いや、出来るのだろう。元に、彼女は二発の弾丸を斜蘭の右足に撃ち込んだ。

 赤い血潮が噴きあがる。

「次の五秒で右手だ。いや、待ちきれない、三秒にしよう、一、二、三」

 斜蘭の可憐な細い右腕を彼女は容赦なく撃ち抜いた。

 蹲った斜蘭の腕から赤い血が流れていた。

 陸に上がった魚のように斜蘭はピクピクと小刻みに動きながら、うつ伏せに震えた。

「彼女の命は後六秒だ、早く出てくるんだ、一、二、三、ほら、左手も終わったぞ」

「在姫、着ちゃダメぇぇぇぇ、うあぁぁぁっ!」

 そう叫んだ斜蘭の細い両肩を、セツカは有無を言わさず吹き飛ばした。

 二つの銃声と同時に赤い彼岸花がアスファルトに咲き乱れ、水溜りで散らばった。

「うるさいぞ、この裏切り者め。だが、安心しろ。私は友達思いだからな、頭をちょっと吹き飛ばしても生きているくらいにはしてやる。安心しろ、荻の真似事くらいは私は出来る」

 ピタリと斜蘭の頭部に突きつけた猛毒の、鋼鉄の毒針。

 彼女は手元の鋼鉄のように人ですらなくなったのだろうか?

 私は未だ傷のくっ付き掛けていない親指ごと握りこんで、何をするか分からない人間への恐怖と自分自身の出生の混乱でカタカタと動く歯を食いしばった。精神的ショックでフラフラとする頭を石碑に一度預けてから、勢い良く橋梁の影から出た。

 彼女は私を闇の落とし子と呼ぶ。だがその事実よりも、私は自らが魔女である確信を優先させ、同時に、私の理想を壊すつもりは無かった。

 斜蘭は私を守った。次は、私が斜蘭を守る番だ。

 魔女である私は、私の運命にすら抗ってみせる。闇の落とし子? 上等だ。その落とし子が人を守れるところを見せてやる!


「止めなさい、極道教しっ!」

 そう思いの丈ごとぶちまけるように言った直後、体が反応して右斜め前方へと、橋梁を乗り越えて汚す河の泥水すら気に止めずに転がった。

 風切音三発。

 私はかろうじて弾丸を避けた。


 通常、銃は脇を締めて撃つものだ、とどんな経験があるのかよく分からない、私の師父から聞いた事がある。


『そのため、拳銃は右利きなら相手から見て右手側に、左利きなら左手側に進めば、銃口の向きによって脇が自然と開く。そうすれば、普通は当たらない。拳銃などの短い筒の類は狙いのブレがシビアなんだ。動かない的で素人で十五メートル、玄人で五十メートル、自在に動く的で素人で五メートル、対テロも行うSAS(レジメント)やその専門であるデルタフォース、米軍の複合部隊であるネイビーシールズなどの軍の特殊部隊、CIA(ラングレー)イスラエル諜報機構(モサド)の諜報機関、そして国連管轄の特捜室の初期対応部隊カウンターレスポンスチームなどでの射撃訓練を積んだ玄人で十五メートルから二十メートルと言ったところか。最近かの【峠事件】で、四百メートル先からオートマチックピストルで十五発を七秒でピンヘッドさせた化け物が居るらしいが詳細は分からない。どちらにしろ、そんな四百メートル先から銃弾をトンカチ代わりにして七秒で全弾を釘打ち出来るような化け物級の狙撃手に出会う確率は億分の一のはずだ。とにかくは脇を締めた正しいフォームや射撃大会のように肩を一直線にするようにしない限りは当たりにくい。中途半端に脇を開かせれば、射線は簡単に乱れさせる事が出来る』


 素人離れ、玄人慣れした彼女は体勢を整え、二十メートル先からピタリと私の頭部を狙った。


《だが、稀に多少不自然な体勢でも、それでも当ててくる厄介な相手が居る。玄人以上のその道の『プロ』だ。奴らは敵に弾丸が絶対当たる距離まで気付かれずに接近する事に一番長けているが、むろん当てる事も『一般人』の玄人すら逸脱している。先の四百メートルの奴が極端な例だが『その類』だ。そのためにフォームを崩して相手に外させるのではなく、自ら避ける方法の修得が必要なのだ。》


