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聖女の涙が出ないので、私が代わりに泣いています

作者: 他力本願寺
掲載日:2026/10/11

「本日の聖女様の涙は、三回です」


廊下から聞こえてくる公報の読み上げを、私は赤い目で聞いていた。


宮廷儀式記録係、ニア・トーレン。十九歳。私の仕事の一つは、毎朝、聖女様が何回泣いたかを数えることだ。


ただし、聖女イリス様は、今日も一度も泣いていない。


机には二冊の帳簿がある。非公開の原簿には、今朝採取した涙三滴の提供者として私の名が記されていた。一滴目と二滴目はそれぞれ四十リットルと六十リットルの水を浄めるのに使い、三滴目は封管に収めたまま。一方、今朝広場へ掲示された公報の写しには、「聖女ご本人の涙、三回」とある。


その下の照合欄には、私が署名した。


窓ガラスに映る目は、刺激草のせいでひどく赤い。毎日、自分の涙を人の名前で数え、帳尻が合うことに安堵している。


机の端に置いた次の公報用紙。その白い照合欄へ指を伸ばした時、扉が勢いよく開いた。


「南区の水がやられた」


水守のマルタが、泥のついた作業着のまま飛び込んでくる。いつもはきっちり束ねている髪がほどけていた。


「本水路に廃液が混じった。南区の貯水槽まで汚れている。避難所の八十人に、今夜飲ませる水がない」


「汲み置きは?」


「未汚染の雨樽に残るのは、病人と乳児に煮沸して渡すわずかな分だけ。汚れた本水路の水は、沸かしても廃液の成分が残る」


私は反射的に帳簿の端を開いた。八十人。最低三リットルずつ。一晩をしのぐだけでも二百四十リットル。


腰の革袋に指を当てる。中には、まだ使われていない三滴目の封管がある。


ヴァルター儀式長が立ち上がった。


「聖女様をお呼びしろ。どこを浄めるべきか、急いで決めねばならん」


いま確かに困っている人がいる。私の涙一滴で、助けられるかもしれない。


私は照合欄から指を離した。次の一枚に、何を正しいと記すことになるのだろう。


*


午前十一時。朝の浄化に使った二つの水槽は、すでに儀式室から運び出されていた。四十リットルは診療所へ、六十リットルは広場の救護所へ。どちらも配給が始まっている。


私は三枚の記名同意票を広げる。


提供者、ニア・トーレン。どれも同じ名前だ。この一年、何滴採るか、何に使うか、私は一滴ごとに署名してきた。


三枚目の用途欄には、「本日の定例儀式用・閉鎖容器の予備」と書いてあった。


封管を取り出すと、小さなガラスの底で透明な粒が揺れた。涙は採取してから二十四時間だけ保管できる。私が朝、刺激草を使って出したものだ。あの草を目元に近づけると、意思とは関係なく涙があふれる。何度も繰り返したせいで、目を閉じてもまだ痛い。


一回の手当は銅貨二枚。今朝は三回採ったから六枚。


固定の日給は銀貨一枚で、こちらは採涙を断っても減らない。追加の銅貨六枚は大きい。冬の薪を買うために母と二人で数えている金額は、いつも少し足りない。昨夜も母は、火を落とした炉の前で毛布を一枚増やしていた。


私は指で封管の蓋を確かめた。今回も予定どおりに仕事をすれば、来週の分も名簿に載れる。


朝の儀式で、実際に水を浄めたのはイリス様だった。


私は涙を皿に落とす。それから三分以内に、イリス様が自分で指定した水の容器へ触れる。すると濁りが消え、浄化が終われば術も終わる。ただし、一度に術をかけられる水は三百リットルまで。汚水が流れ込み続ける場所では、手を離すまで術が終わらない。涙は始まりの鍵にすぎない。あくびで出した涙でも、私の涙でも、イリス様ご本人の涙でも、効き目は同じだ。


