12.幕間 鉄囲線三
心が殺す。
体が殺す。
罰が殺す。
牙が殺す。
我が身は永遠に冒涜される。
永劫を望んだ。
しかし、存在すら無かった。
覆面越しの口腔から血塊を吐きながら、一人の魔術師は汚泥に満ちた円形の下水道に横たわっていた。
その体から発する倦怠した気力は『 敗 北 』に他ならない。
自然の霊気装甲とのリンクの切れたスーツは、元の素材が何であるかと言うのを思い出したかのように、錬金術の保護を無視して破れかけていた。
魔女と魔眼持ち、まさか彼の妹がコチラ側の人間だとは想像も付かなかったのだ。しかもあの戦闘性能は彼の直伝と魔術師は見た。
第五から第七頚骨まで粉砕される直前の打撃だったが、僅かに沈み込む事で回避する事が出来た。そして、沈んで、沈んで、遂には季堂ビルの地下、その下水道で息を長らえていた。
だから、
「まだだ。我が身は未だ生にしがみ付いている」
魔術師は独白しながらも、どん底に落ちながらも、次の策を練っていた。
だが、朦朧とした意識の中で練られるモノは策と呼ぶにはおこがましいほどの単純な殺戮に過ぎない。
「ぐひ、げへはははははははは」
あの魔女を剥いて、曝して、バラして、刻む。
執着は既に魔法とは掛け離れた場所を行き来してそれは逆恨みにも等しかった。
しかし、もはや生きるのも胡乱げな肉体が生き延びるのは妄執でしかありえないかもしれない。
「なんて無様なんだ。保隅くん」
そこに、彼があのビルで言い放ったような、弱者を見下すような、朗々とした声色が響く。
下水道の閉じられた空間で木霊を繰り返しながら、悪の呼び声がした。
それは這い出てきた闇とそれと同じ色の法衣を纏った魔法使いの言葉だった。
「貴様は【脱皮者】!?」
「お目覚めはどうかね? 敗北の苦味は生温かい下水にも等しいだろ?」
そう言い放つと同時に巨大な手が魔術師の後ろ頭を掴んだ。そして排水溝の下水に魔術師の頭をむりやり浸す。
もがく。息の詰まると同時に、口から鼻から、割れた頬から腐臭と粘性を帯びた下水が流れ込む。全身を重度の火傷で爛れ、腐りかけた体に拷問のように汚泥が流れ込む。彼の頭を掴む剛力の主は霊薬の切れて枯れ枝よりも貧弱な肉体へと戻った魔術師には抗い様のないものだった。
何よりも窒息と言う本能に訴える感覚が恐怖を煽る。
汚泥とは真逆、白濁意識に溺れる直前に魔法使いは後ろ頭を掴んで下水から引き上げる。爛れていやらしく割れた頬から黒くヌメった液体がゴボリと音を立てて零れた。
時折、痙攣する魔術師の身体は細身と合い余って糸の絡まったマリオネットのようにも見える。
魔法使いは奇行を楽しむかのように下卑た笑いを浮かべて、元々は端正な顔を歪めた。
「どうしたのかい? お得意の魔術の【すり抜け】は? それとも、僕の【体温】が高過ぎて意識してしまうのかな? ん?」
彼の魔術は自らが物体を知覚しないと言う事で物体を無視して透過するものだった。そのために、ゴーグルが視覚、マスクが嗅覚と聴覚、スーツが触感を封じて、彼独自の、ただ一人、意志のみでスーツの中のみで存在しえる不可思議な自己存在空間を形成したのだ。自己の存在と言う形を自らの意志と知覚によって補い、存在すると言う状態を明確にするのが人と言う者だ。しかし彼はそれを封じて、自らの存在を知覚という本能から零に近づける事と同時に、ゴーグルと覆面とスーツの外側も知覚しないという事で両面から存在の濃度とでも言うべきモノ、特に自身を零の領域に近づけて結果的に『自らの存在を透けさせて』摺り抜けていたのだ。
しかし、そのままでは全てを透過させてしまう事になる。つまり、彼自身が知覚する手段が一つでも何か必要だった。
彼は閃いた。
生物であれば必ず特有であるべきモノ。それは体温、赤外線と呼ばれる電磁波の一波長。それを自己発生させるモノのみを不気味なゴーグルの遮光器が収集し、演算し、知覚できるようにしていたのだ。
つまり、彼は体温だけを見て獲物を追い詰めていたのだ。背格好がその熱の形でチビっこい在姫であれば、それは容易に判断できていたのだ。
しかし、この魔術の機能の誤算は、一つの入力装置、つまり体温のみの視覚のみに敏感に反応する事で必要以上に意識してしまう事であった。
そして、魔法使いは先程身体を動かしてきて、今はその巨躯から発せられる体温が異常なまでに高い状態だった。
温められる事で凝固したような葛湯のように、それを魔法使いは生掴みにする。
まさに取って食うには都合の良い状況だった。
「騒ぎを起こしたお陰で僕の計画は大きく修正が必要になりました。死神はおろか他の機関や魔法使いにも覚られぬように長年辛苦を飲んできました、と言うのに……このド低脳が」
通常はしないような、普通よりも固い瀬戸物が割れて砕けるような音と何か圧力の掛かったモノが内側から弾ける音が下水道に響く。
魔法使いはおそらく今世紀でただ一人、科学の力のみで魔術へとたった一人で至った男の頭脳を赤と灰色の液体へと変えた。
そして間髪いれずにその反対の手が偉大な科学者の鳩尾を抉る。そして、拳よりもやや大きい、赤黒い心臓をゴムのように伸びた大動脈と大静脈を引き千切りながら取り出した。魔術師の心臓は生を貪るように拍動を繰り返す。
黒い下水道管の一部が、深紅の丸い額縁の絵画へと弾けるように変わる。
糸の切れたマリオネットが巨躯の手を離れた。粘液の汚泥が跳ねて魔術師だったモノの上半分を取り込んだ。
「なるほど。魂は汚れていましたが、霊気装甲に蝕まれていない分は存外に綺麗な血潮の色ではありませんか」
魔法使いの男は弱まりながらも逝き惜しむかのように脈動を不規則に繰り返す心臓を胸辺りに掲げながら、両手だけを朱に染めて、法衣と同じ色の中へと馴染んでいく。
「残る【私の城】までは後四つ。私の予測が正しければ、新月までには数合わせできますね」
魔法使いの声すら暗色に失せて、それでも残っていた骸も粘った下水が多数の恨みがましい亡者の群れのように飲み込みながら、押し流していった。
そして、誰も居なくなった。
Once upon a time, I am in you.
You are still out of you.
Lend me your ear. Ain't you againsting again?
I am hear. Now immediately find and face with me.