 頭部を狙う銃口だと、私が感づくと同時に動いていた。


《銃が狙っている方向を、弾の出る銃口を観察して推理するんだ。銃口が真ん丸ならまっすぐ顔目掛けて狙いをつけている》


 左頬を伝う三つの金属の感触、そんな合間でも私は彼女の銃口から目を離さない。


《少し楕円なら、胸か腹か、あるいは手足か、ともかく顔以外のどこかに狙いをつけているんだ。まぁ、楕円の形を見れば大体は分かるがな。次に、射手がいつ銃を撃つかだが、これは目と肩の動きを見るんだ。何かしようと決意したときに人は目にその印を表す。それをしっかり読み取れば、銃を撃つ直前の目つきがわかるんだ》


 右斜め下を向いた銃口、狙いは右足。灰色の瞳のぎらついた輝きと同時に左後ろに飛び退いて避ける。続く左足も体重を移す前に動き出す。ジグザグに狙い続けた最後に右のお腹を狙い、それを背中をみせるようなターンで沈みながら回避した。その間も銃口からは目を離さない。


《また、肩がほんの少しだが、銃を撃つとき特有の筋肉の動きが現れるからそれも参考にする。銃の反動を抑えようと、または逃そうとすると肘が動いたりするからね。肘が動けば連動する肩にも兆候は現れる》


 肩の僅かな硬直に合わせて避け、肘のブレによって避け、指先の動きに合わせて避ける。


《つまるところ、見える範囲で拳銃を避けたいなら射手の反応を読み取る洞察力を鍛えろ、そしてそれを読み取って瞬時に避けるようにしろ、とこういう事だ。魔女ならガントの撃ち合いの決闘などもあるはずだからな。銃口を指先に置き換えれば代用は利くはずだ。鍛えておく事に越した事はない。熟練者はその兆候が読み取りにくいから、しっかり相手を見る事を練習しておくと良い。分かったかな? マイ・シスろべぎぁッ!》


 で、鍛えた結果。今のところ、九発の銃弾を避けていた。

 魔術師はそれくらいは予測済みのようで大した動揺も無い。


 魔女の心臓を限界まで駆動させ、運動能力と知覚、認識能力を火事場の馬鹿力で高めている。そんな風に感覚と筋力を高める事が出来るからこそ出来る、感覚と努力で何とか出来る魔女の才能だった。


 さきほどから数えていたところ、彼女が銃を撃てるのは二十発。それから先は弾倉を、弾の詰まった別の容器を入れ替えて、銃にセットしなければならない。何処ぞの弾幕ゲームでは無いのだ。弾切れをしたら取替えをしなければならないのは当然だ。


 残り五発。


 左肩狙いを避ける。右の脛を空中に引いて空かす。頭を沈ませてボクシングのダッキングみたいにやり過ごす。ブレイクダンスみたいに手をついて、横に転がりつつ頭を更に下げてやり過ごす。


『いたたた、……そうそう、それと跳弾(ちょうだん)なんてものもある。弾は壁などの硬い面に弾かれても、まれに弾丸は獣のように進行を続ける。だがその弾かれる角度は大抵は三度から八度と決まっている。何も無い場所なら地面に寝っ転がれば当てられる事はない。そうすればアスファルトの地面で無い限りは地面で跳弾は起きない。アスファルトの地面なら反射断面の粗さと侵入角度の開き方から予測出来る』


 検討違いの方向に向けられた銃口。アスファルトの地面を狙っている。

 跳弾だと確信して、私は最後の弾丸を更にもう一度横に転がってよけた。

 耳元を金属がアスファルトで弾かれる音。避けなければ、側頭部に当たる位置だった。


 彼女が口で銃身を咥えた。

 弾切れ!

 ここから勝負!