ただ、術を使うイリス様の手だけは、冷たく白くなっていた。朝の二回を終えてからもしばらく指を握り開きしていたのを覚えている。


「ニア」


声に顔を上げると、長椅子にいたイリス様と目が合った。二十二歳の聖女様は、私の赤いまぶたを見るなり視線を下げた。


気づかれたくなくて、私は同意票を重ねた。


三滴目に許されているのは、蓋をした容器に使うことだけだ。使う前なら、用途への同意を撤回できる。もっとも、撤回したところで、水が必要な人の数は変わらない。


そこへ地図を抱えたマルタが入ってきた。


「設備の話をさせてくれ。奇跡を使うなら、先に知っておいてほしいことがある」


*


午前十一時二十分。地図卓を囲んだ私たちの前で、マルタが本水路を指でたどった。


廃液は本水路へ流れ込み、南区の貯水槽と広場の大噴水、宮廷の取水設備にまで達していた。使える別の水源は遠い。他地区に頼んだ給水車が着くのは翌朝だという。


「広場と宮廷の周辺は?」とヴァルター儀式長が尋ねた。


「密封しておいた備蓄で、明日の朝までは持ちます。ただし、今夜の周辺住民に割り当てた分です。南区へ回せば、そちらが足りなくなる」


マルタが南区を指した。


「南区には一晩分の備蓄がありません。未汚染の雨樽がわずかに残るだけです」


儀式長は迷わず、大噴水を示す円に指を置いた。


「正午の公開儀式で、ここを浄めよう。民が集まる広場の水が澄めば、混乱を抑えられる。昼の公報も、その予定で作る」


儀式長は私たちが地図卓に集まる前から、広場の儀式壇を設営させていた。大きな奇跡が行われるという噂まで広まっている。


「待ってください。大噴水には閉止弁がありません」


マルタの指が、本水路と大噴水を結ぶ線をなぞる。


「上流から汚水が入り続けます。澄んだ端から、また汚れる。廃液の流入元を塞げるわけでもありません」


「途中で危険になれば、聖女様が手を離せばいい。術は止まるのだろう?」


儀式長の言うとおりだった。魔法は手を離せば中断できる。


けれど、儀式を見に集まった人たちは、途中で手を離す聖女をどう思うだろう。ようやく水が得られると信じていた人たちの前で、やめると言えるだろうか。


マルタは別の箇所を示した。


「南区の貯水槽は三百リットルを超えます。丸ごとは浄められません。ただ、側面の移送管から二百四十リットルを蓋付き水槽へ移し、切り離せば、その分だけは浄められます」


「では、すぐに取り分ければ」


私が言いかけると、マルタは首を振った。


「取水弁を閉じないと管の圧が下がらず、継ぎ手を安全に外せません。避難所の蛇口は使用禁止にしましたが、弁を閉じれば便所の洗浄水まで止まります。雨樽の配布と仮設便所の手配が、今ようやく整いました」


マルタは廊下に待つ隊員を呼んだ。


「雨樽の配布が始まったら、取水弁を閉めろ。私の権限でいい。弁は南区の外れだ。閉鎖を確認したら広場へ伝令を。分離槽の用意も進めて」


指示を受けた隊員が走る。


私は帳簿に記した。八十人、一人三リットル、二百四十リットル。最低限の飲み水と調理用だ。病人と乳児には、雨樽のわずかな水を煮沸して別に回すという。廃液の混じった本水路の水は、沸かすだけでは飲めない。これで今夜はしのげても、病人の治療も廃液の流入元の処置も終わらない。


「見えない場所で水を作って、混乱が収まるか」と儀式長は言った。「人々には救いの約束が要るのだ」


私が返事を探したとき、イリス様が椅子から立ち上がった。


地図の大噴水の印を見つめたまま、差し出しかけた手を引っ込めている。その手が震えていた。


彼女は一言も発さず、廊下へ出ていった。


私は帳簿を閉じた。あんなふうに怯えた人に、何も尋ねないまま涙を差し出していいのだろうか。


*


午前十一時四十五分。儀式室の裏の小廊下で、私はイリス様に追いついた。


「大噴水のことを聞いてから、手が震えていらっしゃいました」


イリス様は立ち止まった。


「危険なら手を離せるはずなのに、なぜあんなに怖いのか。教えていただけませんか」


「仕事の記録には、必要のないことよ」


「今から新しい儀式の記録を作ります。知らないまま書いてしまうのが、怖いんです」


窓の外から、儀式壇に板を打ちつける音がした。


「三年前も、水が汚れたの」


しばらくして、イリス様が口を開いた。


十九歳で聖女になったばかりの頃、村の水路で大きな汚染が起きた。集まった人々に囲まれた彼女は怖くて泣いた。まだ何も決めていなかったのに、宮廷はその涙を「村のために力を使うと承諾した証し」として公表した。


「泣いたのは、怖かったから。それだけだったわ」


彼女は、自分の掌を見た。


「水は次々流れ込んできた。終わりが見えなくて、手を離したかった。でも皆が見ていたの。途中でやめれば、私があの人たちを見捨てたことになる。そう思って……止めてほしいとも言えなかった」