 再装填(リロード)の際、弾の入った弾倉を入れ替えなければ、当たり前ながら銃は撃てない。むろん、それは弾が入っていないからでそれは当然のことだが、徒手空拳の私にはかなり重要なことだ。

 再装填の時の無防備な状態。ましてや魔術師セツカは片腕。もう片方の腕を使う事が出来ないために、装填は健常者に比べれば、何倍も細かい作業が難しいのは自明の理だ。しかし、それでも彼女の熟練具合をみれば、再装填も健常者の軍人並みに早いのかもしれない。

 しかし、再装填のこの瞬間だけは、彼女が最も無防備になる瞬間である。


 私は陸上選手のようなスタートの四つん這いから駆け出す。

 霊気装甲は駆動を始めて、高鳴る一方。


「I summon one from another universe in Azathoth' name. Derive, null――(我はアザートスの名に於いて無界より素を呼ぶ。出でよ、失名素――)」


 装甲で筋肉の『これが限界だ』という場所を突破させて、本当の全速で彼女に肉薄する。

 後、数歩もしないで彼女に辿り着く。魔女の渾身の左ショートアッパーを叩き込みながら、そこから影の兵士達で束縛させ、彼女を沈黙させる!


 その時、何故か彼女が口に咥えていた再装填をしようとした銃が自然と口から落ちて、左手に収まり、自然に間近で魔弾が放たれた。



         ――――――。



 渇いた音と同時に胴体に広がる衝撃。大したダメージでも無いはずなのに、私の足元とそれに伴って視界が乱れて、そのまま、隻眼隻腕の魔術師の前に倒れこんだ。

 地面に倒れこんだら無い胸の下の、更に下辺りから熱い何かが込み上げてきて、続けようとしていた呪文の代わりに、思わず込み上げる物を口から吐き出した。

「かはっ」

 黒い塊のような血だった。

 お腹が痛くて、痛くてたまらない。

「程よい形で内臓に当たったみたいだな。ふむ、肺では無く、胃のようだな。どす黒い……、魔女と化け物らしい小汚い血が物語っているようだ」

 くすくすと灰色の目を細めて、半月よりも細く魔術師は笑った。

 何故? 私は弾丸が空になるまでちゃんと数えていたのに……。

「何故、無いはずの弾が撃てたのか? 気になるようだね。解答を教えよう。何、簡単な事だ。ランの左足に放った最初の弾丸は銃の中の薬室に入ったままの、先ほどの『ゴム弾』だったからだ。その証拠に血は出ていないはずだろ?」

 ……確かに、私は血を確認していなかった。最初の銃撃には血潮は飛んでいなかったのだ。

「薬室の中の残弾と弾倉の弾、賢い君ならこの足し算は分かるはずだ」

 一発のゴム弾足す事の二十発の銃弾。そう、私は単純に数え間違えていたのだ。

「まぁ、無理も無い。銃の構造を知らないと出来ない引っ掛け問題だったからね。テストの時もそうだ。優秀だが、君は非常に初歩的な間違いが多い」

 蹴り。

「あっ゛!」

 顔を蹴られた。私は撃たれたところを中心に一回転する。仰向けになったところに更に蹴り。爪先で更に撃たれた場所が抉れて痛い。

「途中式が間違う事も多々あるが、そもそも問題を取り違えていたり、見逃していたりなどもしている」

 鼻血が出ててる。以前に装甲の流動に失敗して、全身の穴と言う穴から血が吹き出た以来だ。今回は穴の無い場所から出ているために以前よりヘビーなような気がする。

 呼吸が苦しい。体が重たい。いつもなら気合で何でも無いはずなのに、まるで、知ってはいけないことを知って、私の中の思考も体の調子も狂ったみたいだ。

「そして最大の間違いは、この世に生まれ出たことだ」

「あ、このぉ、ごぼ――」

 何か言い換えそうにも、喉の奥から続きと流れ出る血塊に取られて、まともに喋れない。

 じくじくとした痛みは毒に体が侵されたように、滾る意志とは逆に無力感を伝播させる。

 そんな地に落ちた鳥のように足掻く私の前で、恍惚とした顔で悠々と、魔術師は再装填を終わらせて銃を構えた。

「間違いを正すのも教師の役目だ。最後の指導に取り掛かろうか?」




            -Side C-


 石火の魔術はとても原始的なものである。

 【読解(よみとき)】と呼ばれる古い起源の魔術とそれに付随する【再現(ふたあらわし)】と言うものである。

 『読解』はあらゆる事象を法則の形で読み出して理解する。『再現』はそれを頭の中で【予測】、シミュレートするものである。

 この技術は陰陽道から深く続く、式を読むと言う技術である。

 式とは陰陽道においては『物事の繋がり』であり、式を読む事は自然の運行や法則を読み込む事で式を頭の中で再構築して、それをシュミレーションすることで森羅万象の出来事を予測することである。当時天文博士と呼ばれた陰陽道の博士は、星の運行から国の行く末たる吉凶を占っていたと言う。

 とんでも無い上級者ともなると意図的に自然の法則を人為的に捻じ曲げて望む結果を算出させながら、その自らの作った台本を正確に【予測】するという。


 さて、彼女の魔術は若いながらも卓越しているが、その領域に達したモノでは無い。それは技術や魔術であるものを【読解】し、【再現】する事で人より格段早く経験をすませたり、後の展開を高確率で【予測】する程度のものである。

 むろん、彼女でも【予測】しきれないことは多い。事象として現れない人の心や、その心の中での結果が現される魔法は彼女は理解自体が出来ないし、技術的に不可能なのだ。




 そう、だから彼女は左足一本で身体を引き摺り、泥まみれの傷だらけになって彼女の左腕にしがみ付く、殺そうともしていた友人の行動を理解出来なかった。

「セツカ、……止めて」

 路面に描かれた赤い軌跡。

 身体を引き摺って、彼女は復讐の最後の一コマを繋ぎとめた。

「邪魔をするな! 私は待っていたのだ! この時を! この瞬間を! この悦楽を!」

 凍った瞳で彼女は激情を吐き出す。

「こいつらの眷属は『死』が無い! だからこそ人も人外も関わり無く、玩ぶように殺し尽くす! そんな末裔は一匹足りとも人としても生かしてはおけない!」

 握る手に音を立てるほど銃を牙で噛み締めるように握る。今にも引き金は絞られて、在姫の頭を吹き飛ばしそうだ。

「あなたは、本当に……、復讐がしたいの?」

「あぁ、そうさ、復讐がしたい」

 彼女は澱みなく言う。

 それをボロボロになりながら縋りつく、彼女の友が否定する。

「違う。それはセツカの心が、その時から凍ったままなだけだよ! 復讐なんて無意味だって、不可能分かっている。セツカは復讐じゃない、ただ心が凍っただけの固執なの!」


「――――ッ! 違うッ、で……、出鱈目を言うな、……私を惑わすな! 私は、あの化け物に復讐しなければならないのだッ!」


 ――そうなのだ。彼女の本当の持つ感情は憎しみでは無かったのだ。あの怪物に殺される瞬間、心も殺されないように、硬くその時の状況のまま凍らせただけなのだ。

 たかが十五歳の復讐心が人類など圧倒的に超越した生命体に適うはずは無い。それは幾ら子供でも彼女は分かりきっていたはずだった。でも、それを納得していたら、その確実に来る死を受け入れていたら、彼女の心までも化け物に殺されて砕け散ってしまう。だから、彼女は途方も無い試みの不可能さを忘れるために、それを考えるための心を凍らせたのだ。