そして限界まで術を使い続け、倒れた。三日間、手が動かなかったという。


「だから、それからは泣かないようにしてきた。涙を、私の返事に使われないように」


「今も、泣きたいときがあるんですか」


「あるわ。泣かないのは、悲しくないからではないもの」


イリス様はまっすぐに私を見た。


私は急に、自分の目の痛みが気になった。彼女が泣かないようにしている間、宮廷では毎朝、私の涙を彼女のものとして発表していた。


その公報に、私は署名をしてきた。


「イリス様は、代わりの涙が使われていることを……」


「知っていたわ。別の誰かが泣いて、その人の名を消していることも」


彼女は一息置いた。


「今日、あなたが三回も採っていたことは、知らなかった。赤い目を見ても、尋ねなかった。私が口を出せば、また誰かの負担が増えると思って、見ないふりをしていたの」


「私も知っていました。あなたが泣いていないことも、公報が嘘だということも」


彼女が泣かないことで作ったわずかな防御を、私が毎朝すり抜けていた。


「今度の公報には、大噴水の浄化を書くつもりでしょう」


イリス様が尋ねた。


「儀式長は、その予定です」


「まだ読まれていないのね」


「ええ。予定の公報にも、使用する涙と浄化の対象を原簿と照合した当番の署名が要ります。今日は私だけです」


「その文面を、私にも見せてほしい」


私はうなずいた。


彼女の代わりに断ることはできない。それもまた、他人の返事を私が書くことになる。


けれど、自分が署名する紙なら、自分の手で止められる。


*


正午。掲示前の準備室には、儀式長が作った昼の公報案が置かれていた。イリス様と私は、その同じ紙を並んで読んだ。


『聖女ご本人の涙三回。未使用の一滴により、広場の大噴水を浄化することを承諾済み』


予定であるはずの儀式に、もう承諾済みと書いてある。


イリス様の指がその四文字へ伸びかけ、紙の手前で止まった。唇がわずかに動く。けれど声は出なかった。私は返答を促しかけて、やめた。私が署名すべきかどうかを、彼女の返事に預けてはいけない。


公報はまだ広場に出ていない。だが、窓からは大噴水の前に組み立てられた儀式壇と、集まり始めた人々が見えた。聖女様が噴水を浄めるらしい――そんな声が上まで届く。


「署名を急ぎなさい、ニア」


ヴァルター儀式長は机を指で叩いた。


「三滴目は閉鎖容器の予備として同意したものです。大噴水には使えません」


「定例の予備なのだから、緊急時にも使えると解釈できる」


「開放水域への同意ではありません」


「ここで正式な予告が出せなければ、民は何を信じればいい。水を待つ者に、約束すら渡せなくなる」


声音は低かった。水不足を本気で案じているようには見えた。


「今後の採涙当番を外すことになるかもしれんな。そんなにこの仕事が嫌なら」


喉が詰まった。


記録係の本務と銀貨一枚の日給は残る。だけど採涙の銅貨二枚を失えば、母と数え直す薪の束は確実に減る。偽の公報を作った責任が明るみに出れば、この仕事に居づらくもなるだろう。


私は痛い目を閉じた。


宮廷の外では、水を待つ八十人がいる。私が拒めば救済そのものができなくなるわけではない。他の成人にも涙は出せる。ただ、誰が出したかを隠したまま「聖女の涙」と書き続けるには、誰かが原簿との不一致に署名しなければならない。


その署名を今日するのは、私だ。


「……壇上で、マルタと読み上げ役の立ち会いのもと、原簿を照合させてください」


書類は、まだ並べていなかった。署名するかどうかも口にはしなかった。


でも、無言でペンを持って渡すことだけは、もうできないと決めていた。


*


十二時十分。広場を見下ろす儀式壇の関係者席には、ヴァルター儀式長、イリス様、マルタ、公報の読み上げ役がいた。


群衆には、壇が設けられたこと以外、まだ公式の昼の予告は届いていない。大噴水を浄めるらしいという期待だけが膨らんでいる。


私は朝の公報の写し、非公開原簿、三枚の記名同意票、昼の公報案を卓に並べた。


「どうした。早く署名を」


儀式長が言う。


私は署名欄の横に、自分のペンを置いた。


「昼の公報には署名できません」


読み上げ役の手が止まった。


「朝の公報には『聖女ご本人の涙三回』とあります。でも、原簿の提供者は三滴とも私です。この公報への照合署名をしたのも私でした。嘘を正式な記録として通した責任があります」


マルタが目を見張った。イリス様は、私から視線をそらさなかった。


「それと、未使用の三滴目の同意票です。用途は閉鎖容器の予備。大噴水への使用は承諾していません」


儀式長が昼の公報案を引き寄せる。


「ならば涙の記述を外す。聖女が大噴水を浄化するとだけ告げればいい」


「それも宮廷名義の儀式予定です。予定を公表するには、使用する封管、提供者、浄化対象の照合が要ります。涙の一文を消しても、照合欄はなくなりません」


今日の当番は私一人。代わりの署名で済ませる規程はない。私に奇跡を止める権限はなくても、帳簿にない承諾を帳簿にあることにする署名は、誰も私に強制できない。


私は三滴目の封管を革袋から出した。


「この一滴の『閉鎖容器予備』という用途への同意も、今ここで撤回します。予備という言葉を拡大解釈されないように。新しい用途は、まだ決めません」


「では、南区はどうする」


儀式長は声を荒らげかけ、広場を見て抑えた。


「私が決めることではありません。私が拒否するのは、私の署名と涙の用途です」


一度口に出すと、膝が震えた。朝の公報に署名した責任は消えない。目の痛みも、冬の薪代も、これからの仕事の気まずさも残る。


マルタは原簿を見て、それから私を見た。


「……泣いていたのは、あんただったのか」


「はい」


「いま、初めて知った」


それだけ言って、彼女は黙った。広場にいる人たちが真実を知るのは、朝の公報を正式に訂正してからだ。いま私たちが立っているのは、まだ関係者しか聞こえない席の内側だった。