 彼女の心が凍っていたのは、必死にその事実を忘れようとして、復讐と言う行為だけを繰り返すものだったのだ。

 それはつまり、固執である。

 心の方向を一つに定め、それ以外の方向に動かないように全てを無視する状況を自ら作り続けていた。

 しかし、聡明な彼女は、斜蘭の大きな叫びで心が無視できないほど戦慄かされ、気付いてしまった。

 復讐をする行為の無意味に。


 心が砕けそうで、キシキシと軋んでいた。

 精神崩壊と固執からの解放の狭間で彼女の心はあまりにも脆く揺れ動いていた。


「違う! 固執じゃない! 私は、私はこの化け物の娘を殺したいんだ!」


 銃身が震えていた。今にも泣きそうな顔を、銃の握り手で必死で耐えている。

 それに震えながらも斜蘭は立ち上がり、全身でそれを押し留めていた。


「セツカは! これ以上時を止めて、心を凍らせる必要は無いの。動いて、動き出して! セツカと繋がりを求めている人がいるのだから!!」


 そこで始めて、子供と大人の狭間で揺れながら、それを拒絶して魔術師として歩み、そして死に掛けていた時に、助けてくれた彼を彼女は思い出した。


 凍っていたから、本当の意味で気付かなかったのかもしれない。

 昨日よりも前、全てが凍りついた雪原での惨劇から、彼はずっと隣に居た。

 あの時、あの場で、狂って捩子くれた爪が突き刺さるのを止めたのは、事実、彼だったのだから。

 心が凍った直後、それに体の反応も引き摺られて何も行動が出来なかった頃、それを献身に介護していたのは彼、荻だった。

 それからも彼は事あるごとに助けてくれた。復讐をするつもりだと言っても彼は黙って着いて来てくれたし、それに掛かる労力や負担にも不満を漏らすことは一度としてなかった。

 それでも率先はしなかったが、彼は復讐を快く思っていなかった。それ故に、彼を最後まで身体を受け入れたとしても心から受け入れる事は出来なかった。彼は復讐が無理だと分かっていて、それだから彼女を止めた訳ではない。純粋に彼女を愛していて、彼女の一挙一動が不安だったのだろう。

 彼はいつでも暖かかった。

 極寒のシベリアで、常春の太陽ように仄かに暖かい彼の優しい眼差しが彼女を照らしあげた。







 氷が、砕けた。







「荻……、私は、あ、……」


 軋んで壊れた灰色の氷の間から、暖かみで溶け出した液体が、ジワリと石火の目尻を伝って流れ出た。

 彼を何度「魔術師に似合わない」と蔑んだりしたのだろう。それを何度笑って誤魔化されたのだろう。彼は、彼女を暖かく包んでいた。それを硬く凍って拒絶し続けてしまっていた。魔術師として、それでも彼は同時に『人』としても生きていたのだ。

 そう、彼女の凍った心は人の温もりでしか解けなかったのだ。

 だから……、温もりで涙が止まらなかった。


「……あぁ、荻、……荻、……済まない」

 銃口が在姫からそれて、地へと向けられ、そのまま滑り落ちた。




            -Side A-


 左腕に巻きついた斜蘭も、そして私もようやく安堵した表情を見せていた。

 魔術師セツカでなく、私の父親の兄弟が与えた呪縛から溶け出した三枝先生はしゃくりを挙げて、子供のように荻さんに謝りながら泣いていた。

 ……加えて残念ながら、常寵には二人の間に入り込むような隙間も無いようだ。まったくもって、お騒がせなカップルだ。

 父親が大犯罪者である事は、……事実なら仕方が無い。どう足掻いても私はそう生まれたのだ。だったら受け入れるしか無い。それからどうするかは特に何も考えては無いけれども。それにしても母も、なんていう人と結ばれてしまったのだろう? その辺りの経緯は生きていたら聞いてみたいけど、まぁ、もう後の祭りだ。

 さて、そして私の知り合いが誰一人死ななかったのはとても幸福な事実だった。今回の私は少し無様かもしれないけれども、その幸福の形を掴み取ったのは私では無く、三人の魔術師達の絆なのだからしょうがない。これくらいの不幸は許せる範疇だろう。胃が凄く痛いけど。

 絆の強さ。三枝先生が見た目とは裏腹に危なっかしく、一番頼りなさそうに見える荻さんが外見に似合わず縁の下の力持ちでキーパーソン、そして斜蘭は何かがあるとちょっと口を出して全体の道筋を正していく。それを考えると、まるで斜蘭が最年長者みたいだ。それにしても全員、外見と構成する関係が全然違う。魔術師は魔法使いよりもその成合や素性を隠すけど、性格にいたるまでまるっきり違うのも珍しい。

 そんな彼らが色々と、父親が大犯罪者など、ビックリな落し物を残してくれちゃったが、激しい戦闘の中で誰も死ななかったのは凄い拾い物だし、大切にしたいと思った。

 そう思いながら痛むお腹を押さえて、「等々力医院って国民保険効いたかな」と金銭面での事へと考え始めた時だった。

 風雨の中で大翼の翻る音が響く。

 それは聞き慣れた、ヒポグリフィスの両翼の羽音だった。

 あの看板にぶつかってから、自分の異界へと戻らずに彼は留まっていた。それは何故?

「!? セツカ危ない!」

 その羽音の方向へと頭を巡らせる前に突如、斜蘭が三枝先生の腕を引いた。

 地面に倒れる先生をかばうように、傷だらけのまま両手を広げる少女が何かに立ちはだかる。





























               「るぁぁぁぁぁぁぁっぁ!」


 その場に残った斜蘭をアカイ槍が切り裂いた。




























 右肩から腰までを一気に切り裂かれて、左右に分かれながら彼女は崩れ落ちた。

 血みどろになって、ボロボロになって、同じ満身創痍のヒポグリフィスに乗ってきた紅の獣が飛び降りながら切り裂いた。

 獣の左肩から腕の先が無い。足はスニーカーの端だけでボロボロで、足の裏も背中も赤黒い、荒い息と血を吐き続ける口は獲物を喰いちぎった野獣の剥き出しの牙みたいで、胴体には鉄の破片とかの細かいものがびっしり刺さっていた。ギラギラと脂ぎったナイフみたいな終わった瞳が斜蘭の縦半分になった身体を睨んでいた。

 斜蘭を斬割した槍を途中で止まった腰辺りから無理やり引き抜くと、鮮やかなまでに赤い血をひいて今度は先生へと向ける。

 先生は驚いた子供のように目を大きく見開いていた。

「ラン……、え、何で」

 ドンと言う音がして、先生も心臓を抉られた。

 音を立てて槍は引き抜かれて、地面に点々と飛ぶ血の滑り。

 先生はよたよたと後ろ向けに後退りながら、橋の手摺りに手を掛ける。胸辺りを押さえた手からはどくどくと有り得ないほどの血が漏れ出していた。

 その胸から流れ出る、粘ついた血を手に翳してみると、先生は何か納得したように微かに笑って、

「九貫くん、……済まない」

 そのまま、橋から落ちて濁流に飲まれていった。







 私はその出来事の中で、体が麻痺したように動かなかった。

 幾ら血が足りなくても無理にでも動けたはずだった。それでも私は動けなかったのだ。


「在姫、……大丈夫か?」

 今にも何か飛び掛かりそうな、凶暴な、それでいて虚ろな顔で、紅色の化け物が槍を杖代わりにして近づいてきた。

 皮肉だ。復讐者が悔い改め、狩人の一人が獲物を守り、突然の自分の悪夢にも耐え切ったのに、そんな私の壊して欲しくない穏やかな日常を、そうなるかも知れなかった可能性の一部を、守るものが全て壊した。

 ――何よりもその姿が鬼のようで、あまりにも恐ろしくて、何かも壊してしまいそうで、私は耐えられなかった。









「近寄らないで! 化け物!」


 雨音がより一層強く降りしきる様に雨脚を挙げた。

 私と化け物の間が、目で見えるより……、遠い。


「……在姫、俺は……、君のためを思って」

 鬼がまるで人のように話しかける。

 ……いや、嘘だ。彼には人の心なんて無い。いや、『これ』は強き壁である守護者でも、人になつく事もある獣でもない。ただただ殺し尽くす戦鬼だ。

「いや……、もう、いや! 先生が折角正気に戻ったのに何でアンタは殺したの! おかしいよ。斜蘭なんか私を助けようとしたのに何で殺したの! アンタなんて、守護者でも何でもなくて、ただの狂った人殺しじゃないッ!」


 雨なのか、涙なのか、救われたはずなのに取り零れた事が納得できなくて、狂っていて、私の視界は世界ごと歪んでいた。

 鬼の顔も歪んでいる。


「アンタ、何て要らない! お願いだから……、もう誰も殺さないで…………。だから私の、そばにいないで……、う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」