儀式長は昼の公報案を伏せた。


「正式な読み上げは保留だ」


群衆の期待は消えなかった。ただ「聖女がもう承諾した」という宮廷の声だけは、先に出されずに済んだ。


イリス様が椅子から立つ。


誰にも先に書かれていない返事を、今度は本人がするのだ。


*


十二時二十分。イリス様が壇の前へ出ると、広場のざわめきが静まった。


噴水の水は、薄い褐色に濁っている。その周りに立つ人々の目には、期待と疲労があった。大噴水が澄めば町じゅうの水が元に戻ると思っている人もいるだろう。


「大噴水は、浄めません」


短い言葉だった。


すぐにざわめきが起きた。前列の男が、では今夜の水はどうするのかと声を上げた。


イリス様は逃げなかった。


「大噴水は汚れた本水路につながっています。私がどれだけ浄めても、新しい汚水が流れ込む。あそこを澄ませても、南区の人たちに今夜の水は届きません」


声は少し震えていた。でも、自分の声だった。


「南区の取水弁の閉鎖が確認され、二百四十リットルの水槽が配管から切り離されてから、その水だけを浄めます。どちらかが確認できなければ、私は術を使いません」


後ろのヴァルター儀式長が何か言いかけ、やめた。


「病人の治療も、廃液の流入元の処置も続きます。今夜必要な水を優先します。大噴水を断った結果も、この量で足りなかったときの責任も、私が引き受けます」


私はあの小廊下で聞いた、三年前の話を思い出していた。イリス様は、今度も大勢に見られている。けれど今度は、人前で途中でやめられなくなる儀式を、始める前に断った。


広場に不満の声は残った。数人が噴水から目を離し、南区へ続く道を見た。今夜の水がどこへ届くのかは、伝わったらしい。


十二時半過ぎ、南区から駆けてきた隊員がマルタに報告した。


「取水弁、閉鎖確認。移送管の圧も落ちました!」


マルタはその隊員に命じた。


「分離槽に二百四十リットル取って、管を外せ。栓の封止を私も確認する」


それから私たちは広場から歩いて五分の南区搬入口へ向かった。壇の横を離れるとき、イリス様は少しだけ手を握り直した。私は、その歩幅に合わせた。


搬入口では、貯水槽の側面から延びる移送管を通り、汚水が別置きの蓋付き水槽へ流れ込んでいた。


私は水位の目盛りを見た。二百四十リットル。


隊員が継ぎ手を外し、両方の口を栓で封じる。マルタが蓋と接続部を一つずつ確かめた。


「これで、本水路とは切れた。再び汚水が入る道はない」


イリス様は水槽に近づいたが、まだ触れなかった。


儀式皿は空のまま。鍵となる涙が必要だった。


私は腰の革袋を開く。


「もう採った一滴が、ここにあります」


朝からずっと持っていた、小さな封管だ。これはすでに私の目を痛めて採ったもの。誰かが今から刺激草を使わなくても、使える一滴がある。


「私には断ることもできます。そのうえで、これを南区の水のために使いたいです」


イリス様が私を見た。


「本当に、それでいいの?」


三年前、彼女には尋ねてもらえなかったことだった。


私はうなずき、新しい同意票を取り出す。


『南区避難者用・二百四十リットルの分離水槽に限る』


封管の番号を記し、自分の名を署名した。閉鎖容器の予備と書いた古い票には撤回の記録を残してある。どちらも、原簿に保管する。


十二時五十分。私は封管を開け、一滴を儀式皿へ落とした。


三分以内に触れなければ、鍵は失効する。


イリス様は蓋の閉まり具合を一度確かめ、自分で決めた水槽の側面に手を当てた。


濁った水の中を、澄んだ帯がゆっくりと下へ降りていく。見えなかった向こう側の金具が、水越しに姿を現した。


イリス様は、浄化が終わると自分で手を離した。


指は白く、握ろうとしてもすぐには曲がらなかった。朝の百リットルと合わせて三百四十リットル。明日の公務は休まなければならないだろう。


「済みました」と彼女が言った。


涙は、一滴もこぼれていなかった。


マルタはすぐに、蓋をした衛生容器を運ばせる。午後一時十分、南区の八十人に、一晩分の応急水の配給が始まった。


幼い子の手を引いた女性は、渡された水をまず子どもの唇へ運んだ。喉を湿らせたその子は、少しだけ顔をゆるめた。雨樽から別に煮沸していた分は病人と乳児に優先して回される。


大噴水は濁ったままだ。病人が治ったわけでもない。元の水路を使えるようにする作業はこれからだ。


今夜の分は、届いた。


*


翌朝八時。宮廷記録室には、新しい公報の用紙が置かれていた。


南区には他地区からの給水車が着き、昨日の二百四十リットルは予定どおり一晩の応急分として配り終えられたという。廃液の流入元を塞ぐ作業と病人の治療は続いている。


イリス様は今日の公務を休んでいた。術で冷えた手に痺れが残り、医師が休養を指示したのだ。


私の前では、ヴァルター儀式長が訂正票の草案を読んでいた。


昨日の朝に掲示した「聖女ご本人の涙三回」は事実と異なり、本当の提供者は記録係ニア・トーレンだったこと。本人の氏名公表への同意を得て訂正すること。第三滴は本人が新たに用途を選んだ南区の分離水槽に使用され、奇跡の対象はイリス様自身が指定したこと。


私は自分の名前が公開されることに同意し、署名した。


「これを出せば、これまでの公報も調べられるでしょうね」と私は言った。


「原簿は残す。私が公報の責任者だったことも、消せん」


儀式長は訂正票の末尾に署名した。


私は返事をしなかった。これまでの署名が、私のものだったことも変わらない。


ただ、渡された今日からの公報用紙には、昨日まであった欄がなくなっていた。儀式長が今朝から改めた様式だという。


『聖女本人の涙の回数』


毎朝埋めていたあの欄が、ない。


代わりにあるのは、浄化した水の量、配分先、聖女の休養予定。供涙者の名前と同意票は非公開の原簿に残すが、他人の涙を聖女のものとして公表する欄はもうない。


私は採涙当番を今後辞退すると伝えた。


昨日の三回分の銅貨六枚は、きちんと一度だけ受け取った。三滴目を別の用途に書き直したからといって、もう一回分の手当が付くわけではない。記録係の日給、銀貨一枚は残る。でも今日から、採涙手当はない。


帰ったら母と薪代を数え直さなくてはならない。これから寒くなる。嘘への署名をやめたからといって、冬まで暖かくなるわけではなかった。


書類を片づけていると、休養室から来た医療係が封をした小さな紙を差し出した。


イリス様からだった。


私の赤い目はどうか、今日は刺激草を使わずに休めるのか。尋ねているのは、その二つだけだった。


私は新しい公報をもう一度見て、医療係に返事を託した。


今日は採涙しないこと。記録係の仕事だけをすること。そして、イリス様の手の具合はどうか、休養の予定を自分で決められているかを尋ねた。


しばらくして医療係が戻ってきた。イリス様はまだ指が痺れているが、今日は誰にも水槽へ触れると約束していない、と伝えてくれたという。


私はまだ少し痛む目を、ゆっくり瞬かせた。


新しい用紙の「本日の報告」に、ペンを走らせる。


昨日までなら、最初に涙の回数を書いていた。


今日は、誰が何を選び、どの水を誰に渡したかを書く。


聖女様が泣いたかどうかは、どこにも記入しなかった。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


聖女が泣いたかどうかではなく、誰が何を選んだのか。そんな一日を描きたくて書いた物語です。


ニアとイリスのその後を、もっと読んでみたいと思っていただけたでしょうか。もし長編化を希望される方がいらっしゃれば、感想でひと言教えていただけるとうれしいです。短編として楽しんでくださった方にも、心から感謝しています。


お読みくださり、本当にありがとうございました。


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