 雨音に遠く慟哭が響く。

 あぁ、何て、理不尽。

 魔女でも、人を救いきる事が出来なかった――




「……………………分かった」




            -Side C-


 斜蘭はおどろおどろしいほど渦巻く灰黒色の空から、必死になりながら満身創痍の魔人が落ちてくるのを見て、流石にこれは死ぬな、と納得していた。

 右肩から槍の鋭い刃で切り裂かれながらも、彼女はそれでも満足していた。


 繋がりはあった。

 見つけられた。

 既に、石火と荻の間にあったのだ。

 絶望的なまでに、世界の何処にも繋がりを意識できなかったのにも関わらず、彼女が引き金を引こうとしたあの瞬間に自然と、探していた彼女自身の言葉から出てきた。

 繋がりは感じていたのだ。それを気付かなかったのは斜蘭の鈍さだったのかも知れない。

 いや、もしかしたら、彼女と彼の僅かなわだかまりを逆に感じ取る事で、繋がりがまだ弱い事を敏感に感じていたのかもしれない。


 とにかく繋がりは愛情の結晶とか、見えるもののようなそう言うものではなく、彼の暖かさが彼女の凍った時間を動かした。そして、それに答えた彼女も、彼自身を受け入れたのだ。

 目に見える必要は無かった。検証するようなものでもなかった。ただ自然と二人の間に分かつものがその瞬間には感じられなかったのだ。それが事実だった。

 だから彼女は、在姫を守ろうと死に物狂いになる魔人に対して、ただ一つも恨み言はなかった。

 彼は在姫を守るためなら何でもするのだろう。そう思うと言い訳する間も無く殺されるのもしょうがないことだと諦める事が出来たのだった。在姫は斜蘭が殺された瞬間は、彼の必死さを理解出来ないかもしれない。でも、繋がりを感じる事が出来た斜蘭は、魔人と魔女の間に石火や荻よりも強い繋がりが感じられた。それが分かったのは、もしかしたら、死ぬ前に彼女が魔法を使えたのかも知れない。

 そして、憑き物の落ちた石火も今までの悪意を受け入れるように、儚げに笑いながら消えていった。

 それでもたぶん、死ぬのは自分が先だろうと、斜蘭は思っていた。

 自分自身の怪我の軽重は関係ない。濁流に流れる途中、病院に居る筈の『彼』が泳ぐ姿を彼女の視界が捉えていたからだ。

 彼女はきっと助かる。彼が彼女の命を繋ぎとめるはずだからだ。そう思うと安心して死ぬ事が出来た。生きる事を放棄しかけた人生が伸びに伸びて、最期に魔術師以外の、憧れである魔女で、それ以上に短い付き合いの友達まで出来たのだ。安寧と言うに等しい感覚だった。

 ただ、それでも彼女には残念な事が幾つかあった。

「もっと、在姫と遊びたかったなぁ……」

 その在姫が慟哭しながら斜蘭の死を悼んでいる時、国定が今にも泣きそうな顔で失意のまま在姫の元から歩き去る時、彼女は耳も目も満足に使えなくて、ゆっくりと暗闇と何かの繋がりを感じてその方向に意識を沈ませていった。







 濁流に飲まれたはずの石火は、周りを取り囲んでいたはずの自然の暴力を感じられず、ふと目を開けた。

 茶色の、自らの罪のような色に塗れてそのまま死ぬはずだった彼女は彼に救い上げられたのだ。

 だから、目の前にはこの世で一番会いたかった人が居て、彼女は自然と口が動いた。

「荻、済まない。二度、いや三度も、命を助けられてしまったな」

 子供のように素直な面持ちの彼女の、徐々に体の冷たくなり始めた体を荻は抱き締めていた。

「――喋るな、傷に響く」

 抱き締めながら、心臓から流れ出る血を大きな掌で止めながら、彼は真剣な瞳で見つめていた。

「ハハッ、ダメだ。幾ら現代医療でも、細切れになった心臓は流石に元に戻らないさ。……あぁ、もう諦めたはずなのに、こうして君に会うと何かも惜しくなってくる」

 瞼が緞帳のように閉幕を促す。

「私は、もっと君と居たかった。もっと君を抱き締めたかった。もう、抱き締めたいのに手には力が入らない。もっと君を心から愛したかった。復讐なんかしたくない、君ともっと一緒に居たい、……ずっと生きたい。あぁ、復讐の事を考えていた時は感じなかったのに、今は死ぬのがとても怖いんだ」

 彼は彼女の一言一言にいつものようにゆっくりと頷いていた。

「あぁ、私は欲まみれで我侭で本当に嫌な女だ。君の思ったことを一度も満足させたことが無いかもしれない……、済まない」

 彼女は口元から赤い血を吐き、瞳から未だ解け続ける氷の雫を零しながら訥々と語り続けた。

 国定の槍捌きが余りにも俊敏だったため、穂先は無いにも関わらず、彼女の心臓は綺麗に半分に分かれていた。断面組織は完全に死んでいて、手術で縫おうにも心臓の複雑な筋組織がズタズタで再生は出来かねる事は明白だった。何よりも病院や集中治療室に運ぶような時間はなかった。

 彼女自身の涙と死への思い出したような恐怖、そして着実に死に続けてぼやける彼女の視界の中、彼は覚悟を決めた精悍な顔をしていた。


 彼は最後の彼女の言葉に、始めて首を横に振って否定した。

「大丈夫だ、君は必ず生きる。それが……、君が叶える僕の望みだ」

 いつものように優しい笑顔で彼はそう言うと、彼女の残った片目を覆い隠した。

「……まさか? やめろ……、君の魔術を使うな……、お願いだっ」


 斐川 荻の魔術は人体を斬割する事が目的では無い。むしろ、その魔人を圧倒する肉体を作り上げた優れた、そしてそれを可能にした異常な程の医術が魔術だったのだ。

 医術を通じて自身の肉体を把握する事で栄養バランスもコントロールして強化を図り、その人類の究極に近い肉体で鉄の斬術までを素手で成し遂げるのが彼の魔術である。通常なら練習で明らかに必要な肉体の余暇も無くす事で百%の時間を使って肉体への技の刷り込みを行い、二十代半ばで拳術だけなら魔人や拳王にも匹敵する技術を完成させたのだ。解剖学的に人体の壊れやすい場所と角度を学ぶ事で、人体を無刀でバラバラにし、時にはそれを元に戻す。故に、彼は先々日の国定との戦闘の直後でも、遊びの過ぎた斜蘭を電線を全速で走りながら弾き飛ばす事が出来、その次の日には海水浴が楽しめるほど人体のダメージを回復させる事が出来たのだ。

 そして、今の彼の技術ならメスも何も無くても短時間で『心臓を入れ替える事』が出来た。


「石火、君をずっと愛している。僕の魔法使いの夢は君に託すよ?」


 彼は一度言い出したら、頑固者でどうしても考えを変えない男だった。

 義理の妹でも養うと決めたらロシアまで出稼ぎに行くし、魔法使いみたいになるために拳王に弟子入りする。決めた時には拳王自身に殺される危険があっても、ロシア軍の爆撃でも動かない。雪原で死に掛けの彼女を助けると決めた時に究極に近い生命体が眼前に立ちはだかってもドロップキックをする度胸があった。そして、彼女が復讐に生きると決めた時も、彼女を最後まで守るために自らの修行を投げ打って、一緒に生きると彼は決意していた。


 そして、今度は本当に命と魔法使いになる彼の人生の根幹たる使命を打ち捨てて、代わりに彼女の命を拾い上げるのだった。

 理由は説明するまでも無い。


 だから「(そんな頑固な彼の最期の決意くらいは私から受け入れよう)」と、彼女は思った。


「……私も荻を愛しているんだ」

「うん」


 額と瞳を覆う荻の手が震えている。当たり前だ。決意したとは言え、自ら心臓を引き摺り出したいとは思わないのが普通だし、それに伴う死を恐れない方がおかしいのだ。

 それでも、そんな最期まで魔術師に見えないほど一般人みたいに普通で、ちょっとだけ魔人より強くて、少しだけ勇気がある彼に愛されるのが彼女は嬉しかった。






「妹をよろしくね」


 最後に少しだけ妬いてしまった。

 本当に普通で、御節介で、彼女は少しだけそれが可笑しくて、愛しくて、それが最後だと思うと、止め処なく涙が零れる。


「……むろんだ。『私達』の大切な家族だからな」

「ありがとう、僕は、君と出会えて本当に良かった」


 その言葉と僅かな唇の感触を最後に、彼女は意識を失った。


 ――The sound of rain was like pain.

 They are laughing at pain which came from remained recollection.

 Thirst scratch thou throat.

 They are laughing at the scarcity.

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